あの夜「今回は、こっちが折れることにしたんで」と今馬くんは言ったけれど、彼と別れた直後に向かった図書室にいた過子ちゃんと澄野くんは、今馬くんの言葉を素直に受け取っていいものか測りかねているみたいだった。恐らく今馬くんが二人に回りくどい言い方をしたせいで、彼の本心が彼らに伝わっていないのだと思う(もしかしたら、それすらも今馬くんの意図したところではあったのかもしれない。元々天邪鬼っていうのもあるけど、気恥ずかしさが邪魔をして、はっきりと伝えられなかったのではないだろうか)。



「……あんなお兄ちゃん、初めてだった」



 そう教えてくれた過子ちゃんは喜びよりも困惑の方が勝っていて、それで私も、何も言わないことにした。すぐそこで今馬くんと会ったこと。今馬くんは多分過子ちゃんのことを尊重してくれたんだよ、ってこと。そういうのを含めて、二人の問題だと思ったから。だから代わりに、「ところでそのスクーターはなに?」って聞いた。カーキ色のピカピカした車体は図書室には全く似つかわしくなくて、どうしようもなく浮いていたから。過子ちゃんはそれで、ぱっと表情を明るくした。水辺に花が咲くような笑顔だった。



「あ、これね、澄野先輩が自分にくれたの……! 昔お父さんが乗っていたのと、同じモデルなんだ……!」



 もう亡くなってしまった、二人のお父さんが乗っていたスクーター。
 どうやらプレゼントマシーンで作ったものらしい。澄野くんは今馬くんでなく過子ちゃんの方を説得しようとしていた、っていう手前気恥ずかしいのか、ちょっと決まり悪そうに「みんなから過子のほしがってるものとかを聞いてさ、それで作ったんだよ」って話してくれて、それがなんだかおかしかった。
 スクーターは三人で、駐車場に運んだ。「今度先輩も乗って良いよ!」って過子ちゃんに言われたけれど、私は免許を持ってないし、折角の車体をぶつけちゃったら困るから、「じゃあ、いつかお願いね」とだけ言った。「うん!」って笑いながらスクーターを押して歩く過子ちゃんの背中は重たそうだったけれど、憑き物が落ちたみたいにすっきりして見えた。








 その後今馬くんと過子ちゃんの間でどんなやりとりがあったのかは、厳密には知らない。
 翌日は朝からくららちゃんに「、ちょっとアタシに付き合いなさい!」って叩き起こされて、狂死香ちゃんと三人で一日探索に連れ出されたし(どうやら兵器開発に必要な資材を集めたかったらしい。最終防衛学園の周辺の探索に行くのは初めてだったから、ちょっとドキドキした)、その次の日は今馬くんも過子ちゃんも見かけることがなかったおかげで、二人と話をすることは勿論、様子を窺うことすらもできなかったから。多分、部屋にいたんじゃないかな。誰も二人を見ていないって言っていたから。
 空白は、私をちょっとだけ落ち着かなくさせる。
 今馬くんは私に、確かに「こっちが折れることにしたんで」って言った。それってつまり過子ちゃんも戦っていいってこと? っていう私の問いには、はっきりと頷いたわけではなかったけれど(話を逸らされたのだ。まさか合流することになるなんて思っていなかった私が書いた、「頑張ろうね」っていう手紙を彼に見せつけられて、びっくりしたせいもある。まさか今馬くんがそれを見つけて所持しているなんて、思っていなかった。っていうかそもそも、書いたことさえ忘れていたのだ)、「こんなド寒い手紙を書いちゃうような先輩に免じてってわけじゃない」って言ったことの前後関係を考えたら、やっぱり彼は過子ちゃんが戦うことを許したように思える――。
 五十五日目。何事もなく過ぎ去った一日の終わりに、自室に戻る前にもこちゃんの様子を見に行こうと屋上を歩いていたときだ。澄野くんに「あ、」って声をかけられたのは。
 そびえ立つように高いフェンスに背中を預けていた澄野くんは、外の空気でも吸いながら考え事をしていたみたいだった。空は濃い紫を二重にも三重にも塗り重ねたように重くなり、そこに穴を開けるみたいにいくつもの白い星が瞬いていた。地下の東京団地にはなかったもの。だけどもう五十日も経てば、慣れてしまう。肌を撫でる風の匂いとか、遮るものの一切ない空とか、冴え冴えとした空気とか。コンテナハウスの一棟一棟についた灯りが足下を照らしていて、私達の影は長く、真っ直ぐ伸びていた。澄野くんは少しだけ、遠慮したような笑みを浮かべていた。



「澄野くん。こんばんは」

「お疲れ。部屋に戻るところか?」

「うん、もこちゃんのとこに行ってからだけど」

「ああ……そっか。……霧藤は大丈夫かな? ずっとつきっきりみたいだけど」

「うーん、変わろうかって言っても、大丈夫って言われちゃうんだよね。時々私とかくららちゃんとか狂死香ちゃんで、ちょこっとだけ交代するんだけどね。離れてる方が落ち着かないんだって。……希ちゃん、もこちゃんのこと大好きだから」

「……そっか。喪白も、早く目が覚めるといいんだけどな」

「うん。……ほんとに」



 すぐ目を覚ますだろうと思っていたもこちゃんも、眠り続けて丸五日だ。希ちゃんは献身的に看病を続けてくれているけれど、心配はどうしたって募る。それでも面影くんが診たところによると、やっぱり原因不明。いつ起きても良いと思うんだけど、ってことらしいから、私達は待つしかない。
 この位置からでは見えないもこちゃんの眠る部屋の方向に無意識に視線をやったときだった。澄野くんが不意に、「今馬達も」って口にしたのは。



「――今馬達も、大丈夫かな?」



 空白は私を落ち着かなくさせる。
 澄野くんも、きっとそうだった。



「…………大丈夫、だと思うんだけど。過子ちゃんのこと、認めたみたいな言い方してたし……」

「あいつ、こっちを煙に巻くような言い方するんだよな」

「ねー! 私なんかめちゃくちゃ巻かれちゃう」

「はは、だよな。オレもだよ」



 口が達者で年下だと思えないっていうか、振り回されてしまうっていうか。澄野くんに「今日とかあの二人のこと見かけなさすぎて、全部夢だったんじゃないかって思ってさ。オレ、さっきスクーターがちゃんと駐車場にあるか見に行ったからな」って言われて、わは、って声を出して笑ってしまった。「あった?」って聞いたら、「あった」って、困ったみたいに微笑まれた。
 心配していたのが自分だけじゃないと思うと、心がふっと軽くなる。勝手に思い悩んで、そわそわしていたのを二人で分け合えたみたいで。
 ふと口を閉ざした澄野くんは、今馬くんや過子ちゃんの部屋のある方に視線をやっていた。私とおんなじことしてる、って思った。
 ――澄野くんは以前私のことを仲間思いだって言ってくれたけど、澄野くんだってそうだ。
 だから、「なるようになるんじゃないかな」って言った。
 澄野くんを安心させるためと、半分は、自分を勇気づけるために。



「今日はもしかしたら、二人で何かお話をしていたのかもしれないし」

「話?」

「そう、積もる話。兄妹なんだもん。私達がいないところで、ちゃんと向き合って、お話してるんじゃないかなあ」

「……そういうもんかな」

「そういうもんだよ」



 「先輩って多分、兄妹いるっすよね」、そう尋ねた今馬くんの声を、覚えている。
 私はそれに、間髪すら入れずに「いるよ」って答えたのだ。いるよ。いるからわかるんだよ、って。
 あのときの今馬くんの、何か眩しいものでも見るみたいに細められた目。



「……まあ、でも、そうか」



 澄野くんが言ったとき、その顔を、私は確かに見た。昔を懐かしむような、穏やかな目をしていた。「――そうだよな」、噛みしめるように口にしたそれは、多分澄野くんの独り言だったんだろう。「大切なんだから、話すよな。ちゃんと」。その目にはきっと、彼しか知らない何かが映っている。
 私達はそれぞれ、十七年分、あるいは十五年分の過去を背負っている。
 事情や思いを、みんなはそれぞれ持っている。誰にも分け与えられなくて、分かち合えないもの。本当の意味で理解し合うのは、だから、きっと難しい。それでも、寄り添えたらいいと思った。寄り添って、少しでも支えられたら良い、って。
 仲間だから。








 澄野くんと別れた後、もこちゃんの部屋に立ち寄った。彼女はやっぱり五日前と変わらずぐっすり眠っていて、目を覚ます気配はなかった。汗ばんだ額を温かいタオルで拭く希ちゃんは、慈しむような目をしていた。そこには微かに疲れのようなものが見えたけれど、希ちゃんは「私は大丈夫だよ」って、やっぱり口にした。
 部屋でシャワーを浴びてくる間看ていてもらえないかなって希ちゃんに言われたときは、だから、ちょっとでも頼ってもらえたみたいで嬉しかった。「ゆっくりお風呂入ってきてね」って言ったのに、希ちゃんは「すぐ帰ってくるよ」って遠慮がちに笑った。
 二人っきりになって、希ちゃんが座っていた丸椅子に腰を下ろす。「きっと大丈夫だよね、もこちゃん」って、小さな声で口にする。今馬くんと過子ちゃんの間にもう問題は起きないし、もこちゃんだってすぐに目を覚ますよね、って。
 「当たり前田のクラッカーよ!」ってVサインを作って笑うもこちゃんを頭に浮かべる。もこちゃんが目を覚ましてくれたら、きっと、最終防衛学園もずっと明るくなる。大輪の花に囲まれたみたいに。希ちゃんが戻ってくるまでの三十分強を、私はそうして過ごしている。
 数時間後、就寝を報せるアナウンスが鳴った直後に侵校生の襲撃があるなんて、想像もしないまま。


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