「でも、ほんとによかったねえ」
希ちゃんがもこちゃんとの再会を果たしてから一夜明けたその日の食堂の雰囲気は、それはもう和やかなものだった。
もこちゃんが東京団地でのプロレスラーとしての過去を面白おかしく語ってくれたおかげで、初対面のみんなとも物凄く盛り上がったのだ。……飴宮さんだけは、「みんなが楽しそうにしているのを見て鬱んなる……そんな自分に自己嫌悪で鬱んなる……」って暗い顔をしていたけれど。
もこちゃんは(病み上がりのせいか、彼女にしては随分軽めの)食事を終えると、「第二防衛学園とほとんど同じみたいだけど、色々見学してくるわね。いざって時に困らないように!」って、食堂を出て行った。希ちゃんと狂死香ちゃん、彼女の武勇伝に薫陶を受けた過子ちゃん、それからなんだかんだ過子ちゃんが心配らしい今馬くんがついて行ってくれたから、ぞろぞろ連れ立つのもな、と思って、私は遠慮することにした。
それで、私と面影くん以外の人のいなくなった食堂で、二人で食後のお茶を飲みながら、もこちゃんが無事に目を覚ましたことを喜びあっている。
巨大水槽の中で揺らめく小さな魚影を視界の端に入れて、深く息を吐いた。「もこちゃん、元気そうだし、安心した」って、あったかいカップを両手で包み込んで。
「ふふ。……あっという間にみんなに馴染んじゃったし、殺っぱりもこちゃんはムードメーカーだよね」
「ね、なんか嬉しくなっちゃった」
「これがちゃんだったら……私達の背中から出て来なそうだけど」
「うん、出て来れないかも」
実際、知らない人達に囲まれていきなり自分らしく振舞えって言われても、私には無理な話だ。
そう考えると、やっぱりもこちゃんってすごい。明るくて、にこにこしていて、感じが良くて、みんなのことをよく見ている。
もしも私達が第二防衛学園からこの最終防衛学園にやって来た時にもこちゃんがいたら、あんな風にギスギスすることはなかったんじゃないだろうか。くららちゃんが銀崎くんに決闘を申し込んだり、ちょっとした言葉選び一つでお互いに過剰反応したりするようなこともなかったかもしれない。これまでの積み重ねを否定する気はないけれど、もこちゃんがいたらどうなっていたかを想像するのは、ちょっとだけ楽しかった。
「……でも、敵に捕まっていた間のことを何も覚えていないなんてね」
少しずつぬるくなり始めたカップを手に、面影くんはそう言って目を伏せるから、浮かべていた笑みを消して、小さく頷く。「うん」って呟いた私の声は、少しだけ掠れている。
――もこちゃんは、侵校生達に捕まった後のことを何にも覚えていなかった。
侵校生に連れ去られた後はずっと頭がボーッとしていて、捕まっていた施設がどこにあるのかも、何をされたのかも、どうやって逃げ出したのかも覚えていないんだって。最終防衛学園に辿り着いたのも、運が良かったから、らしい。
「――きっと、第二よりも最終防衛学園に近いところに捕まってたんだろうね」
だから、この学園に来られたんだよ。そう続けた私に、面影くんは緩く、その唇を引き結ぶ。
「外から消えない炎を通ってくるときだって、偶々学園に侵入しようと炎の壁に穴を開けていた侵校生を一人で倒したんでしょ? ……もこちゃんって、やっぱりすごいなあ」
「…………そうだねえ」
面影くんの相槌に、そっと息を吐く。じわじわと広がる温かい感触に、そっと目を細めた。
「無事に目が覚めて、ほんとに良かった」
丸子くんとかは、侵校生になんかされたから一週間も眠ってたんだ、なんにもされてないなんてそんなことあるわけない、って言うけど、きっと、物凄く疲れがたまっていたに違いない。
侵校生の弱点や情報とか、そういうのを掴んでこられたわけじゃないことをもこちゃんは謝っていたけれど、もこちゃんが無事に帰ってきてくれたのなら、それだけで充分だったのだ。
「心配事が一個なくなって、私もうれしいなあ」
そう笑ったら、面影くんもそこで、微かな笑みを浮かべてくれた。「ちゃん、心配事、まだあるの?」って、見えない線の場所を探るみたいに、彼は言う。
テーブルについた肘。両指を顔の前で組んだ面影くんは、微かに首を傾げる。どこまでが触れて良い場所なのかを探りながら、面影くんの目の色は私をまるごと飲み込もうとでもしているみたいに深かった。
あるよ、って、喉元まで出かかった言葉が引っかかる。だって、「捕虜さん」のことが気にかかっているなんて言ったって、特防隊としての方針が既に決まっている以上あんまり意味がない。
「考えても分からないことは考えたって仕方がない」のだ。だから、私は自分なりに考えるだけ。私達と部隊長の違いを、外の遠いところから眺めているだけ。
それに「捕虜さん」のことは、銀崎くんがちゃんと見ていてくれている。ご飯のお世話だけじゃなくて(お肉は絶対に口にしないみたい。ベジタリアンなんですかね、って銀崎くんは言っていた)、排泄物の処理までしてあげている、って聞いたときは、川奈さんと一緒に「ええ……」って言っちゃったけれど。でも、とりあえずはこのまま様子見を続けるしかないのだ。
面影くんは眼帯に覆われていない方の右目をそっと細めると、「まあ、でも、私はやっぱり解剖して中身を調べちゃいたいけどね」って、不意に呟いた。……「捕虜さん」のことで悩んでいるなんて、私は一言も口にはしていなかったのに。
「銀崎君が彼女に入れ込みすぎなのも、気になるし」
びっくりして「えっ」って声をあげて固まる私に小さく笑うと、面影くんは「さて、私もそろそろ行こうかな」って立ち上がった。
カップを下げようとするのを、「私がやっておくよ」って慌てて止める。入れ込みすぎ。面影くんが発した言葉を脳内で反芻させて、どういう意味か考えようとしたけれど、「そう? ……じゃあ、お願いしようかな?」って薄く笑みを向けられて、全部どこかにやってしまった。「ありがとう」って真っ直ぐお礼を言われて、くすぐられたような気持ちになってしまったのだ。
「えっと、お、面影くんは、今日も生物薬品室?」
照れてしまったのを隠すように尋ねた。
本当に、なんてことない会話のつもりだったのだ。日中の時間のほとんどを、彼が自室かそこで過ごしていることを知っていたから。
でも面影くんは、「ううん?」って緩く首を振る。それで、着物の合わせ目の部分にそっと手を差し込むと、そこから取り出した何か小さなものを見せてくれた。
くすんだ色の、ほんの指先くらいのサイズのものだった。
――なんだろう。石だろうか? 首を傾げる私に向けられた、まるで内緒話でもするみたいな、小さく掠れた声。
「ちょっと作りたい物があるんだ」
つくりたいもの。
思わず繰り返した私に、面影くんは一層笑みを深めた。
石で作るものってなんだろう。
石の斧? 庭石。……墓石? でも、指でつまめるくらいの、ものすごく小さな石だった。あんなもので作れるようなものなんて、私には思いつかない。
そもそもピンとこないのは、プレゼントマシーンのある娯楽室にほとんど足を運んだことがないせいもあるのかもしれなかった。日々いろんなことで頭を悩ませるあまり、何か作ってみようなんて気も起きなかったから。解熱剤が作れるってことだって、一昨日初めて知ったくらい。
もしかしたら、色々便利なものもあるのかもしれないなあ、って、誰もいない図書室で本を読みながら考える。澄野くんは過子ちゃんにスクーターを作っていたし、蒼月くんだって、なんとかっていう本をプレゼントマシーンで作ったってこの間教えてくれたし。私も今度覗いてみようかな――。
「………………う~ん?」
だけど雑念を抱いたり、考え事をしながら読む読書は、全く頭に入ってこないものらしい。
どこから分からなくなったのかも分からなくて、章の頭に戻ろうとページを戻したときだ。図書室の扉が開いて、「あれ?」って、柔らかい声がしたのは。
つい最近もこんなことがあったな。そう思ったのは、その声が蒼月くんのものだったからだ。
本を数冊抱えた蒼月くんは、「やあ、さん。この間の本は読み終わった?」ってなんてことない風に尋ねるから、まさかまだ一冊目の半分にも到達していないなんてことは言えなくて、つい視線を泳がせてしまう。でも、かと言って嘘も吐けない。ちょっと迷ってから、「実は、全然読めてなくて……」って言った私に、私の座っていた席の斜向かいの椅子を引いた蒼月くんは、少しだけ眉尻を下げて笑った。
「……はは。まあ、ここ数日色々あったしね。元々さんはあんまり本を読まないって言ってたし、それだけ進んだら上出来じゃないかな?」
「そ、そうかな?」
「うん。それにその本、この間持っていったうちの二冊目でしょ? 一冊読み終わったなら充分だよ」
「…………えっと……一冊目……」
「えっ…………」
気まずい沈黙がいたたまれなくて、「ちょっと、難しくて」って口にしたけれど、言い訳みたいに響いてしまったような気がした。
だけど、蒼月くんは優しいのだ。「そっか……」って気遣うような声を漏らすと、眼鏡の奥の目を優しく細めてくれる。
「じゃあ、ボクで良かったら、なんでも聞いてよ」
教えられることだったら、なんでも教えるからさ、って。
どうしてわからないの、なんて、彼は言わない。ねめつけるような目で見たりもしない。毛布をかぶっていても聞こえるような声で怒鳴ったりしない。
不意に自分が引きずりこまれそうになっていることに気がついた。蓋をしたはずのかさぶたを、自分自身でひっかいていた。天井でゆるく回り続けていたシーリングファン。あそこに頭を差し出せば、人間は簡単に死んだりしないのかなって、幼い私は思っていた。
ふと我に返って、蒼月くんを見る。斜め向かいの席。橙のランタンの明かりに照らされた、白い肌。私達の周囲には夥しい数の本が並んでいて、東京団地はこの地面の下にある。
意識が別のところに行っていたのを気づかれないように、「あ、じゃ、じゃあ」って、本を彼の方に差し出した。
東京団地の言語について。
「あのね、ここの意味がわからなくてね」
わからないなんて、あの日のきみは言えなかったよね。
私の指したページを見るのに少しだけ身を乗り出して「うん、どれ?」って口にする蒼月くんは、呼吸の音すら優しかった。