もこちゃんの熱は、まだ下がらないらしい。
風邪を引いたときとか、高熱で苦しんでいるときの自分とは、ちょっと雰囲気が違う。私なんかは熱が出ると寒くて寒くて仕方なくて、ガタガタ震えながらありったけのお布団を頭のてっぺんまでかぶって、冬眠中のクマみたいに丸くなる感じだけど、もこちゃんはそういう様子もなく、静かに目を閉じていた。寝息も穏やかで、顔色も悪くない。ただ違うのは、額に触ったときに物凄く熱い、ってことだけ。
昨日の朝、食堂で出会ったときは「きっともうすぐ目を覚ますよ」って言っていた希ちゃんも、二日も熱が続いていることを心配していた。
「ちょっと、何か考えないといけないかも……」
思案げにその視線を落とす希ちゃんと熱で苦しむもこちゃんに、一体何がしてあげられるだろう。思いついたことと言えば高熱を出したときの私にお母さんがしてくれたことくらいで、それで、食堂に向かって、冷蔵庫にあった保冷剤をタオルハンカチで包んだものをもこちゃんのところに持っていった。額に乗せるだけじゃ落ちちゃうかなと思ったけれど、ほとんど身じろぎもせずに眠り続けているもこちゃんのおでこは安定していて、保冷剤入りのタオルもぴったり収まる。
「わぁ。ありがとう、ちゃん」
「ううん、ごめんね、なんか、全然なにもできなくて」
「そんなことないよ。こうして気にかけてもらえて、嬉しい。もこちゃんだって、きっとそう思ってるよ」
希ちゃんはそう言ってその瞳を細めてくれたけれど、これは根本的な解決には、きっとならない。
もこちゃんは大丈夫なんだろうか。このまま目を覚まさなかったら、どうしたらいいんだろう? 考えても、答えは出なかった。何か良い案があるんだったら、そもそも、こんなことにはなっていなかった。
「総員、起床時間だよー!」
チャイム音の後に響き渡ったアナウンスにベッドに横たわっていた身体が跳ねて、枕の真横に置いていた本の角でこめかみをぶつけた。
鈍い痛みと共に目を開ける。生理的な涙の膜が張る目の奥で、ロールカーテンの隙間から伸びた光が手の甲に白く線を作っていて、無意識に、掴むように緩く握った。
――朝だ。いつもより、ちょっと遅くまで寝過ぎたみたい。なかなか寝付けなくてベッドの中で本を読んでいたのを薄ら思い出す。思い出すのが内容じゃなく、読んだっていう事実だけなのが悲しかった。後でまた最初から読み直そうって、最初の数ページだけは間違いなく読んだはずの「東京団地の言語について」って書かれた厚い表紙をぼんやりと見つめながら考える。
SIREIさんのアナウンスによると、今日で私達が特防隊としての任務について六十日目らしい。だから、今日はいつもの定型文のアナウンスとはちょっと言葉が違った。「残り四十日間、人類の為に希望を持って戦おうねっ!」って言うSIREIさんの明るい声を聞きながら、身体を起こす。
あと四十日、って思うと、なんだかこのまま何事もなく終わることができそうな気がしてくるから不思議だ。もこちゃんのこととか、「捕虜さん」のこととか、頭を悩ませている問題は散らばるみたいにあったのに。
もこちゃんは熱が下がっただろうか。気になったけれど、何度も病人の部屋を出入りするのも良くないだろうと思い直す。顔を出すとしたら、夕方とか、夜あたりかな。希ちゃんにも、何か差し入れよう。ずっと閉じこもっていたら疲れもたまるだろうし。
支度を調えて、部屋の扉を開ける。厚く重たい雲の隙間から漏れた微かな光芒に目を眇めて、一歩踏み出す。
なんとなく、湿った匂いがする。籠もったような土の匂い。屋上のフェンスの向こう、紫色の炎に囲まれた大地は、生きているものなんか、もうどこにもいないみたいに静かだ。
川奈さんとは食堂に向かう途中、ガレージの前で会った。なんでも昨日から徹夜で機械いじりをしていたらしい。
機械に関する川奈さんの話は専門的な言葉が多くて、ちゃんと聞いているはずなのに、半分どころか、そのさらに半分すらも理解できていない気がする。だけど、川奈さんの話は分からないなりに楽しいのだ。好きなことの話をする人って生き生きしていて、聞いているこっちも元気になるから。
「多分接触が上手くいってなくて……それで何度か試してみたんだけどさ」
どこか思案げに話すその横顔にうんうんって頷いていたら、川奈さんは我に返ったように目をぱっと見開いた。後ろに括った、たっぷりとした金色の髪が尻尾みたいに揺れて、薄暗がりの廊下できらきら輝いて見えた。
「……って、ごめんねさん。こんな話、あんま興味ないよね?」
「そんなことないよ。あんまり理解できてなくて申し訳ないけど、川奈さんの話、楽しい。そういう世界もあるんだなあって勉強にもなるし」
「ほんと? 私、興奮すると止まらなくなっちゃうからさ……。もし暴走してたら止めてね?」
それにちょっとだけ笑いながらも頷いたときだ。私達の背後から、二人分の足音が聞こえてきたのは。
ほとんど小走りとも思えるそれに思わず川奈さんと二人で振り向けば、廊下の向こう側からやって来たその姿に、つい「あれ?」って声をあげてしまう。澄野くんは兎も角として、希ちゃんがいたのだ。また、もこちゃんにスムージーを作りに来たのだろうか。だけどそれにしては、二人ともどこか切迫めいた表情をしている気がする――。
「希ちゃん!」
思わず声をかけた。二人は、それで初めて私達の存在に気がついたらしかった。
希ちゃんが私の声に顔を上げたとき、二人はほとんど玄関ホールへと足を向けていた。なんだか嫌な予感がして、胸がざわめく。「ちゃん」って吐き出した希ちゃんの声は、輪郭のない泡みたいに、やわらかい。
「二人ともどこ行くの? 食堂に行かないの?」
川奈さんの問いかけに「それがさ」って答えたのは、澄野くんだった。
「喪白の熱がなかなか下がらないから、霧藤と解熱剤を作ろうって話になって」
「作るって……プレゼントマシーンで? 解熱剤まで作れるんだ……」
げねつざい。
噛みしめるように、ゆっくり口にする。ちゃんと理解するのに、時間がかかった。
「だから、オレと霧藤でちょっと行ってくるよ。みんなにもそう言っておいて――」
「もこちゃん、そんなに悪いの?」
つい、食い下がるように口にしてしまった。言葉を遮られた澄野くんは、ちょっと目を丸くして私を見ている。でも、今はそれに構えなかった。私の問いかけに答えてくれるのは、ここには、希ちゃんを置いて他にいなかったから。
心臓がぎゅってなって、苦しかった。不安は私の全身を覆い尽くして、飲み込まれてしまいそうだった。
希ちゃんは、私の問いかけに一度視線を落とすと、「薬を飲めば、大丈夫だと思うんだ」って、私の動揺を押し止めるように言葉を重ねる。
「熱が下がらないだけで、他に症状がないの。……昨日から、良くも悪くもなってないんだ。だから、薬さえあればなんとかなるんじゃないかって」
「わ、私もついていくよ!」
何も考えずにそう言ってしまったのは、いても立ってもいられなかったからだ。探索をするなら、人数がいた方がきっと良い。それに、学園の外で死んでしまうようなことがあったら、私達は生き返れないのだ。いざって時のために、人手は多くあるべきじゃないだろうか――そう思ったのに、希ちゃんは緩く首を振った。
「ちゃんは、わたしの代わりにもこちゃんの傍にいてあげてくれないかな?」
それは、希ちゃんの本心からの願いだったんだと思う。
十日間もの間、ずっともこちゃんの傍に居続けたからこその。
「わたし達が帰ってくるまで、ちゃんにそうしてもらえてたら、わたしも安心して薬を探せるから」
真っ直ぐな、希ちゃんの瞳。
それを見ていたら眼球の奥のあたりにじんわり熱が籠もってしまって、困った。
「心配するな、。……頼りないかもしれないけど、オレがちゃんと霧藤を守るから」
澄野くんがそう口にしたのにも、おんなじくらい困ったのだ。こと戦闘に関して、澄野くんが頼りないなんて思ったことは一度もなかったから。だけどどう答えたらいいか分からなくて、ぐって唇を噛んでから、おねがいしますの意味を込めて、彼の目を見て深く頷いた。希ちゃんにも、「気をつけて」って、伝えて。
川奈さんと二人、玄関ホールへと向かう希ちゃんと澄野くんを見送る。「きっとすぐ材料を見つけて戻ってくるよ」と努めて明るく口にする川奈さんに「うん」って返事をして、食堂へと向かった。
希ちゃんと澄野くんが肩を並べて歩く背中を、もう一度だけ振り返って視界に収める。彼が第二防衛学園で目を覚ましたあの日、希ちゃんを「カルア」と呼んで怯えさせたときを思えば、今の二人は正しく、真っ直ぐ進んでいるように思えた。
川奈さんと一緒にみんなに事の次第を報告した私は急いで朝食を食べると、もこちゃんの分のスムージーを作って彼女の部屋に向かった。
もこちゃんはベッドの中、昨日となんら変わらない様子で、微かな寝息を立てていた。
希ちゃんの言うとおり、魘されているとか苦しんでいるとかそういうことはなく、良くも悪くもなってないように見えた。でもそれは、要するに楽観視できる状況でもないってことだ。だから希ちゃんは薬を手に入れようとしている。もこちゃんのために、今頃澄野くんと学園の外を探索している。
「――希ちゃん、早く帰ってくるといいね、もこちゃん」
眠るもこちゃんにこっそり呟いた。当たり前のように、返事はなかった。
スムージーをスプーンに乗せて、希ちゃんがしていたのを思い出しながらもこちゃんの口に運ぶ。無意識になのか、生存本能なのか、少しずつでも口に含んでくれるのにほっとした。時間はかかったけれど、最後まで食べてもらえた。
それから丸椅子を、窓からの薄ぼんやりとした光の当たる場所に少しだけ移動させた。雲の厚い日だった。空気中の微細な塵がちらちら光るのを視界の端でぼんやり見つめてから、そっと目蓋を閉じる。
何もかも、少しずつでいいから上手くいきますように。
そう思ったのは確かだった。
だけど数時間後、希ちゃん達の戻らない中、もこちゃんが何の前触れもなく目を覚ますことになるなんて、思ってもいなかったのだ。