希ちゃんの様子がなんだかおかしいような気がしたのは、六十三日目。もこちゃんがみんなの前で「夢の超人タッグトーナメント」に出たときの話をしていた、朝の食堂でのことだった。
 もこちゃんはこの日もみんなの輪の中心にいた。
 プロレスラーのもこちゃんにはきっと、人を惹きつける天賦の才があるんだろう。豊かな表情と大きな身振り手振りを交え、臨場感たっぷりに話すもこちゃんに私達の感情は揺さぶられ、場面が変わる度に笑ったり泣いたり怒ったりした。食堂の灯りはもこちゃんたちを明るく照らしていて、そこには一つの翳りもなかった。
 もこちゃんは人と人との間にあるささくれを、綺麗にしてくれる人だと思う。それか、空気清浄機みたいな人。風通しのよくなった私達は、かつてあんなにギスギスしていたのが信じられないくらいに、一緒に笑い合っていた。
 子犬を救うために新幹線を止めたっていう、超人オリンピックの話。預言書を燃やされて王子を失いかけた王位簒奪戦。もこちゃんの半生はどこを切り取ってもきらきらしていた。もこちゃんの言葉で彩られた過去は手に汗握るような切迫感を持って私達の前に並べられた。
 ――だから、あれ、って思ったのだ。
 希ちゃんだったら、そんなもこちゃんの隣でにこにこ笑いながら彼女の話に相槌を打つはずだって思ったから。
 希ちゃんは、もこちゃんを囲うようにできた私達の輪の中には入ろうとしなかった。
 輪から少し離れた席で一人ぽつんと座って、どこか思案気な顔つきでもこちゃんの顔を窺っていただけだった。








「希ちゃん」



 川奈さんと過子ちゃんに引っ付かれて食堂を出て行ったもこちゃんの後ろ姿を、何も言わずに見送る希ちゃんに声をかけた。



「……あ、ちゃん」



 反射で貼り付けたような微笑を浮かべる希ちゃんに、私も笑顔を返す。希ちゃんの前に置かれた食器は、まだ半分くらいリゾットが残っていて、希ちゃんはそれを持て余しているみたいだった。



「私もここで食べていい? みんな食べ終わっちゃったみたいで、さみしくて」

「うん。勿論いいよ」



 よかった、って、彼女の前の席に座る。今馬くんが厄師寺くんを刺した朝に座っていたのと同じ席だなって思考の隅っこで思ったのは、私の今朝の食事が今馬くんメイドの創作ご飯だったせいだろう。(食堂に来て早々、「あ、自分、先輩の分作っといたんで」って差し出された、マヨネーズケチャップ茶漬けだ。食べられないわけじゃないけど、濃厚なオーロラソースとお茶漬けが絡み合って、口に入れる度に脳が混乱する)。
 希ちゃんは奇っ怪な色をした私の丼の中身を一瞥すると、「今馬くんか、過子ちゃん?」って、遠慮したような声で尋ねてくれた。



「これはねえ、今馬くん」



 善意なのか悪意なのか判断できなくて困ったけど、でも、いつもより食が進まなかったおかげでこうして希ちゃんのところに自然な感じで来られたから、今馬くんには感謝したい。
 ――希ちゃんは、やっぱりどこか心ここにあらず、って感じだった。
 逼迫した寂しさの結晶が詰まった目。最近の、もこちゃんの看病に躍起になっていた希ちゃんが見せなかったそれは、どうしてか私達が第二防衛学園を去るときのことを思い起こさせた。
 食堂からは、少しずつ人がいなくなっていった。銀崎くん。くららちゃんと狂死香ちゃん。蒼月くん。厄師寺くんと丸子くん。飴宮さん。面影くん。それから、最後に食堂に来たせいでみんなよりも食べるのがちょっとだけ遅かった澄野くんも(ちらりと希ちゃんを見てから食堂を後にした彼は、もしかしたら私と同じように、希ちゃんの様子を気にかけているのかもしれなかった。「カルアさん」とは別人って、彼の中で既に割り切っていたとしても)。
 私達は二人きりだった。
 ぎこちない沈黙が、私達の間に落ちている。水槽を悠々と泳ぐ魚の尾が、くるりと翻る。遠くで聞こえた誰かの声。食堂だけが、取り残されたみたいに静かだ。
 ――もこちゃんと何かあったの?
 そんな風に聞いたら、やっぱり、急すぎるだろうか。
 でも、やっぱり希ちゃんがあんな風にもこちゃんのことを遠巻きに見るのって、なんだか変な気がした。もこちゃんがみんなと打ち解けられるように見守っているんだとしたら、あんな難しい顔をする必要はないわけだし。
 一昨日もこちゃんが目を覚ましたときは泣いて喜んでいたことを思えば、昨日何かがあったんだろうか? だけど、それにしてはもこちゃんの方がそういう気配を滲ませていない――。
 白くてすらりとした希ちゃんの手の中で、部屋の灯りを受けたスプーンの銀色が星みたいに瞬いている。喧噪の遠のいた二人きりの食堂は、空気が持つ重力がどんどん重くなっていくような気がする。
 とりあえず、どうでもいい話からして場を和ませようかな、と思って「そういえば冷蔵庫に……」って言いかけたときだった。私の言葉は、希ちゃんの声に遮られた。



「ねえ、ちゃん」



 意を決したような声色だった。
 顔を上げたときの、希ちゃんの、迷うような目。珍しいなって思った。だから、希ちゃんの言葉がすぐには頭に染みこまなかったのかもしれない。「もこちゃんの、こと、なんだけど……」少しずつ小さくなっていく語尾に、紛れるように吐き出されたそれ。



「…………もこちゃん、ちょっとだけ、変じゃない?」



 へん。
 ――へん?
 どれくらいの間を開けてしまったのか、自分でも判然としなかった。
 でも、私の表情を見た希ちゃんが、ああ、って思ったのだけは分かった。



「…………もこちゃんが?」



 私が口にした言葉に、希ちゃんは何秒かの沈黙を作って、それから「…………ううん、ごめんね。わたしの気のせいだと思う」、って笑った。希ちゃんの笑顔は、いつもより少しだけぎこちなかった気がした。








 変、って言うのは、例えば昨日のことだろうか?
 くららちゃんや厄師寺くんが、模擬戦をしないかともこちゃんに提案したときのこと。
 あれは、昨日の朝だった。もこちゃんが侵校生に連れ去られていた間のことは何も覚えていないって言った後。
 第二防衛学園にいたときから異種格闘技としてもこちゃんと手合わせをしていたくららちゃんは、もこちゃんがいなくなったとき、「勝ち逃げなんて許さない」って言っていた。だからもこちゃんが戻ってきて無事に目を覚ました今、あのときの雪辱を果たしたいって思うのは当然で――でも、もこちゃんはそれを断ったのだ。



「体調がまだ本調子じゃなくって、身体が思うように動かないのよ」



 きっと、長い間寝ていたせいで筋肉が落ちちゃったのね。だから、ごめりんこ。って。
 勿論希ちゃんの言いたいことも、わからないわけじゃない。だってもこちゃんは普段から「いつ何時誰とでもリングに立って戦うのがレスラーよ」って言っていたし、それで言うなら今回だってくららちゃんや厄師寺くんの誘いを断らないはずだった。――でも、今は状況が状況だ。一ヶ月もの間侵校生に捕らわれていたもこちゃんは、つい数日前まで昏々と眠り続けていた。流石のもこちゃんでも、今回ばかりは「いつ何時誰とでも」なんて言ってられないんじゃないだろうか。
 それに、「大急ぎでコンディション整えるから、もうちょっとだけ待ってて。復帰したら手加減しないわよ」とも言っていたし。それだけで「変じゃないかな」って違和感を覚えるのは、なんていうか――。



「……あれ? ちゃんじゃない!」



 そんな風に考え事をしながら校内を散策していた時、不意に声をかけられて「わっ」って声をあげてしまった。
 三階の、丁度、防衛室の前の廊下だった。防衛室に続く部屋の扉から出て来たのはもこちゃんで、丁度もこちゃんのことを考えていたせいもあって、なんだかドキドキしてしまう。



「わー、もこちゃんか! びっくりした……!」

「や~ん、びっくりさせちゃった!」

「あれ、もこちゃん、ひとり? 防衛室の見学してたの?」

「……あ、ええ、そうよ! 過子ちゃん達とは、さっき別れたの」



 もこちゃんは私にばちんってウインクをすると、目線だけで防衛室へと続く部屋の扉を振り返る。
 その横顔を見ていた。ふっくらした頬。世界をまるごと映すみたいな大きな瞳。がっしりとした体躯も、編まれた髪も、何も変わっていない。それに、私は確かに安心する。



「アタイ達が守っていた第二防衛学園が囮だった……っていうのは話には聞いていたけど、最終防衛学園の防衛室はどんな感じなのか、この目でチェックしに来たのよ」

「ええ、すごいねえもこちゃん。さすが……」

「もう! 褒めたってチョークスリーパーしか出ないわよ! ……っていうか、ここも消えない炎で守られているのね。びっくりんこだったわ。……あれって、玄関ホールの消火器でも消えないのかしら?」



 尋ねられて、小さく頷く。この学園の玄関ホールには、私達の乗ってきたバスについていたのと同じ消火器が二つ置かれていた。



「ああ、私は試したことないけど……川奈さんが前にやってみたって言ってたかな? あそこの炎は学園の外の炎と違って、消火器じゃ消えないみたいだよ。不思議だよねえ」

「ふーん……」



 もこちゃんの目は、何かを確かめるみたいに防衛室の方へと向けられていた。やがてそちらに背を向けたもこちゃんの隣を歩く。もこちゃんの影は、私の足を飲み込んでいる。
 防衛室前の廊下からは、丁度間反対の場所にある作戦室と保健室の間に渡り廊下が伸びていて、そこからは二階の中庭が覗き込める形になっていた。
 学園の外の、荒廃した大地をどれだけ歩いても見られないような緑が、そこには広がっている。咲き誇る花々も、木々も、生き生きと輝いている。その中に置かれた二つの檻は、ここから見てもやっぱり異様だった。黄緑色の帽子が、ぴょこぴょこと動き回っているのを見る。銀崎くんは、日々献身的に「捕虜さん」のお世話をしている――。



「銀崎くん、すごいよねえ」



 もこちゃんも檻を見下ろしているのに気がついて、そう言った。もこちゃんは、ちょっとぼんやりしていたのかもしれない。「……え? あ、ああ、そうね。銀崎君の優しさは賞賛に値するわ。誰にでも真似できることじゃないわよ!」、と続けると、筋肉のしっかりついた逞しい腕を組んで頷いた。……筋肉、もこちゃんは長く寝ていたせいで落ちちゃったって言っていたけど、私から見たら全然わからなかった。私の知っているもこちゃんそのものに見えた。
 ついそんな風に観察してしまうのは、希ちゃんの言葉がぺったりと耳に張り付いたままだからだろうか。
 へん。
 希ちゃんがもこちゃんをちょっと変じゃないか、って言うのは、やっぱりもこちゃんが、もこちゃんも知らないうちに敵に何かされているんじゃないか、ってことなのかな。――それとも、何か隠しているように見える?
 中庭を見下ろすもこちゃんの横顔を、そっと見る。メイクの施された、ふっくらした頬。優しげな丸い瞳は澄んでいて、見た目からだけじゃ私には、記憶の中のもこちゃんとの違いがわからない。でも、でも、そうだな、そういえばもこちゃん、今日も、ご飯が軽かった気がする。お肉、食べてなかった。確かにそれは、もこちゃんらしくないような――。
 思考の方向が、微かに指針を変えようとしていたときだった。
 「きれいね」って口にしたもこちゃんが、小さく鼻を啜ったのは。
 びっくりして、顔をあげた。もこちゃんの声は、どこまでも優しくて、柔らかい。



「…………NIGOUちゃんも、ここにいてくれたらよかったのに」



 その言葉に、息が詰まる。



「アタイが守ってあげられたら良かった。…………第二防衛学園がなくなっちゃうなんて、思ってなかったわ」



 微かに水の膜を張った瞳が、私には、同じものを見ているように見えたのだ。
 言葉を出せずにいる私に、もこちゃんは「……なんて、湿っぽくなっちゃったわね! ごめりんこ!」って笑うと、「そろそろ行きましょっか、ちゃん。アタイ、他にも見たいところがあるの。案内してくれる?」って、私に手を差し出してくれる。反射で触れてしまったその手の感触の、温度の、なんて懐かしいことか。ぱちん、って、電気が通ったみたいだった。



「…………うん」



 光の塵が舞っていた。私はそれが、その時、希ちゃんと三人で階段を駆け下りたあの日の輝きと、同じもののように思えていた。


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