「あ! おはようございます、飴宮さん! この喋る雑巾の話を聞いてください!」



 飴宮さんがやって来た瞬間、食堂に銀崎くんの明るい声が響き渡る。「お? どしたん晶馬、めちゃくちゃハイじゃ~ん!」、私はそのやりとりを聞きながら、薄ら倦んだような視線を彼に送っている。



「あのですね、これは昨日の夜、僕がいつものように捕虜さんにお食事を持っていった時のことなんですけどね……」

「おぉい銀崎! 今俺に途中まで話してただろうが! 強制的に最初っからにすんな!」

「いえ! やっぱり話は最初から聞いていただきたいので!」

「え、何コレ? 晶馬の強制イベント始まったん?」

「はい! どうかこのゴミ虫にお付き合いください! ……それでお食事を食べてもらいながら、捕虜さんと少し二人で話をしたんです。勿論、僕が一方的に話すだけですけど」

「この下りさっきも聞いたっつーの!」

「やべー、強引な晶馬、ウケるんだが!」



 私と川奈さんは彼らのやりとりを、食堂の隅っこの席で漫然と聞いていた。
 飴宮さんが来る直前に捕まって話の中盤あたりまで聞かされていた丸子くんは、銀崎くんのこだわりのおかげでまた話の頭から聞かなければいけなくなってしまったみたいだ。同情してしまって、丸子くんをつい眺めてしまう。彼が文句を言っても、銀崎くんは聞いていないみたい。――でも丸子くんも「チクショ~!」って言いながらも傍で聞いてあげているんだから、結構良い人だなって思う。
 五十九日目の朝だった。この日は私と川奈さんが食堂に一番乗りで、二人で調理マシーンの前で何を食べるか話していたところ、やって来た銀崎くんに「お二人とも! 聞いてください!」って話しかけられたのだ。
 銀崎くんは、いつもの卑屈っぽい彼からは想像もできないくらい嬉しそうな表情をしていた。それで私達も、珍しいなって思いながら、「どうしたの?」って尋ねたんだけど――。



「そしたらですね、笑ったんです! 捕虜さんが、僕に笑顔を見せてくれたんですよ!」

「え、たまたまじゃね?」

「やー……見間違えたんじゃねえの……?」

「いえ! たまたまでも見間違えでもないです! あれは絶対偶然じゃなくて――」



 飴宮さん達に一生懸命訴える銀崎くんを、食事を終えた川奈さんが視線だけで指し示す。



「…………ねえ、あの話、何回目?」

「うーん……私達の後に厄師寺くんでしょ、それからくららちゃんと狂死香ちゃんが来たよね。面影くんにも話して、蒼月くん……。その後が今馬くんと過子ちゃんで……それで丸子くんと飴宮さんだから……。……多分七回目かな」

「…………うわ、私、そろそろ暗唱できそうかも」

「ね。……よっぽど嬉しかったんだろうねぇ……」



 話しながら折り曲げていた指をゆっくり開いて、川奈さんにつられる形で彼の方を見た。
 ――彼が言うには、昨日の夜、中庭にいる「捕虜さん」が笑ってくれたらしい。
 あの捕虜のことをどう受け止めたら良いか分かっていない私からしてみたらちょっと信じられない話ではあるんだけど、銀崎くんはお世話をしながら、これまでも彼女といろんな話をしていたのだと言う。勿論「外国語」の話者であるらしい彼女に私達の言葉は通じないから、銀崎くんが一方的に話していただけみたいだけど。
 昨日の夜、銀崎くんは彼女に東京団地で飼っていた犬の話をした。レオっていうその犬は銀崎くんの(彼曰く)唯一の友達で、東京団地にいた頃は毎日一緒に遊んでいたんだって。だけどボールを投げても拾いに行かずに逃げちゃったり、散歩の途中でリードを振り切って川に飛び込んで向こう岸に行こうとしてしまうこともあったみたいで――そういう話を身振り手振りを交えながら、彼がしていたとき。
 「捕虜さん」が笑ったのだと、銀崎くんは言った。
 ……彼が驚いた様子を見せたら、すぐに笑顔は引っ込められてしまったらしいけれど。



「でも、これって意思の疎通ができたってことですよね? すごい進歩だと思いませんか!?」

「ま、まぁ……確かにそうかもな……。すごい進歩かもな……」



 (希ちゃんともこちゃんを除けば)最後に食堂にやって来た澄野くんも、いつの間にか銀崎くんの会話に巻き込まれ、勢いに押されている。くららちゃんとの決闘や侵校生との戦いを経て、出会ったときほどの彼の極端な卑屈さは影を潜めはしたけれど、普段から食堂の隅っこで遠慮がちにしている銀崎くんからは考えられない様子なわけだし、澄野くんが戸惑うのも無理はないだろう。



「僕みたいなド底辺にも笑ってくれるってことは、皆さんならきっと大爆笑ですよ!」

「それはそれで気分悪いわね……」

「……でも、笑ったってことはさ」



 くららちゃんの呟きの後、不意に口を開いたのは蒼月くんだ。
 彼は私達をぐるりと見回してから、神妙な顔で続ける。「侵校生にもボクらと同じように、感情があるってことだよね?」って。
 蒼月くん曰く、動物の中で笑いを表現できるのは人間だけ、なんだって。だったら、って彼は言う。



「感情があって、見た目もほぼ一緒で、知能もあって、言葉も話すし、我駆力で戦うなんて……」

「…………むしろ、自分らと何が違うんだろう…………」



 蒼月くんが考え込むように口を噤んだ先の言葉を過去ちゃんが引き継いだのを、私は手のひらの上で持て余すようにしながら考えている。
 ――何が違うんだろう。私達と彼女は、どうしようもなくそっくりだ。過子ちゃんと同じことを思いながら、だけど、本当は気づいているのだ。「話す言語が違うだけなんじゃないか」って。でも、だとしたら、私達は一体「何」と戦っているって言うんだろう。
 私達は、何をさせられているんだろう。
 みんなもそれぞれこの件に関して思うところはあったようだったけれど、答えは結局、出なかった。



「もし後で新しい事実がわかったりしたら、その時に改めてみんなで話し合えばいいんじゃないか?」



 ここではわけの分からないことが起こるのが「普通」なんだし、気にしすぎていたらやってられないって。――最終的には少し消極的にも思われる澄野くんのその言葉にみんなも納得する形になったけれど、私は喉に引っかかった小骨みたいに、あの部隊長のことを考えてしまう。
 有象無象の侵校生達とは違って、人型をした部隊長。
 言葉は通じなかったけれど、あの時彼女ははっきりと私達に命乞いをした。透明で、どこにもひっかからない涙を流しながら。人間そのものだった。若い、きれいな女性だった。
 狂死香ちゃんやくららちゃんは「侵校生は敵でしかない」って、その正体に関して思考を重ねる蒼月くんを一蹴してたし、実際にこうして戦っている以上、それについては異論はない。私達と侵校生は、間違いなく敵だ。でも、今まで戦ってきた部隊長達が人間じゃないって否定する要素は、一体どこにあるんだろう?
 厄師寺くんみたいに、「正体がなんであろうと関係ねえ。人類を滅ぼそうとしてるんならぶっ殺すだけだ」って割り切れたら良かった。面影くんや飴宮さん、澄野くんみたいに、考えても答えが出ないなら考えるだけ無駄、って距離を置けたら良かった。
 ――袋小路に迷い込んだみたいだ。
 お皿に転がったあと一口だけのパンがどうしても口に入れられなくて、視界の隅で泳ぐ魚を意識の外で見ている。








 図書室で書棚をぼんやり眺めていたら、入り口から「あれ? さん?」って声をかけられた。
 びっくりして振り向けば、そこには蒼月くんが立っている。悪いことをしていたわけじゃないのに、見つかってしまった、って思うのはどうしてだろう。眼鏡の奥の穏やかな双眸は真っ直ぐ私を見つめていて、思わず居住まいを正してしまう。
 蒼月くんとはあんまり話をしたことはなかった。単純に、その機会がなかったのだ。それでも苦手意識はさほど持っていないのは、彼から滲み出る優しげな印象のせいだろうか。線の細い面立ちをした彼はいつも周囲に気を配っているし、和を乱さないように周囲の意見を尊重し、必要とあれば、円陣を組もうなんて声かけもする。澄野くんも彼を信頼しているようだったし、私もまた、彼に一目置いていた。



さんが図書室にいるなんて珍しいね。……何か探し物でもしているの?」

「うーん……探し物……」



 探し物っていうか、なんていうか――。
 ついそこまで口にしてしまって、後悔した。変に思われるかも、って思ってしまって。蒼月くんは「え?」って短く口にする。色の白い肌が、図書室の薄ぼんやりとした暖色の光に、淡く照らし出されている。
 言うか言うまいか迷ったけれど、彼なら大丈夫なんじゃないか、と思った。というか、さっきの食堂でのことを思えば、蒼月くんに聞いてもらうのが一番良い気がしたのだ。彼だったら、私のこのもやもやも受け止めてくれるんじゃないかって思ったから。
 「あの」、と、口を開く。会話がしやすいよう私の立つ書棚の前まで来てくれる蒼月くんは、優しい。



「実はその、ちょっと……勉強をしたくて」

「え? 勉強?」

「うん。私、あんまり頭がよくなくて、色々わかんないことばっかりだから……」



 昔から、勉強はそんなに得意じゃなかった。……っていうか、勉強すること自体あんまり好きじゃなかったのだ。本は目が滑るし、数字を見ただけでも気持ち悪くなるくらいだったから。勿論学校の図書室も、東京団地の図書館も、縁がない。歴史に関しても学校で習うような知識をかろうじて持っているだけで、蒼月くんや希ちゃんみたいには引き出しがない。医学や薬学、機械、動物、言語、社会学に関しても同様だ。



「でも知らないことが多すぎるせいで何もわからない、っていうのは、嫌だなあって思っちゃってね」



 地球のことも、世界死のことも、東京団地のことも――部隊長のことも。
 二階部分をも埋め尽くす書棚にずらりと並んだ本。目で追うだけでも目眩がしそうなくらいのそれらを、私は多分、生涯をかけても読み切ることはできないだろう。目を通したって、きっと私達が置かれたこの状況とか、侵校生や部隊長の正体とか、そういうのに明確な答えは出ない。蒼月くんがそうであるように。……でも、たとえ一端でも良いから自分の傍に置いておけたら、どんなに良いだろうと思った。それが贖罪になるような気さえした。



「だから、今更だけど、本を読んでみようかなって思ったの。……って言っても、どこに何の本があるのかも全然わかんないし、何を読んだら良いのかもわかんないんだけど……」

「そっか。……すごく前向きで、さんらしいな」



 不意に言われて、思わず目を瞠る。
 私の身体に被さるみたいに、薄い影が落ちた。蒼月くんの長い指が私達の前にある書棚の、高い位置にあった本を引き抜く。「本そのものに馴染みがないって言うんだったら……」、蒼月くんの声は、どこまでもなめらかで心地よい響きを伴って、私の耳に届く。



「検閲されているのか黒塗りにされた本も多いんだけど、とりあえず、これとか、これとかかな? 文章がまわりくどくなくて読みやすいと思う。図解も充実してたし……。あとはプレゼントマシーンで作れる人類史の本なんかも面白かったな。ボクが読み終わったので良ければ、今度さんに貸すよ。……勿論、押しつけでなければの話だけど。――あ、あとこれも面白かったから是非さんにも読んでほしいんだけど……」



 一冊、二冊と差し出されて、慌てて両手で受け取る。彼の手つきは、けれどどうしようもなく丁寧だった。私の頭上にある、梯子を使わなければ届かないような高さの棚からも、彼は少し背伸びをしただけで簡単に取ってしまう。どんどん積み重なる腕の中の本に「あ、あの」って、蒼月くんに声をかけた。我に返ったらしい眼鏡の奥の双眸がこちらを向く。私の腕から顎くらいにまでなった本を残りの四十日で読み切るのは、私にはきっと難しい。
 こんなに読めない、っていうのを、彼は私の視線で読み取ったのだろう。「あ、ご、ごめんね。つい楽しくなっちゃって……」申し訳なさそうに言う蒼月くんに、緩く首を振った。焦る蒼月くんがじわじわおかしく思えてきて、ちょっとしてから、笑ってしまった。蒼月くんも、照れたみたいな微笑を浮かべてくれた。
 蒼月くんは、本当に本が好きなんだろう。彼が選んでくれた本の中から言語について書かれたものと、動物の本を手に取って「とりあえず、これを読みます」と言うと、蒼月くんは私の意図を察したのか一度だけ瞬きをして、それから、「うん。すごく良いと思う」って言った。
 図書室の壁を一枚隔てた先に、中庭はある。
 きっと銀崎くんは、今もそこにいるだろう。「捕虜さん」のお世話をするために。
 そういうことを考えたらやっぱり居心地が悪くて、意識を自分の身体に引き戻した。蒼月くんと一緒に、たくさん出してもらった本を書棚に戻す作業をする。「この本達も、今度、読むね」、選んでもらったのが申し訳なくてそう言ったら、蒼月くんは「うん、是非」って、その眦を細めた。図書室の扉はどうしてか半分くらい開いていたままになっていて、そこからひんやりした空気が入り込んでいる。
 本のこすれる微かな音が響いている。彼の身体を走る青い血管は、作り物みたいに綺麗だ。


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