「先輩は、本とか読む?」
「え、本かぁ……。う~ん、そうだな……東京団地にいた頃、少女漫画とかを友達と貸し借りして読んでたくらいで、活字とかはあんまり……。過子ちゃんは本好きなの?」
「うん、大好きだよっ! ミステリーとか実録ホラーとか、ドキドキするやつが特に好き……!」
これとか、これとかもおすすめだよ、って、過子ちゃんはテーブルに積み上がった本を差し出してくれる。「怨霊の森」とか「殺人鬼Jの回想」とか、過子ちゃんが勧めるのはちょっと怖いタイトルの本ばかりで、「わ~……」と漏らしながら、ぺらぺら捲ってみた。どれもこれも分厚いから百日目までに読み切れるか自信がなかったけれど、「読み始めたら止まらないよ! 癖になる味なんだ、読むバナナホイップ納豆ごはんなの! もう読み終わったから、先輩に貸してあげる!」って言われて、一冊だけ、あんまり怖くなさそうなタイトルの本を受け取った。
「読んだら感想教えてね……っ!」
気を許してくれているのかな――そう思ったらなんだかくすぐったくて、「うん」って返した声がちょっとだけうわずった。
図書室は四方の壁を本に囲まれてはいるものの、あちこちに置かれたランタンの薄ぼんやりとした灯りがあるおかげで、さほど暗さは感じない。人の気配は遠く、こうしていると、学園から私達だけが切り離されたようだった。
――過子ちゃんは、突然図書室に現れた私に怪訝そうな表情を浮かべたりしなかった。「あ、先輩……!」って口にすると、隣の椅子を引いて、「こっち来て……!」って手招きしてくれた。私はそれに、実を言うと少しだけ面食らっていたのだ。もっと落ち込んでいるかもしれない、って思っていたから。
橙色に淡く照らされた過子ちゃんの顔をじっと見つめると、不思議そうに見つめ返される。
「どうしたの?」
首を傾げられたから、つい考えるよりも早く、「えっと、過子ちゃんが思ってたより元気そうでよかったなって……!」って言ってしまって、それから、今のはちょっとよくなかったかもしれない、って思い直した。どことなく、無神経さを指摘しているみたいだって思ったのだ。そんな意図は勿論ないのに。
でも過子ちゃんは何のてらいもない様子で、「うん、元気だよ」って言った。「本当は、さっきまでもうちょっと元気なかったんだけど」って続けたけれど。
「さっきね、澄野先輩が来てくれたの」
「――澄野くんが?」
思いもよらない人物の名前に、つい空気の抜けた声を出してしまった。
過子ちゃんは嬉しそうにはにかんで続ける。
「そう、実は自分ね、昨日、こっそり澄野先輩の部屋に手紙を入れたんだ。『お兄ちゃんを説得して』って」
「え、今馬くんを?」
「うん! それで澄野先輩、今、頑張ってお兄ちゃんを説得するための情報を集めてくれてるんだよ!」
「情報…………」
それで、さっきそれが上手くいきそうだって教えてもらえたんだ。過子ちゃんはそう口にした。ハンカチに包んだ柔らかくて大事なものを確かめるみたいな声色で。
――今馬くんを説得するための情報を集めている。
私の中にも落ちていた可能性が過子ちゃんの言葉で縁取られて、ずっしりと重みを増す。少し、安心した。同じように、過子ちゃんの意思を尊重したいと思っているのが私だけじゃないことがわかって。だけどそうなると気になってくるのは「じゃあどうして澄野くんは過子ちゃんの情報を集めているのか」ってことだ。だって今馬くんの説得なら、過子ちゃんじゃなくて今馬くんの情報を探るべきじゃないだろうか。何か行き違いでもあるのか、私には想像のつかない部分で行き交う思惑があるのか――そんな思案をしていたときだ。「ねえ、先輩」って、過子ちゃんに真っ直ぐ見つめられたのは。
過子ちゃんは、眉尻を下げて私を見ていた。胸のあたりに手を当てて。「あの」って、何度か言いよどんで。それから、思い切ったように口を開いた。
「厄師寺先輩は、大丈夫かな……?」
心配と申し訳なさが合わさった声は、少しだけ震えていた。
今馬くんがしたことに責任を感じているのだろう。思ったより元気そう、なんて、やっぱり失礼な話だった。過子ちゃんは、心を痛めていた。歪んだ過子ちゃんの顔をそれ以上見ていられなくて、慌てて、「大丈夫だよ!」って言う。さっきまで抱いていた疑問なんか、すっかり彼方に追いやって。
「私も直接厄師寺くんのお見舞いにいったわけじゃないんだけど、面影くんが大丈夫って言ってたよ。内臓とか大事な血管とかは損傷してないって」
「え……本当?」
「うん。当分安静にはしてないとかもしれないけど、きっとよくなるよ。だから、大丈夫」
「…………そっかぁ……。よかったぁ……」
過子ちゃんは、今馬くんといるときと全然違う。表情がくるくる変わって、人懐っこさとか、生来の優しさが全面に出ている。だから、過子ちゃんがほっとしたような、泣き笑いのような顔をしていると、私はつられて泣きたくなるのだ。遠くにある花畑が、風に揺られて喜んでいるのを眺めているような気分になって。
胸の内側が鈍い熱を持って、水底から押し出されるような感覚があった。目の前が薄く点滅して、私は彼女の影に昔の自分を見る。
重ねられた手。閉じられたピアノの蓋。外側ばかりが美しかった私達。一緒にいられればなんでもよかった。
「今馬くんは、過子ちゃんのことがすっごく大事なんだね」
過子ちゃんの瞳の中にいる私の表情は、遠すぎて、見えない。
――今馬くんのやっていることは、間違っているとは思う。
過子ちゃんを守るためとは言え、恐らく自分がどれだけ本気なのかを示すために厄師寺くんを刺した。もうなりふり構っていられないのだろう。彼がやってしまったことの肯定はできないけれど、その気持ちがわからないとは、嘘でも言えない。「過子ちゃんを守ることが自分の生きる意味」って言った今馬くんの愛情を、私は否定できない。
「過子ちゃんが今馬くんの全てなんだね」
愛だ。
夕立に濡れた髪を拭く手。洗ってもらった膝の怪我。水を含ませた布でブラウスにできたミートソースの染みをたたいてくれた。両手を繋いでもらった。三つ並んだ影の中にあの子はいなかった。私だけが愛を与えられた。私だけが。私だけが。隣に私の全てだったあの子がいてくれたら、どんなに幸福だっただろう!
過子ちゃんは、ささくれの一つもない手で、スピンの挟まった厚い本の表紙を慰めるみたいに撫でた。そこにどれくらいの沈黙があったか。十秒か、一分か。「……お兄ちゃんはね」って口を開いた過子ちゃんの声は、遠い過去を懐かしむように優しい。
「……東京団地にいるときから、ずっと自分のことを守ってくれてたの。お父さんとお母さんが交通事故で死んじゃってから、ずっと」
一つ一つ噛みしめるような言葉に、視線を上げる。
「二人で生きてくために、お兄ちゃん、何でもしてくれた。汚いことも、酷いことも、本当はやっちゃいけないことも……自分の代わりに、全部引き受けてくれた」
瑕疵一つない、過子ちゃんの丸い瞳も、桜色の爪が揃う滑らかな指先も、今馬くんはずっと守ってきたのだろう。亡くなられたご両親のかわりに。そう、「お兄ちゃんだから」。どれだけ自分が汚れても。真っ黒い泥をかぶっても。守るべき妹に透明な膜をかぶせて。大丈夫だからって言い聞かせて。
だけど過子ちゃんは、その膜を破ろうとしている。
「だから、今度は自分がお兄ちゃんを守るんだ」
私には、それがあんまりにも眩しい。
「お兄ちゃん、先輩にも酷いこと言ってたよね。ごめんなさい……! ……でも、悪い人じゃないの……!」
真剣に私に訴える過子ちゃんは、テーブル上の私の手に自身のそれを重ねた。微かな温度を感じながら、小さく頷く。うん、って。間違えないように、慎重に言葉を選んで。
「わかるよ」
たった四文字の言葉に、過子ちゃんは泣きそうに笑った。
夜の食堂だった。夜は朝と違ってみんなそれぞれ好きなタイミングで食事をしにくるからそう揃うことはないんだけど、療養のために部屋にいるもこちゃんと厄師寺くん、それからもこちゃんに付き添っている希ちゃんと、過子ちゃんと今馬くん、澄野くん以外の全員が、珍しく集まっていた。
その場にいない人物について話が弾むっていうのは東京団地の外でも関係なく起こりえるものらしい。誰が最初に「そういえば」って言い出したのかは定かではないけれど、水槽側のテーブル席にそれぞれ座っていた私達の話題の中心は、いつの間にか「過子ちゃんのことを聞いて回っていた澄野くんのこと」になっていた。
過子ちゃんてバイクとか運転のテクとかに興味があるみたいでさ、たまに作業していると声をかけられることがあるんだよね。だから澄野にはそれについて話したな、って教えてくれたのは川奈さん。オススメの小説を聞かれたことがあるけど、怠美バカだからミステリーとかわかんないんだよねー、ってケラケラ笑っていたのが飴宮さん。今馬くんに警戒されているせいで過子ちゃんとはほとんど話したことがないって言っていたのは丸子くんと蒼月くんで、銀崎くんは件の地獄の特訓の時にトレーニングをするのに使っていたリラックスルームを過子ちゃんに覗かれたことがあるって言っていた。くららちゃんと狂死香ちゃんは朝に聞いたとおりで、面影くんは……過子ちゃんの骨格の綺麗さについて語ったらしい(聞きながらつい自分の鎖骨のあたりを撫でたら、面影くんに「うふふ……ちゃんも健康的でカワイイ骨格だよ?」って言われて、反応に困った)。
今日みんなが澄野くんに「過子ちゃんについて」話を聞かれたのは間違いない。
でも、やっぱり変だ。もし過子ちゃんの言っていた通り「今馬くんを説得するための情報収集」であるなら、澄野くんが聞いて回るべきなのは今馬くんのことであるはずだ。澄野くんは、一体どうして過子ちゃんのことを調べているんだろう。過子ちゃんの興味があるものや好きなものを知って、どうするんだろう。澄野くんが食堂に来てくれたら聞けるのに、彼が来る気配は全然ない。答えがわからなくて、やきもきする。
――これじゃあまるで、澄野くんが説得しようとしているのが今馬くんじゃなくて、過子ちゃんみたいだ。
「…………あ」
その可能性に思い至った瞬間、お腹の底がさあっと冷たくなった。
澄野くんは過子ちゃんに戦うのをやめるよう説得するつもりなのかもしれない。過子ちゃんが手紙にしたっていうそれを今馬くんに嗅ぎつけられて、丸め込まれて。……いや、もしかしたら澄野くんは最初から「戦うべきじゃない」って思っていたっていう可能性だってあった。過子ちゃんは守られているべきだって思っていたのかもしれなかった。
目の前が歪んで、ぐらぐらした。
「ちゃん? 大丈夫?」
面影くんに声をかけられて、我に返る。「だ、大丈夫」、って笑みを貼り付けながら、残っていたスープをほとんど呷るように飲み干した。「あの、面影くん、この後希ちゃんともこちゃんのご飯を持っていくの、お願いしてもいいかなあ?」、なるべくなんてことないように尋ねた声は、ちょっとだけ、震えていた。