半分くらいうたた寝をしていた時だった。閉ざされていたもこちゃんの目蓋が、僅かに動いたのは。
昼を過ぎた頃だった。空を覆う雲はどんどん厚くなっていた。窓から差し込むのは茫漠とした微かな光だけで、部屋は少し肌寒かった。雨が降ろうとしているのかもしれない。探索に出かけた希ちゃんと澄野くんは、まだ帰ってくる気配がない。
私が目を開けたのは、薄く発光する目蓋の裏に何かが動く気配を感じたからだ。ベッドのスプリングが軋む音がした。うとうとしていたものだったから、私は一瞬、自分がどこにいるのかもわからなかった。
だけど、その身体を起こしていたもこちゃんが、不思議そうに周囲を見渡した後、私の顔を見たから。
「………………ちゃん?」
懐かしい声で名前を呼ばれたその瞬間、頬を殴られたような衝撃があったのだ。
――夢かと思ったけれど、夢じゃなかった。
もこちゃんは確かにそこにいて、はっきりと私の名前を呼んだ。
丸くて大きな瞳は十日間も眠っていただけあって流石に少し気怠げだったけれど、「もう、そんなびっくりした顔で見ないで」って笑うもこちゃんは、私の記憶の中にいるもこちゃんと寸分も狂いなくて、それで、やっと、身体の力が抜けたのだ。
「も、もこちゃん」
おそるおそる、ベッドの上に放られたもこちゃんの手に触れる。
柔らかい手の甲は、希ちゃんがハンドクリームを塗ってあげていたらしくて、しっとりしていて、なめらかだった。熱は、ない。そっと触れた額は汗ばんでいたけれど、それだけだ。仄かな体温を発する、もこちゃんの身体。生来の、桃色の爪。生きている。ここにいる。お話ができる。たったそれだけで、目の奥が熱を持つ。
「もこちゃんだ~……!」
もこちゃんは私の手を握り返すと、「もう、泣かないでよ。泣いたらちゃんの可愛いお顔が台無しよ?」って言った。少しだけ掠れた声だった。つい、首を振る。「だって、もこちゃん、ずっと寝てたから」って、滲んで弱々しい声が、もこちゃんの部屋に積もっていく。
「やだ、アタイったらそんなにずっと寝てたの? 道理で絶好調中畑清なわけね! 今だったら、電流爆破デスマッチだって余裕のよっちゃんよ」
だから、安心して。そんなもこちゃんらしい言葉に、堪えきれなかった涙が落ちた。だって、ずっと聞きたかったのだ。もこちゃんのそういう、底抜けに明るい言葉達が。
――もこちゃん。もこちゃんだ、って、思った。豊かな表情を作る、ぱっちりとした瞳。十日の昏睡をもってしても衰えている様子のないその身体に、本当は、抱きつきたくてたまらない。
「よ、よかった、よかったよお。もこちゃんが、目、覚ましてくれて。希ちゃんがね、ずっともこちゃんのお世話をしてくれてたんだよ。今も、もこちゃんの熱が下がらないからって、解熱剤の材料を探しに外に出てて……」
「やだ、希ちゃんが?」
「そう。……あー、希ちゃんがいたら、絶対喜ぶのに。もこちゃんのこと、希ちゃんが一番心配してたんだよ。勿論くららちゃんも狂死香ちゃんも、面影くんも、他のみんなも……」
そこまで言いかけて、我に返った。「そうだ、くららちゃん達!」、って、声をあげて椅子から立ち上がる。
「もこちゃんが起きたって伝えてこなきゃ! 私、三人のこと、呼んでくるね!」
「え? アタイ、もう動けるわよ?」
「だめだめ! もこちゃんはベッドにいて! 大丈夫でも、まだ安静にしてなくちゃダメだよ」
もこちゃんの言葉に大慌てで首を振ってから、「すぐ戻ってくるからね!」ってもう一度念を押して、もこちゃんの部屋を飛び出した。
日差しは雲に遮られて空はどんよりと重たいのに、清々しい気持ちだった。いつもは感じない独特な空気の匂いは、もしかしたら雨が近いせいなのかもしれない。だけど心は晴れやかだった。
だって、もこちゃんが目を覚ましてくれた!
あの日、私達のために身代わりになってくれたもこちゃん。侵校生に捕まって、もう二度と会えないんじゃないかって思った。私達の前にこうして再び現れてくれたとき、どれだけ嬉しかったか。やっと目を覚ましてくれた。またお話ができる。一緒に戦える。そう思うと胸がいっぱいになって、走り出してしまいたくなる。
隣接する面影くんの部屋のインターフォンを押しながら、逸る気持ちを抑えていた。きっと面影くん、びっくりするだろうな。希ちゃんと澄野くんも早く帰って来たら良いのに。だってずっと看病していたのだ。目が覚めたって知ったら、希ちゃんだって、どれだけ喜ぶだろう!
想像したらますます嬉しくなって、内側から扉が開かれたその瞬間に、「面影くん!」って、彼の着物の袖を引いてしまった。
いつもは滅多に動じない彼の瞳の中に、喜びを隠しきれない私がいた。
「もこちゃん、みんなのこと連れてきたよ!」
「もこ! 大丈夫!?」
「もこ殿、目を覚ましたって本当でござるか!?」
「こらこら三人とも。もこちゃんは病み上がりなんだから、静かにね?」
ベッドに上半身を起こしたもこちゃんは、「みんな……! 久しぶりね、元気だった?」って駆け寄った私達を順々に見ると、その眦を細める。その様子を見て、みんなもほっとしたのだろう。くららちゃんは「はあ……このアタシに心配させるんじゃないわよ……!」って肩の力をわかりやすく抜いたし、狂死香ちゃんは「も、もこ殿ぉ~……! 会いたかったでござる~!」って、全ての言葉に濁点がつきそうな声色で、もこちゃんの足にすがるみたいにベッドサイドに膝をついた。面影くんはしげしげともこちゃんの顔を見つめて「うん、元気そうだ。安心したよ」と微笑んで、私も「ね、良かったぁ~」って、改めて胸をなで下ろした。
一気に人口密度の濃くなった一室は、だけど和やかな空気に満ちている。
「心配かけちゃってごめりんこ。でも、アタイはもう大丈夫よ」
ベッドの上でウインクしながら言うもこちゃんに、くららちゃんが微かに身を乗り出した。
「本当に……? アンタ、信じられないくらい眠ってたのよ」
「十日間もだもんね……」
「心配したでござるよ! 拙者、願いが叶う七つの玉を集めに行こうかと思っていたくらいで……!」
「やだ、みんなにそこまで心配してもらっちゃって、マンモスうれぴー! でも、本当に大丈夫よ。たくさん寝たおかげで、お肌もツヤツヤなんだから!」
肌荒れの一切ない頬に手を添えながら笑うもこちゃんは、本当に、十日も眠っていたとは思えないくらいに元気そうだった。プロレスラーだからなのか筋肉も衰えることなく健在のようだし、「もう動ける」って言うのも、本当だったのかもしれない。
みんなも、ほっとしたように笑っている。ずっと張り詰めていた緊張が、今やっと緩んだみたいに。――それが嬉しかった。
穏やかな空気の中、くららちゃんが丸椅子に座り直した。足の軋む音が部屋に響いて、自然と彼女に目が行く。
「でも、折角もこが目覚めたっていうのに希がいないなんて……タイミング悪いわね」
「ああ、澄野君と一緒に解熱剤の材料を取りに行ったんだっけ?」
「うん、朝会ったんだけど、そう言ってたよ。すぐ帰ってくると思うんだけど……。でもなんか天気も悪くなってきたし、心配だな……」
雲の覆う窓の外を窺いながら言った言葉に反応を示したのはくららちゃんだ。「っていうか、澄野と二人っきりで行くなんてどういう了見なわけ? 希、何かあの男に弱みでも握られてるんじゃないでしょうね……?」と苛立ちと心配の混ざった声色で腕を組むくららちゃんは、まだ澄野くんのことを信用しきっていないらしい。希ちゃんを預けるには、っていう意味が込められているんだろうけれど。
「弱み? それってエ、エッチなヤツでござるか!?」
「澄野くんがそんな人なわけないじゃん……!」
「騙されるんじゃないわよ。澄野みたいな男なんてね、結局自分の肉欲のことしか考えてないんだから! 頭ん中ひらいたら真っピンクよ! 面影を見なさいよ、歩く猥褻物じゃない!」
「うふふ……心外だなあ」
「なんで嬉しそうなの……?」
「……澄野君?」
もこちゃんに少しだけ首を傾げながら言われて、「あ」って声を出す。
消えない炎の内側までどうにかしてやって来た後意識を失ってしまったもこちゃんは、最終防衛学園のみんなのことはまだ知らないだろう。説明しようとして、でも、言葉に詰まる。私達が特防隊の任を与えられて、十日目で戦線を離れることになってしまったもこちゃんに、どこから説明したらいいのか分からなかったのだ。
でも、もこちゃんは「もしかして、あの赤い髪の男の子かしら? 喋った記憶があるわ」って言った。もこちゃんがこの部屋に運ばれて、長い眠りにつく直前、そういえば、希ちゃんと澄野くんは一瞬だけ目を覚ましたもこちゃんと会話ができたって話していたっけ。「そう、赤い髪の子。澄野くんっていうんだよ、澄野拓海くん」って口にした私に、もこちゃんは「ふうん」って笑う。
「帰って来たら、二人にお礼言わなくっちゃ!」
私達のよく知る、おおらかで優しい女の子。
まだ昼を過ぎたばかりだって言うのに、雲のたれこめた空は重く、重なったそれに耐えきれなくなった雨粒が窓を叩き始めていた。そんな中で、もこちゃんの笑顔のなんて明るいことだろう。
向日葵がぱっと開いたような懐かしいそれに、本当は少し、泣きたかった。
その夕、雨は勢いを増して、遠い空を雷が走っていた。
バケツをひっくり返したような土砂降りの雨で、希ちゃんと澄野くんは足止めを食らってしまったのだろう。薬の材料を見つけてきた二人が戻ってきたのはその翌朝で、もこちゃんが食堂で、彼女と面識のなかった最終防衛学園組であるみんなと顔を合わせていたときのことだった。
もこちゃんの目が覚めたことを知った希ちゃんは、憚ることなく、泣きながら彼女に抱きついた。「もこちゃん、よかった、本当によかったよー!」って、気丈な希ちゃんにしては珍しく、声を震わせて、大粒の涙をぼろぼろ零して。希ちゃんのことをそっと抱きしめ返したもこちゃんも、涙で滲んだ声で、「希ちゃんのおかげだよ」って言うから、それを見た厄師寺くんが男泣きするのにつられて私まで泣いてしまったのだ。
だから、良かった、って思った。
全部、全部大丈夫、って。何もかも、きっと上手くいくって。
この先に何があるのかも知らないで。
昨日雨を降らせていた雲はもう遠くに行っていたけれど、空を割ったあの稲光だけが、どうしてか今も目に焼き付いている。