めちゃくちゃ負けた。
もう意味が分からないくらい負けた。ババ抜きも七並べも大富豪も神経衰弱も、全部負けた。なんなら二人とも年下だし、先輩としてちょっと手加減してあげるべきかもな、なんて思っていたのに。ぐうの音も出ないくらいにボコボコにされてしまった。
神経衰弱なんか特にボロボロで、手加減どころか逆に「先輩! そこ、キングっすよ」って今馬くんに囁かれる始末。信じてひっくり返したらジョーカーだったし、次に二択で迷ったときも「こっちじゃないすか?」って言われて、もうその手には乗らないと逆を引いたら、今度は今馬くんが指していた方が正しかった。
「なんでぇ!?」
「いや~、先輩ってマジで良いカモっすね~」
そんな風にニヤニヤ笑われて、どうしたら気が狂わずにいられただろう。最後には過子ちゃんにまで「今度は運で勝敗がつくやつにしよう……!」って気を遣われて、もう、トランプがちょっとしたトラウマになりそうだった(見学していた面影くんからは、「視線とか腕の筋肉の動きとか心音でバレちゃうんだろうね」ってアドバイスされたけれど、視線は兎も角、筋肉や心臓までどうにかできる気がしない)。おかげで、夢でも延々とトランプをひっくり返していた。翌朝すっきり目が覚めず、いつもよりも少しだけ部屋を出るのが遅れたのはそのせいだ。
まだ静けさの残る朝。壁の向こうに何人かの人の気配を感じながら、食堂の扉を押し開ける。
「おはよう~」
顔も見ずにそこにいるみんなに声をかけたとき、「あ、おはよう、ちゃん」って思いがけない声を聞いて、まだぼんやりしていた頭が一気に覚醒したみたいだった。
身体の芯にすっと届くような、柔らかいのに真っ直ぐな声。
「――希ちゃん!」
希ちゃんが食堂に姿を見せるのは久しぶりだった。彼女はここ数日、ずっともこちゃんの部屋で看病をしていたから。
五十八日目、アナウンスが鳴ったばかりでまだ数人しか集まっていないような、朝の食堂。今日はみんなと朝食を食べるつもりなのかと思って「えー! どうしたの? 今日はこっちでご飯食べるの?」って浮かれながら尋ねてしまったけれど、彼女が手にしていたのはもこちゃん用のスムージーカップだ。あれ、って思った瞬間「実はもこちゃん、昨日から熱が出てるんだ」って口にされて、「えぇっ」って声が出る。
「だ、大丈夫なの?」
「うーん……一過性のものかもしれないから、二、三日は様子を見ようかと思ってるんだけど……」
「……そっかあ……」って口にした声は、食堂に敷き詰められたタイルの目地に吸い込まれるみたいに弱々しく響いてしまう。「大丈夫かなあ」って、独りごちるように呟く。
――もこちゃんが、熱。十日近くも目を覚まさないこの状況で、なんて、結構深刻なことなんじゃないだろうか。そんな風に考えていたら、「そんなに心配しないで、ちゃん」と声をかけられた。思わず顔を上げる。
「大丈夫。もこちゃんは、きっともうすぐ目を覚ますよ」
予言のような、あるいは、願いのような声。
伏せられた睫毛に光の粒が落ちている。食堂の白んだ光に晒された希ちゃんは、仄かに瞬く星みたい。
スムージーを手にもこちゃんの部屋に戻る道中、きっと希ちゃんは澄野くんに会って私にしたのと同じ話をしたのだろう。
みんなよりも少し遅れて食堂にやって来た澄野くんは、「喪白が熱があるらしい」って、すぐにみんなに伝えてくれた。無意識のうちに、この件はあとで面影くんやくららちゃん、狂死香ちゃんにだけ共有しようと思っていた私は、なんだか恥ずかしくなってしまった。
だけど、体調の悪化にやっぱり侵校生に何かをされたんじゃないか、二度と目覚めないこともあるんじゃないかと不安視し始めるみんなの中で今馬くんが冷静に「そろそろ真剣に検討した方がいいかもしれないっすね」と口にしたとき、私はどこかではっきり、ああ、って思ったのだ。
ああ、こういうことを言われてしまいそうだったから、面影くん達にだけ伝えようと思っていたのかもしれない、って。
「いったん殺して蘇らせるんすよ。そうすれば、体調も戻るはずっす。……それが手っ取り早くないっすか?」
だってそんなこと、できるわけがなかったから。
今馬くんの言い分は、理解できないわけじゃない。一度もこちゃんを死なせて、彼女の遺伝子情報が登録されてある蘇生マシーンでもってその身体を復活させること。感情や倫理観を抜きにして考えるなら、理論上、それが一番手っ取り早いことくらい、私だってわかっていた。――でも無理だ。もこちゃんを殺して、なんて、文字にしただけでぞっとする(だから狂死香ちゃんだけじゃなく、蒼月くんや川奈さんが「そんなことできない」って言ってくれたのは、嬉しかった。私達と同じように、もこちゃんのことを大切に思ってくれているみたいで)。
今馬くんも、これまでみたいにわざと引っかき回そうと思って口にしているわけじゃないってことは、顔を見ればわかった。これまでの彼が持っていた軽薄さは、どこにも滲んでいなかった。
今馬くんの涼しげな目が、食堂の端っこにいた面影くんに向けられる。声をあげられたら良かった。もこちゃんを殺すなんて、何が何でも絶対嫌! って、そう言えたら良かった。
そうしたら、あんな言葉聞かなくてすんだだろうか。
「……面影先輩はどうっすか? 殺しなんて、ド慣れっこなんすよね?」
殺し屋なんだから。
そう言わんばかりの今馬くんの言葉に、面影くんは肩を竦める。
「殺れ殺れ……人を殺人鬼みたいに言うのはやめてほしいな……。私だって……みんなと一緒だよ? 大好きで殺りたい相手しか殺りたくないよ」
「……一緒じゃないけどな」
「だったら仕事として依頼するのはどうっすか?」
重ねて尋ねる今馬くんに、面影くんは何を思ったのだろう。
数秒の沈黙の後、面影くんはその唇を、静かに開いた。
「お金をもらったら、面影くんはもこちゃんを殺すの?」
口にしてから、言わなきゃ良かった、って思った。
昼間なのに薄暗い生物薬品室。面影くんが普段ここによくいることを知っていて、狂死香ちゃんとトレーニングを済ませた後に顔を出した。――身体を動かしたらすっきりするかも、って思ったけどダメだった。狂死香ちゃんにも、もやもやを吐き出せなかった。それで本人に直接話をしに行くなんて、でも、子供っぽかったのかもしれない。
面影くんは何か薬品らしきものが混ぜられた三角フラスコを手にしたまま、不思議そうな顔で私を見る。やっぱりなんでもない、って言おうと思ったのに、その瞳はそれを拒否しているような気がした。
「そうだねえ」
面影くんの揺蕩うような声が、生物薬品室の隙間を埋めるように落ちていく。
「仕事として依頼するのはどうっすか?」、あのときなされた今馬くんの問いかけに、彼は、「仕事なら仕方なく受けるけど……でも高いよ?」と言った。――私はそれに、はっきりと傷付いたのだ。
結局その後くららちゃんがはっきりと反対の意を示したことで、もこちゃんのことはこれまで通り様子を見るということで方向性が定まったし、銀崎くんが「捕虜さん」にご飯をあげる時間になったと声をあげたため、その場は解散になった。だから、方針はこれまでと何も変わっていない。――何も変わっていないはずなのに、私は酷く落ち込んでいる。
納得いかないからってこうして自分が欲しい答えを求めに行くなんて、良くない、って言うのも、わかってはいるんだけど。
そういう私の中の葛藤も面影くんは見透かしているのか、彼は最初に、「別に、ちゃんに寄り添おうと思って言うわけじゃないんだけど」と、前置いた。
顔を上げる。薄暗い薬品室に点在するモニターが時々瞬いて、彼の輪郭に濃淡を描いている。
「好きな相手だから殺したいって気持ちは、誰しもあるじゃない? 内臓の形が見たいとか、重さとか手触りを確かめたいとかさ」
「……え、ないかも……」
「ふふ、ちゃんはカワイイなあ……。――まあ、でもだからと言って、一時の快楽のために、自分の矜持まで捨てようとは思わないんだよね」
ここが東京団地の外で、家族って言う枷のない今の私に限っては、の話だけど。
そう続ける彼の言っていることがすぐには理解できなくて、微かに首を傾げる。「かぞく」、彼の言葉を、口の中で繰り返す。わざと核心部分には触れないような言い方だった。線だ。と思った。私と彼との間を区切る線。
「いくら蘇生マシーンで生き返るって言ってもさ」
フラスコを目の高さに持ち上げて確かめる彼の声は、どこまでも優しい。
「第二のみんなが傷付くようなことは、私はしないかな」
だけど、その言葉だけは、真っ直ぐに私の魂を揺らしたのだ。
作業台にフラスコが触れる。家族、という言葉が耳の奥に残っている。透明なガラスが閃いて、私はその光がどうしてか、面影くんをつなぎ止める鎖のように見えている。
「でも、何か一つでも状況が違ったら、殺し屋としてその依頼を引き受けなければいけない時だってあるわけだから。……だから、ああいう言い方をしたんだ」
本当の私の気持ちは、だから、ちゃん達と一緒。
いつもの、スツール代わりの小さなドラム缶に座った私に、面影くんは悪戯っぽく目を細めた。顔のタトゥーが、微かにひしゃげる。私とは違う人生を送ってきた人。東京団地にいたら、絶対に交わることのなかった人。整えられた長い爪の先が、彼自身の唇の前に立てられる。
「…………恥ずかしいから、みんなには内緒だよ?」
面影くんの言葉は輪郭をなぞるように曖昧で、私はもしかしたら、彼の言っていることの半分も理解できていなかったのかもしれない。
でも、面影くんが向けてくれる視線のやわさとか言葉の端々に散らばる温度がくすぐったくて、「うん」って頷いた。「ごめんね」、とも。
わがままを押しつけて彼の本心を引き出してしまった私はきっと、どうしようもなく子供っぽかっただろうから。でも、面影くんは小さく笑って、「どうしてちゃんが謝るのさ」って言った。それが泣けるくらい、嬉しかった。
面影くんにばれないよう、こっそり、小さく息を吐く。彼の優しさはいつまでも、いつまでも、私の中で淡い光を放ちながら、漂い続けている。