「自分に何か、隠し事してないっすか?」



 何も、確証もなく尋ねたわけではない。
 自分が厄師寺先輩を刺した翌日の――五十三日目の朝だった。朝のアナウンスが終わるのを待った上で、自分が澄野先輩の部屋を訪れたのは。
 何の特徴もない平々凡々な部屋。五十日間もここで暮らしておきながら、澄野先輩は他の人らみたいにプレゼントマシーンで作ったもので部屋を飾ったり何かを持ち込んだりするタイプではないらしい(正直、ちょっと意外だった。澄野先輩は、もっとなんつーか、良くも悪くもここでの生活を受け入れているように見えたから)。
 目を丸くした澄野先輩は半ば自分の勢いに飲まれるように、それでも僅かな警戒を見せながら「か、隠し事?」とうわずった声をあげる。視線は絡んだまま、でも、その指先が微かに動いて腰のあたりに触れた。――上着のポケットだ。



「いや、自分の気のせいならいいんすけど……」



 敢えて薄く笑ってみせてから、表情を消す。
 逃がす気はなかった。誤魔化そうとするなら、先輩が折れるまで粘るつもりだった。



「……どうなんすか? 隠し事、してないっすか?」



 多分、澄野先輩もわかっていたのだろう。
 温度のない声に、澄野先輩はしばしの沈黙を作る。やがて自分から目線を外し、諦めたようなため息を吐いた。








 妹ちゃんが昨日の夜部屋を抜け出したのは、わかっていた。
 ――本当は無理矢理自分の部屋に閉じ込めて「お説教」するつもりだったけれど、昨日食堂から連れ帰ったとき部屋の前で手を振り払われて、自身の部屋に閉じこもられてしまったのだ。そうなってはこちらも打つ手はない。仕方なく部屋に戻って、妹ちゃんの動向を観察していた。どうせそのうち何かしら行動を起こすだろう、そう思ったから。夜になって妹ちゃんが外に出て行ったような気配を感じたときは、だから、特別驚きもしなかった。
 今回の妹ちゃんは、今までよりも頑固だ。反抗的って言ってもいい。
 ま、そんな妹ちゃんも可愛いんすけどね。ただ、お兄ちゃんとしては放っておくことはできない。何せ自分らに(死んでも生き返るらしいとは言え)武器を持っての命がけの戦いを強いるような場所だ。わざわざそこに飛び込もうとしている妹ちゃんを、どうして許せるだろう? どうせ妹ちゃんが戦わなくても、あの人らが戦ってくれるのに。焦燥と苛立ちで、皮膚の薄いところがぴりぴりする。東京団地での暮らしも楽だったわけじゃないけれど、妹ちゃんを自分の背中に隠せた分、あっちの方がよっぽどマシだった。
 侵校生の襲撃の度に我駆力刀で身体に傷をつけなくちゃならないなんて、あっていいわけがなかった。侵校生との戦いだって、「死んだら生き返る」だけだ。怪我をすれば当然痛いし、上手く死ねなければ地獄だってこと、妹ちゃんはわかってない。自分は妹ちゃんには怪我の一つだって負わせるわけにいかなかった。たとえ生き返るとしても、死なせるなんてありえなかった。だって、じゃあ何のために今まで自分が妹ちゃんを守ってきたんだよ。ここだけの話じゃない、東京団地にいた頃から。両親が死んでから、ずっと。
 自分はお兄ちゃんだから、自分らの欲のことしか頭にないような汚い親戚に妹ちゃんを渡すわけにはいかなかった。自分はお兄ちゃんだから、妹ちゃんに飢えも寒さも孤独も感じさせるわけにはいかなかった。自分はお兄ちゃんだから、妹ちゃんにはまっとうに、美しく、なんの傷も背負わずに生きてほしかった。たとえみんなで暮らしていた家はもうどこにもなくても、「過子」は庇護され続けるべきだった。
 自分が生きている限りは!
 妹ちゃんが遠ざかるのを扉の隙間から確かめて、そっと部屋を抜け出し、後をつけた。妹ちゃんは澄野先輩の部屋の扉の隙間に何か差し込んでいた。妹ちゃんの細い手首に白んだ光が落ちていた。それはどこか切迫めいた、祈るような横顔だった。








 妹ちゃんは澄野先輩に、自分を説得するよう手紙にしたためていたらしい。
 千切ったメモ帳に書かれたその文字は間違いなく妹ちゃんのもので、想像はしていたものの、舌打ちを殺しきれなかった。
 だから、取引を持ちかけたのだ。
 妹ちゃんが戦うのをやめるよう説得してもらえるなら、自分が妹ちゃんのかわりに戦うと。
 実際のところ、澄野先輩に託すのも本意ではなかった。でも、自分の話を聞いてくれない妹ちゃんはもう、他人から諭されでもしなければ意見を翻したりはしないだろう。



「……わかったよ。受けるしかないんだろ?」



 最終的にはそう言った澄野先輩も、だけど本心では、妹ちゃんみたいな女の子を戦場に立たせたくはないと思っていたんじゃないかと思う。
 世の中には守られるべき存在っていうのがある。そう考えているところが、澄野先輩にもある。
 失敗したら作戦室を破壊するんで――そう言った自分に、澄野先輩は「はぁ!?」と声をあげていた。








 澄野先輩は妹ちゃんのため、ひいては作戦室のため、そりゃあもう丁寧に聞き込みをしてくれた。
 屋上で先輩に、工作技術室では第二から来た二人の先輩らに。澄野先輩の後をつけて廊下からガレージ内の様子を窺ったときは中に厄師寺先輩がいたからちょっと――いや、大分驚いたけれど(意図的に急所は外したとはいえ、刺された翌日に彷徨いてるなんて正気の沙汰じゃない。話している途中で傷口が開いたらしく、部屋に戻ると澄野先輩に言い残して外に出ようとしたから、気づかれないうちに食堂の方に向かった。流石に今あの人に出くわすのは避けたかったのだ)。
 厄師寺先輩から逃げるついでに食堂で軽くあん肝フラペチーノだけ胃に流し込んでいた自分のところにも澄野先輩はやって来て、妹ちゃんが欲しがっているものを聞いていった。どうやらモノで喜ばせた後説得するつもりらしい。プレゼントで釣るってのは、常套手段っすよね。ま、今までそうやって戦いたくない派をそっちに引き込んでいったんだから、それも当然か。
 先輩が食堂を出て行ったのを見届けてから、一定の間隔で尾行を再開する。一階での情報収集を終えた先輩は聞き込みの範囲を校舎の二階に変えていて――それで、図書室にいた妹ちゃんと話をしていたところだった。扉の隙間から中を窺ったとき、「どんな事がしたいんだ?」って、澄野先輩は妹ちゃんに尋ねていた。「もしこの生活から解放されたら、お前はどんなことがしたいんだ」って。――頼みはしたけど、流石に踏み込みすぎじゃないっすかね? 苛立ちに似た感情が、内臓を焼く。



「自分、探偵になりたいの」



 妹ちゃんの声は、図書室の外にいてもきちんと拾える。
 憧れてる人がいるんだ、そう澄野先輩に話す妹ちゃんの横顔は、自分の背にいた妹ちゃんよりも大人びて見えた。スクーターに乗って、探偵としての依頼をこなしていた自分らの父親。妹ちゃんはいつもキラキラした目で見送っていた。お父さんみたいになりたいなあ。舌っ足らずに口にしたあの日の小さな妹ちゃんは、今、その手足を伸ばし、自分の指の隙間から抜けだそうとしている。








 わかっていたのだ。
 本当はもうどうしようもなかったこと。認めてあげなければいけなかったこと。尊重してやらなければならなかったこと。
 澄野先輩は、その日一日かけて得た情報をもとに、他の先輩方から譲ってもらった資材でスクーターを作成した(便利なものだ。必要な材料さえあれば、娯楽室のプレゼントマシーンは望み通りのものを作ってくれるのだから)。妹ちゃんが父親が乗っていたのと同じタイプのスクーターを欲しがっていることを先輩に教えたのは他でもない自分だが、妹ちゃんのいる図書室まで、すっかり陽が落ちて暗くなった廊下を、重たそうにスクーターを引きずって歩く澄野先輩はまあまあ滑稽だった。嘲るように浮かんだ笑みが、数秒の後、音を立てて落ちていく。
 ――終わりに近づいている、と考える。
 終わりに近づいている。自分が作った妹ちゃんを守るための城塞を、妹ちゃんはもう乗り越えようとしている。閉じ込めようとしたって無駄だ。あの子は、本当は諦めの悪い子だから。芯があって、自分の正義を譲らないような子だったから。
 多分、先輩の説得は失敗する。妹ちゃんは先輩を拒絶するし、ここまで来たら絶対に自分の思いを曲げたりしない。ほんと、誰に似てそんな頑固な子になっちゃったんだろうね? 小さく笑ったその先で、ようやく図書室にたどり着いた澄野先輩が扉の向こうに姿を消した。



「過子ちゃんが今馬くんの全てなんだね」



 こんな時に、思い出している。
 自分が妹ちゃんについていないのを良いことに、妹ちゃんに近づいたあの人が言った言葉を。








 今から数時間前、「探偵になりたいの」と妹ちゃんが澄野先輩に打ち明けた直後、階段の方から悲鳴が聞こえた。蒼月先輩らしき人のことさら驚いたような声と、「わー! ご、ごめんなさい!」っていう、先輩の声だった。
 先輩は、そのまま階段を上っていったようだ。――もしかしたら、妹ちゃんを探しているのかもしれない。あの人はどういうわけか、ずっと、自分らのことばかり目で追いかけていたから。だから、待つことにした。この後澄野先輩が図書室を出て行っても、少し待とうと。あの人は多分、そのうちここに来るだろうから、と。
 先輩。第二防衛学園から来た、面白変質者集団のお仲間。――正直、目障りな人だった。第二の他の先輩らと違って一見まともな分、それが妹ちゃんに要らない親近感を与えたのかもしれない。もっと前から釘を刺しておくべきだった。あんな風に、妹ちゃんの力になろうと調子に乗る前に。
 図書室から出て行く澄野先輩を物陰から見送って数分後、果たして先輩はやって来た。誰かに妹ちゃんの居場所でも聞いたのか、駆け足で、少しだけ緊張したような面持ちで。
 ――どうして止めなかったんだろう。
 あの人は妹ちゃんにブチ悪影響だ(勿論それはあの人に限った話ではないが)。妹ちゃんに近づかないよう、今日だって忠告しようと思えばできたはずだ。なのにしなかった。外に出て行こうとする妹ちゃんをもう止められないと、どこかでわかっていたからかもしれない。
 扉の隙間から見たあの人は、何も知らないくせに、知ったような口をきいていた。厄師寺先輩もだけど、あの人も大概だ。しつこくて、お節介で、頼んでもないのにこっちに踏み込んでくる。お人好しみたいな顔して厄師寺先輩の容態を妹ちゃんに聞かせる先輩は、妹ちゃんに肩入れする。あの子の手を取って、引いていこうとする。
 だけど。



「過子ちゃんが今馬くんの全てなんだね」



 だけど、どうしてあの人はあんな風に、どうしようもない声で言うのだろう。
 ランタンの橙に照らされた肌。伏せられた目が、何か自分達ではない、もう届かない別の誰かに向けた懺悔のように見えた。
 ポケットに入れたままの紙片が、指先に触れる。
 第二防衛学園から持ってきてもらった食料を手分けして冷蔵庫に運んだ日、溢れかえる食料の中に紛れるように入っていた先輩が書いたんだろう手紙。これを見つけたときからあんたを偽善者だと思っていたと言ったら、あんたはきっと困った顔で笑うだろう。
 その皮を剥ぎたかったのだ。自分らの親戚がかぶっていたのと同じ皮だと思ったから。








 澄野先輩の説得は失敗した。
 思っていた通りだった。妹ちゃんの意思はもう誰がどう揺るがしても崩れることはなくて、どうにもならなかったのだ。「お兄ちゃんが自分を大切に思ってくれてるのはわかってる。……でも自分にとってもお兄ちゃんは大切な存在なんだよ」「自分は、守られるだけじゃなくて守りたいの」「自分のせいで嫌われたり傷付くお兄ちゃんをもう見たくない」妹ちゃんは、自身を戦いから遠ざけようとする澄野先輩にそう言葉を重ねた。



「自分は……お兄ちゃんの足かせになりたくない……。お兄ちゃんには、お兄ちゃんの人生を歩んでほしいから……」



 だから。



「だから、自分もお兄ちゃんを守る。お兄ちゃんが大好きだから」



 図書室の外でそれを聞いた瞬間、自分が閉じ込めていた砂糖菓子みたいな女の子が、もうどこにもいなかったことに気がついたのだ。



「…………あーあ」



 独りごちた声は薄暗い廊下の隅に落ちて、溶けずに転がっていく。
 自分は妹ちゃんを愛している。誰よりも、誰よりも。本当は、スクーターになんか乗せたくなかった。自分の手の届かないところに行ってしまう気がしたから。あの子があれを欲しがっていることを、自分の中にだけ閉じ込めていたかった。いつまでも隣で傷一つないあの手を握っていたかった。
 だけどもう終わりだ。
 あの子は自分の声も、澄野先輩の説得もきかない。目の前の壁を破壊して、飛び立っていこうとしている。閉じ込めていた籠は、触れただけで崩れていった。大事にしていたのに。
 その時不意に、「わかるよ」と言われた気がした。昼に、妹ちゃんに口にしていたのと同じトーンで。あんたのせいだとは、言わない。
 図書室の扉に手をかける。「あーあ」って、改めて二人の前で口にする準備をして。
 説得は失敗だ。
 自分はもう、妹ちゃんをこの籠から出す。
 もういいよ、そう言ってやることにする。お人好しのあの人にも。








 まだ過子ちゃんが図書室にいる確証はなかったけれど、闇雲に探すよりは可能性があると思った。
 夕飯を慌てて流し込んだ後みんながおしゃべりしている食堂を飛び出して、食堂脇の階段を一段飛ばしに駆け上がる。校舎西側のそれは生物薬品室に近く、角を曲がれば、図書室はすぐそこだった。心臓がどきどき音をたてる。スープが喉元までせりあがってくるのを感じながら、ぐ、って唇を噛む。
 ――想像通り澄野くんと今馬くんが結託して過子ちゃんの意思をねじ伏せようとしているとして。
 それで一体、自分はそこに行って何をしようっていうんだろう。過子ちゃん側について二人と言い争って、説得できる可能性なんかあるんだろうか? ……正直、私なんかがいたところで丸め込まれるのがオチだと思う。澄野くんは兎も角、今馬くんは口も上手いから。
 だけど、じっとしていられなかった。たとえどうにもならなくても、過子ちゃんの味方になりたかった。大切な人を守りたいっていう過子ちゃんの意思を、私だけでも尊重したかったのだ。
 緊張からくる吐き気を飲み込む。月の光の届かない廊下を駆けて、それで。
 それで、息が止まった。
 図書室の方から歩いてきた人影があったから。
 足を止めた。私が気がついたのと同じタイミングで、その人もまた私の存在に気がついたように立ち止まる。小柄な身体。さらさらの髪の毛は生来のものというよりは、手入れの賜だったのかもしれない。臙脂色の学ランに身を包んだ彼は私を視界の中央に置くと、「……ああ、遅かったっすね。先輩」って笑った。その笑みにどんな意図がこめられているのか、わからなかった。








 妹ちゃんと澄野先輩の二人を置いて図書室を出た後に出くわした先輩は、ほとんどゲロでも吐きそうな顔で自分を見ていた。
 今になって気がついたんだろう。澄野先輩が自分に頼まれて、妹ちゃんを説得しようとしていたことに。この人は、だから、いまいち足りない。本当に妹ちゃんの力になりたいんなら、目を離すべきじゃなかった。あのまま図書室に居座って、妹ちゃんの傍から離れずにいるべきだった。……ほんと、詰めが甘いっつーか、なんつーか。
 顔面蒼白の先輩は、だけど自分の発した「遅かったすね」という言葉に対して、どうも逆の想像をしたらしい。「お、遅かった? え、じゃ、じゃあ過子ちゃんは今、どうしてるの? な、泣いてるんじゃ……」と、おろおろと図書室の方角に視線を向ける。自分があの子の思いを踏みにじったと思い込んでいる。
 ――とんでもないお人好しだ。
 血のつながりもない他人にかまけて、踏み込んで、そうするための力なんかどこにもないくせにどうにか救い出そうとする。自分にとってはド迷惑で、妹ちゃんにとってはブチ悪影響。
 でも、自分達を利用しようとしていたわけじゃない。
 黙ったまま返答する気のない自分に痺れを切らしたのか、先輩は自分の横をすり抜けて図書室に向かおうと足を踏み出した。「もういいんすよ」って、だから、言ったのだ。先輩が足を止めた。見開かれた彼女の瞳に映る自分は、まあ、確かにいつもより毒気がないか。「もういいんす」、もう一度掠れる声で呟いたそれに、先輩は首を傾げた。



「……今回は、こっちが折れることにしたんで」

「………………」



 長い沈黙の後、先輩の半開きになった唇から、「え?」って声が漏れる。その顔があんまりにも間抜けだったから、つい笑ってしまった。先輩は、「え、え、じゃあそれって、過子ちゃん、戦えるってこと? た、戦って、いいの? 今馬くん」とわざわざ尋ねてくる。そんなに自分が折れたっていうのが信じられないんだろうか。流石に、ド失礼じゃないっすか? ……まあ、妹ちゃんも澄野先輩も、「ここまで自分の思い通りにならないなんてちょっと驚いたけど……。なんつーか、妹を嫁に出す時の気持ちってこんな感じなのかな?」と健気に引いた自分を前に面食らったような顔をしていたのは、確かだけれど。
 妹ちゃんが戦うことを、自分は認めた。とはいえ、結果的に先輩の思い通りにいったと思われるのは面白くない。この人がいなくても、結果はこうだった。多少は意地悪させてもらいたいけどとポケットに手を入れたら、指先に小さくなった紙が触れた。それを取り出して、まだ間抜けな顔をしている先輩の顔の前に開いて見せる。



「こんなド寒い手紙を書いちゃうような先輩に免じて――ってわけじゃないんで、そこは覚えといてほしいっすね」



 先輩の、「え」という柔らかな声。
 「過子ちゃんが今馬くんの全てなんだね」、そう言ったあんたの、あらゆる感情を吸い尽くしたような声を覚えている。
 とっくに何かをなくした人間の声。あんたが妹ちゃんに執着するのは、あんたがあの子に何かを重ねているからだ。
 先輩は広げられたその紙に書かれた文字が暗くて見えないのか、その目を細めて、ぐっとこちらに近づいた。――先輩が書いた文字だ。認識するのにさほど時間はかからなかったのだろう。「百日目まで一緒に頑張ろうね」。一度手放したはずのものをこんな形で見せられるとは思わなかったのか、先輩はきっかり数秒経ってから「えっ」と短い悲鳴をあげ、それから「ちょ、ちょっと! なんで今馬くんがこの手紙持ってるの!?」って、羞恥に染まった顔を自分に向けた。それだけで、これまでため込んでいた全部の溜飲が下がった気がしたんすよ、先輩。
 ぶは、と笑う自分の手にそれを取り返そうと、先輩は手を伸ばす。ぶっちゃけこんなもんいらないし、返してやってもよかったけど、ここまで必死になられると手放すのが勿体なく思えて、再びポケットにねじ込んだ。「え!」と非難めいた声をあげる先輩に、「自分、返すなんて一言も言ってないんで」と笑って、階段に向かって歩き出す。



「い、今馬くん~……!」



 背中を向けたままこっそり笑ったとき、もう東京団地のどこを探してもない、懐かしい家のにおいが、ふっと鼻を掠めたような気がした。父さんの乗るスクーターのエンジン音、本の積み上がった書斎、母さんの作る料理の、ぼやけた香り、部屋の隅にたまった埃と、ベッドに散らばる昼寝をしていた過子の髪。
 全部愛していた。
 あの子しか残らなかったから、行き場のない愛を全てそこに捧げたのだ。
 追いかけては来ない先輩に首だけで振り向く。「先輩って多分、兄妹いるっすよね?」思いついたままに尋ねた自分に目を丸くしたあんたは、やっぱり、一度全部を手放したことのある人間の顔をしていた。


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