「お?」
「あ」
まだ誰もいない朝の食堂でぼんやりしていたら、扉が開いて厄師寺くんと目が合った。
「よお、はえーな」
そう言われて、慌てて「うん」って答えた後、ちょっとの間を置いてから「変な時間に起きちゃって」って言い添える。――時刻は、まだ六時半。五十七日目の朝を報せるアナウンスが鳴る、三十分前のことだった。
いつもは賑やかな食堂も、二人きりだと随分広く感じる。換気扇と冷蔵庫の低い唸りの中、自分の鼓動がやけに大きく耳に届いた。厄師寺くんに対して特別苦手意識があるわけじゃないけれど、二人になるのは初めてだったから、どうしても緊張してしまう。
「昨日、ずっと寝てたから」
「あー。まあ、そりゃそーだよなあ。一日寝てたらそーなるか」
侵校生の襲撃から、丸一日が経っていた。明け方近くまで続いた防衛戦の疲れを癒やすため、昨日は休養日に充てることにしたのだ。日中眠っていたせいで、体内時計が少し狂ってしまったらしい。
彼は調理マシーンの前まで来ると、一日ぶりの食事をどうすべきか決めかねている私の隣に、台に背中を預ける形で寄りかかった。「あ、まだ決まってないから、良かったらどうぞ」って調理マシーンのディスプレイを促したけれど、「俺もまだいいわ」って緩く首を振られる。
――まだいいんだ!
そのまま彼との間に沈黙が落ちるのはどう考えても耐えられなかったから、丸一日眠っていたことで靄がかった頭をフル回転させる。
「……えーっと、厄師寺くんも、昨日は一日中寝てた?」
「おー、流石にな。っつっても、大分前には目ぇ覚めてたんだわ。外見たら薄暗かったから、この時間までは部屋にいたけどよ」
「一日お休みにしただけあっていっぱい休めたよね。あんなに寝たの久しぶりかも」
「おう。おかげで腹の怪我も塞がったぜ」
「え! 嘘だぁ!」
「なんだぁ? 嘘だってんなら見せてやってもいいぜ?」
「や、やめてよ……っ」
もこちゃんが目を覚ましていたら「ちょっと男子~!」って言いそうだなって頭の端で思いながらも慌てて首を振る私に、サングラスの奥の目が細められる。見た目は不良然としているというか不良そのものだけど、案外屈託ない笑い方をするのだ。気安いやりとりと彼の表情で、ようやく緊張が解けたような気になった。
だから今馬くんに刺されたお腹の怪我が治ったっていうのは、本当なのかもって思う。侵校生との戦いを控えた一昨日の夜、作戦室に飛び込んできた厄師寺くんが見せていた苦悶の表情と今の彼が浮かべているものは全く違ったから。
「一昨日は、大変だったねえ」
おお、って、曖昧な声で彼は答える。
厄師寺くんは優しい。一昨日の戦いの後、今馬くんの代わりに必死で頭を下げて謝罪をした過子ちゃんと、そんな状況でも飄々と振る舞っていた今馬くんを、デコピン一つで許してあげたのだ。――「俺を刺しやがったケジメだ」って彼は言ったけれど、本当は自分を刺したことへのケジメというよりは、私達特防隊を揺らがせてしまったことへのケジメのつもりだったんじゃないだろうか。尋ねてもはぐらかされそうだから、口にはしないけれど。
半殺しレベルの報復を想像していたらしい今馬くんは、飛んできたデコピンに目を丸くしていた。「こんなんでいいんすか」って。「バーカ」っていう厄師寺くんの声は、優しかった。
「何度も言ってんだろ。あんなのかすり傷だってよ」
だから今ので手打ちだ。――そう言い放った彼に、今馬くんが絞り出すように「……感謝……するっす……」って口にした瞬間、私達の間にずっと横たわっていた淀みは消えたのだ。
今馬くんと過子ちゃんも、今回の件で、停滞していた関係が正しい方に進み始めたんじゃないかと思う。だって今までの今馬くんだったら、きっとあの状況で過子ちゃんに頭を下げさせるような真似はしなかった。対等に、過子ちゃん自身が決めたことを尊重して「妹ちゃんが一緒に償うって決めたなら、自分は甘えさせてもらうだけっすよ」なんて言ったりしなかった。「普通に名前で呼び合おうよ。……なぁ、過子」とも、言ったりしなかったはずだった(そのやりとりについ涙ぐんでしまったけれど、隣にいた狂死香ちゃんの方が鼻水まで垂らして号泣してたから、今馬くんにはばれずにすんだ。彼は私に当たりが強いから、もし気づかれていたら舌打ちか嫌みの一つは飛んできてもおかしくない)。
ことは上手く進んでいる。問題は一つ一つ解決されていって、私達の間には何の蟠りも、もうない。
……そう言い切れたら良かったんだけど。
目蓋の裏とか思考の片隅に、「彼女」はぺたりと張り付いている。
私達があの夜戦った部隊長。言葉は決して通じなかったけれど、命乞いをする部隊長にトドメを刺すことは私達にはどうしてもできなかった。
……厄師寺くん曰く、私達がこの学園に合流する以前、雫原さんという子がいたらしい。彼女は最初の襲撃のとき、命乞いをした部隊長をためらわずに斬ったそうだけど、でも、もしもその雫原さんが今回の部隊長を見たなら――きっと、躊躇ったんじゃないかな。彼女のことは何も知らないけれど、そう思う。
だって部隊長が外したマスクの下にあったのは、私達人間と相違ないものだったから。
「彼女」は捕虜として、今、中庭の檻に閉じ込められている。あの巨大な、鳥籠を模したような檻だ。あの檻は中に入れた生物の力を無効化するらしく、捕虜を閉じ込めておくには適していた。今は言葉が通じなくても、いつか彼女と意思疎通ができるようになれば侵校生の情報を得られるかもしれないし、と言ったのは蒼月くんで、私達はそれに従うことにしたのだ。……狂死香ちゃんなんかは、「侵校生は悪なのだぞ!? 悪は叩き斬るのみでござる!」って、ギリギリまで反対していたけれど。
銀崎くんが「これくらい立派な檻なら、侵校生も飼えるかもしれませんね!」って言っていたのは記憶に新しいけれど、まさか部隊長を入れることになるなんて思いもしなかった。いくら無力化されているとは言え、この校舎の中に部隊長がいると思うと、どうしたって落ち着かない。
「――厄師寺くんは、あれから見に行った?」
捕虜とか中庭って言葉を使わずに呟いた言葉は、だけど厄師寺くんにも伝わったらしい。
頭をがしがしとかいた彼は少しの沈黙の後、「行ってねえ」とだけ言った。そのぶっきらぼうな言い方が、彼自身、あの捕虜について複雑な心境でいることの証左であるように思えた。
なんだかんだ、みんなも昨日は丸一日眠っていたらしい。
腹が減ってはなんとやらではないけれど、実際お腹が空いていると何をするにも上手くいかないものだ。あの後やって来た狂死香ちゃんと丸子くんの食べっぷりを見ていたら私もちゃんとお腹が空いてきて、狂死香ちゃんの隣に座って一緒にご飯を食べることにした。澄野くんに遅れる形で他のみんながやって来たのは、朝のアナウンスが鳴ってから。「おはよーさん、凶鳥さん。隣いいい?」って川奈さんに聞かれて、「どうぞ!」って空いている椅子を指し示す。徐々に賑やかになっていく食堂だったけれど、でも、なかなか食堂に現れない人達がいるのは、少し気にかかっていた。
「今馬くんと過子ちゃんは来ないの? 何してんの?」
ハンバーガーの最後の一口を咀嚼して飲み込んだ川奈さんが、不意に言う。
彼女の言うように、今馬くんと過子ちゃんの姿は食堂にまだなかった。それに対して閃いたとでも言うかのように 「あっ! この後死体で発見されるんだ!」と笑えない冗談を飴宮さんが言うものだから、思わず目を丸くしてしまった。「んな訳ねーだろ!」、厄師寺くんはそう突っ込むけれど、くららちゃんにまで「まさか……アンタが何かしたんじゃないの? やっぱ刺されたのが許せなくて……」と真顔で言われてしまう。冗談とは言えそんな風に言われてしまうのはなんだか可哀想だった。……勿論、彼は「アホか!」って突っ込みを忘れなかったのだけど。
そんなやりとりに呆れたような声で「どうせ寝坊だろ?」って言ったのは、丸子くんだ。
「……それより、霧藤はどうしたんだよ?」
その目線が、ぐるりと食堂を見渡す。
彼の言うとおり、食堂には希ちゃんと、勿論(と言うのは、本当は憚られるけれど)もこちゃんの姿もなかった。「希殿は今日ももこ殿の看病みたいでござる」。そう口にする狂死香ちゃんは食堂に来る前に、二人の様子を見に行っていたのだろう。狂死香ちゃんの方を見たら、「もこ殿も、変わらぬ様子だった」ってこっそり教えてくれて、ちょっとだけ安心した。
澄野くんが口元に手を当てて、考え込むように口にする。
「喪白はまだ目を覚まさないのか……」
心配そうな声色だった。でも、それも当然だ。だって――。
「もこが帰って来たのが五十日目で、今日が五十七日目だから……はい、狂死香に問題よっ! もこは何日間寝たままでしょか!?」
「そ、そんな急に! えっと……足し算? 引き算?」
「今日でもう八日目だよ……。さすがにおかしいよね?」
「……うん、ちょっとさすがに、長いかも……」
そう、八日目なのだ。川奈さんの言葉に、小さく頷く。「そ、そうそう……八日目でござった。拙者もその数字がおぼろげながら浮かんだでござるよ」としどろもどろに言う狂死香ちゃんにも緩い首肯を返しながら、いくらなんでも楽観視できなくなってきたかもしれない、って考える。たとえ、変わった様子がないんだとしても。
「八日間も寝たままなんて普通じゃねーよな? 侵校生に捕まっている間に、何かされたんじゃねーの?」
「……ただ、その割には異常が見当たらないんだよね。おかしな症状もないし」
「うーん……」
面影くんの言葉に小さく唸ったのは、蒼月くんだ。考え込むように目線を彷徨わせた後、彼は「心配だけど……とりあえず今は希さんに任せて様子を見守るしかないんじゃないかな……」と結論づけた。実際、表向きとはいえお医者さんの家系である面影くんが「異常がない」って診断している以上、現状それ以外のことができる気がしないのだ。消極的な対応しかできないことは、心苦しいけれど。
どうにもならない沈黙が、私達の間に横たわっていた。カップをソーサーに置く、微かな音に目線をやる。沈黙を破るように、くららちゃんが口を開いた。
「…………それと、捕虜の件はどうするの? ずっと放ったらかしってわけにもいかないわよね?」
――その件もまた、今の私達を悩ませる大きな問題であることは間違いない。
「だよね……。捕虜にした以上は、食事とかの面倒も見ないとだし……」
「でしたら、この薄汚ぇゴミに任せてください!」
川奈さんの言葉に勢いよく手を挙げたのは、銀崎くんだ。「珍しくやる気だな……」と零した澄野くんに、銀崎くんは頷く。
「こんな卑怯でヘタレな害虫でも、何か少しでも皆さんのお役に立ちたいですから。……それに、僕は動物の飼育経験がそれなりにあるので、ちゃんと飼育できると思います」
「動物扱いかよ!」
銀崎くんは、実は昨晩から既にあの捕虜に食事を持って行っているらしい。保護動物は警戒心を解いてもらうため、ゆっくり少しずつ信頼関係を築くことが重要なので、と言う銀崎くんはやっぱりどう考えてもあの捕虜を動物として扱っているみたいだったけれど、それでも彼女の面倒を一手に引き受けてくれることはありがたかった。
――よく分からない存在っていうのは、ちょっと怖い。
蒼月くんはあの部隊長が「外国語」というものを話す、私達とは別の人種なんじゃないかって言っていたし、私だって彼女はどう見たって私達と同じ人間だって思うけれど、でも、その正体は結局判然としないままだ。だって、同じ人間だって言うなら、どうして彼らは地球の自殺を進めようとしているのだろう? どうして自分達の滅亡をも受け入れているのだろう? 我駆力と似た彼らの力は、一体なに? 考えても答えはどこにも落ちていなくて、視線を落とした。手首を走る青い線を、無意識に眺めていた。
「檻の鍵も預かっておきますね」と銀崎くんが言った直後、今馬くんと過子ちゃんが食堂に飛び込んできたことで、意識がそちらに向く。どうやら二人は徹夜でトランプをしていたらしい。今までは妹である過子ちゃんをを勝たせるためにわざと負けていた今馬くんも手加減をやめたようで、それで勝てなくなった過子ちゃんがムキになってしまったんだとか。
二人の明るいやりとりに、食堂が色づいたような気がした。
「先輩、後で自分と勝負しよ!」
そう言う過子ちゃんに、「いや、過子、自分が勝てそうな相手選ぶのよしな?」って今馬くんが笑う。「え~! 私、妹との勝負で負けたことないよ!」ってつい返したとき、ちょっと離れた場所に座っていた面影くんと目があって、どきっとした。
もこちゃんのこととか捕虜の女の人のこと、侵校生と地球の関係。思い悩むことはたくさんあるけど、でも、今はただ進んでいくしかないんだろう。
つい会釈をしてしまった私に、面影くんはちょっとだけ目を丸くしてから、笑った。
か細い喜びが胸に咲く。私はそれを自覚しているのに、見ないふりをしている。食堂の穏やかな喧噪に、そっと自分を滲ませる。