もこちゃんの意識はまだ戻らないらしい。
 翌朝、朝食前にくららちゃんと狂死香ちゃん、面影くんと私の四人でもこちゃんの部屋にお邪魔させてもらったけれど、ベッドに横たわったまま目を閉じるもこちゃんは良くも悪くも昨日までと変わった様子がなかった。



「もこ殿~……!」



 目を潤ませてベッドサイドに駆け寄る狂死香ちゃんの隣から、もこちゃんの容態を伺う。その顔色は、まだ土気色だ。
 心配する私たちを元気づけるためだろう。丸椅子に座っていた希ちゃんは、疲れを感じさせない笑顔で「でもね」って微笑みながら口にした。



「意識はないままだけど、一応飲み物は飲んでくれるんだよ。ほら、昨日ちゃんが持ってきてくれたドリンク、減ってるでしょう?」

「わ、ほんとだ! うれし~……」

「経口で水分が摂れているなら、とりあえずは安心じゃないかな? 見たところ、脱水症状もなさそうだし……」

「とはいえ、もこが丸二日も眠ったままなのは心配だけどね……」

「おおん……もこ殿ぉ……! 早く目を覚ますでござる……!」

「ちょっとアンタ! 朝から散々自慰した手で病人に触るんじゃないわよ!?」

「えっ!? ちゃ、ちゃんと洗ったよぉ!?」

「……それだと行為自体は否定してないことになっちゃうけど大丈夫?」

「み、みんな、しーっ……! もこちゃん寝てるんだから……!」

「くっ……に常識を説かれるのは腑に落ちないわね……」

「私って普段そんなに非常識かなぁ……!?」



 もこちゃんのことは心配だけど、私達は揃うとどうしてもうるさくなってしまう。今日も傍についていると言う希ちゃんに、また後で二人のご飯を持ってくるねって声をかけて、それから私達はもこちゃんの部屋をお暇した。
 外はこの日も、長閑で良い天気だった。指で千切ったような雲があちこちに漂っていて、肌を撫でる風は生ぬるかった。日差しは私達に満遍なく降り注いで、隅々まで優しかった。
 軽くのびをしながら、くららちゃんが言う、



「……まあ、とりあえず様子を見るしかないわよね」

「それ以外はないね。怠美ちゃんの提案も受け入れがたいし」

「もこ殿を斬って復活させる……というやつでござるな!」

「馬鹿げてるわね。検討の余地もないわ」



 眠り続けるもこちゃんを心配する私達に「一回殺せば起きるんじゃね?」って言ったのは、昨日の飴宮さんだ。それぞれDNA情報が登録された私達は、死んでも保健室の蘇生マシーンで蘇ることができる。あまりにも目を覚まさないようであれば一度死んだ方が早い、って考えはわからなくもないけれど、そうだとしてもそのためにもこちゃんを手にかけることなんかできなかった。
 だから今の私達にできることは、もこちゃんの回復力を信じて待つだけ。
 つい足を止めてもこちゃんの部屋を振り返る。三日前まで空き室だった、私と面影くんの間の部屋。ずっと真っ暗だった液晶に「モジロ」って浮かんでいるだけで、花が咲いているみたいに見えるのだ。



―、おいていくわよー!」

「わ、待って待って!」



 食堂に向かうため、階段の方へと向かう三人を追いかける。
 すべてが上手くいっているわけではないけれど、いずれ物事は正しく収束する。
 そんな予感がするような朝だったから、私はこの後、自分がとんでもない事態に直面することになるなんて、ちっとも想像していなかったのだ。
 ――厄師寺くんが、今馬くんに刺されることになるなんて。








「はぁ……っ」



 ため息を吐いて、無人の食堂で一人テーブルに突っ伏す。
 中央に鎮座する長テーブルではない。私が座っているのは壁一面の巨大水槽にほど近い、四人掛けのテーブル席だ。さっきまで、くららちゃん達と座って食事をしていた場所。一人のときは長テーブルを使ってご飯を食べたり休んだりしていたけれど、今日はそれができない。
 だってあの長テーブルのすぐ真横だったから。
 あそこで厄師寺くんは、今馬くんに刺されてしまった。
 思い出すと、頭が痛くなる。背筋がぞわぞわして、心臓が急に耳のすぐ傍で鳴っているような気がする。
 一瞬だった。
 私はその一瞬を、この場所から見ていた。








 過子ちゃんが食堂に飛び込んできたのは、私達四人が朝食をあらかた食べ終えた頃だった。



「妹ちゃん!」



 おしゃべりしながら食事をしていたものだから、勢いよく開かれた扉といきなり響いたその声に、びくりと肩が震えた。顔を上げて扉の方を振り向けば、ここ数日姿を見せなかった過子ちゃんの姿がある。それから、今馬くんも。



「こんなところにいる必要ないって話したよね? 早く戻るよ、妹ちゃん。ほら――」



 どこか切迫めいた表情と声で呼びかけた今馬くんが伸ばした手が、過子ちゃんに拒まれるように振り払われたとき、私は、一体何を考えていたのだろう? わからないのだ。何せ、全ては一瞬だったものだから。



「もう、嫌なんだってばぁ!」



 ――それは、酷く悲痛な声だった。
 誰もが彼女を見ていた。飴宮さんはグミを咀嚼しながら、銀崎くんは諍いの気配にさあっと青ざめて、川奈さんは目を丸くして、丸子くんは過子ちゃんの大声に怯みつつ、厄師寺くんはどこか微笑めいたものをその口の端に浮かべて、蒼月くんは何か思案しているような、思慮深い目で。
 「……過子、どうしたんだ? 何があったんだ?」取りなすように二人の元へ駆け寄ったのは、ちょうど過子ちゃんが叫んだタイミングで食堂に来た澄野くんで、それでようやく私も我に返る。過子ちゃん、って浮き上がりかけた腰は、けれど隣に座っていた面影くんに制された。「ダメだよ」って小声で諭されて、数秒思案した後、待てをされた犬みたいに腰を下ろす。――実際、私が今あそこに駆け寄ってもどうにもならないって思ったからだ。だけど、やきもきしていた。何かあったら、過子ちゃんの元に駆け寄る覚悟でいた。たとえ今馬くんに何を言われても。
 この数日ずっと今馬くんの元で自由に動けずにいたのを、無理矢理飛び出してきたのだろう。澄野くんに声をかけられた過子ちゃんは、堰を切ったように話し始める。「じ、自分……もう嫌なの……。お兄ちゃんの言いなりになって、ずっと部屋に閉じこもったままなんて……」って。
 私は、あの日の作戦室を思い出していた。
 あの日、私に本心を打ち明けてくれた過子ちゃんのことを。



「このまま百日目になるまで二人で隠れながら過ごすなんて、そんなズルイのは、嫌なの……」



 水の中にでもいるみたいに青白い光を受けていた肌を。きゅるきゅる音を立てて動いた椅子を。テーブルの上に置かれた我駆力刀を。過子ちゃんの放っていた光を。
 あの日より、ずっと切羽詰まった声だった。抑圧され続けた感情が行き場を失って、噴出しているみたいだった。



「自分も……自分だって……みんなと一緒に戦いたいよ……!」



 過子ちゃんの目尻から、数粒の涙がぽろぽろ零れるのを見ていた。
 厄師寺くんが「おーおー、いいじゃねーかよ!」って大股で過子ちゃんと澄野くん、今馬くんの傍に近づいていく。過子ちゃん達が食堂にやって来たときからその口元に笑みを浮かべていた厄師寺くんは、こうなることを予感していたのだろうか。



「こっちは大歓迎だ! 俺らと一緒に人類を救おうぜ!」



 何のてらいもなく、真っ直ぐな声で告げる。過子ちゃんが、顔を明るくして厄師寺くんの方を見た。それに冷水をかけるみたいに、今馬くんは忌々しげに口を開くのだ。「バカバカしい」って。
 吐き捨てるような声音だった。「人類とかどーでもいいっす」、彼は言葉を重ねていく。俯いた今馬くんの手は、微かに震えていた。怒りを押し殺した声だった。どうして今更、それに目眩を覚えるのだろう。引きずり込まれそうになるのだろう。ここは東京団地じゃないのに。



「だから言ったんすよ……。アンタら、妹ちゃんに悪影響だって……。アンタらがド寒い一致団結なんかしてるせいで、妹ちゃんがおかしくなっちゃったんすよ……」



 四人掛けのテーブルの下、面影くんはいつの間にか、私の手に自分のそれを重ねていた。
 まるで、首輪代わりにでもするみたいに。








 目の前で厄師寺くんが刺されたことによるショックで、川奈さんは彼が男子達に運び出された後トイレに駆け込まざるを得なくなり、飴宮さんは「うひょ~! コロシアイが始まった~!?」と喜んでいたのも束の間、「なんか……猛丸もふつーに無事っぽいしどうでもよくなってきちゃった……」って言い残してふらりと姿を消した。
 だから、食堂の掃除ができたのは私とくららちゃん、狂死香ちゃんの三人だけだった。
 「なんでアタシがこんなこと……!」って文句を言うくららちゃんを宥めながらも今の今まで床に広がった血だまりを掃除して、やっとの思いで綺麗にし終わったのがついさっきのこと(バタバタしていたせいで希ちゃん達の食事を届けるのを忘れていたけれど、掃除が終わった後、くららちゃん達が持って行ってくれた。――私は顔色が悪いから、休んでろだって。実際大分心が穏やかではなかったから、心遣いがありがたかった)。だから今、私は食堂に一人だ。
 きちんと掃除をしたから床には血痕の一滴も残されていないし臭いもない。ここで傷害事件が起きたなんて、信じられないくらいだ。けれど、たとえ何の痕跡もなかったとしても、どうしてもあの近くに座ろうって気にはなれない。
 揺らめく水槽を見ていた。そこに反射する自分の顔は、生命力がごっそり削ぎ落とされたみたいに頼りなかった。
 ――今でも血の気が引く。
 今馬くんは、「自分はおかしくなんかなってない」って、「お兄ちゃん、いつもそう、危険だからって自分に何もさせてくれない」って言う過子ちゃんの悲痛な訴えを、じっと聞いていた。
 名前じゃなくて「妹ちゃん」って呼ばれるのも、お兄ちゃんの決める事に従うだけなのも、みんなが命がけで戦っているのに卑怯に逃げ回るのも、もう全部嫌だ、って。お願いだから今回だけは自分の好きにやらせて、みんなと一緒に戦わせて――そう訴えた過子ちゃんに、今馬くんは沈黙の後、笑ったのだ。「驚いたな」って。本気なんだね、って。だったら仕方ない、って。過子ちゃんの顔がぱっと上がる。その背に、微かな希望が滲んだ。だけど、違うのだ。
 今馬くんは、続けた。



「……そういう悪い子は、ちゃんと叱って教育してあげないと」



 ぞっとするくらい低い声だった。過子ちゃんの背中越しに見えたその目は鮮烈な怒りに満ちていた。「おいで、部屋に帰るよ、お説教はそこでしよう」、彼の年齢を考えればずっと大人びた口調でそう口にする今馬くんに過子ちゃんが腕を掴まれながらも抵抗しようとしたとき。
 再び立ち上がりかけた私を、面影くんの手は許さなかった。ぐって手首ごと押さえつけられて、息が止まった。彼の顔を見たときの、真剣な眼差し。だから、私の視界から外れたところで厄師寺くんが今馬くんの前に立ち塞がったと知るのが、少し遅れたのだ。
 厄師寺くんは、「……待て、コラ」って言った。
 ――今馬くんのものとは違う、凄みに満ちた声だった。



ちゃん」

「ひゃっ!」



 急に耳元で囁かれて、変な声をあげて椅子に座ったまま飛び跳ねてしまった。
 水槽の方に向けていた顔を振り向かせる。そこに立っていたのは澄野くん達と一緒に厄師寺くんを部屋に運びに行ったはずの面影くんで、私は「わ、わ~、面影くんかぁ……!」って、心臓を押さえながらも水槽の方へと背中を寄せる。単純に、びっくりしたのだ。――彼の座るスペースを作ったわけではなくて。



「うふふ……ごめんね? 驚かせちゃって」



 面影くんは一人だった。一人で食堂に来て、私に声をかけたのだった。こういうとき、普通ならば向かいの席に座るだろうに、だけど彼はそうしない。私がずれたことで空いた席に、そのまま腰を下ろしてしまう。おかげで私は水槽と面影くんに閉じ込められる形になってしまって、困惑した。「そこ、座るんだ……」って思わず零した私に、彼は曖昧に笑うだけ。



「掃除、終わった?」

「う、うん、終わったよ。厄師寺くんの怪我は、その……どんな感じ……?」

「彼なら大丈夫だよ。一見して致命傷にならないよう、内蔵を避けて綺麗に刺されてたからね。……狙ってやったんだと思うけど、器用だね。今馬君って」



 厄師寺くんが刺された直後、噴き出した血に興奮していた面影くんを思い出す。さして緊迫感のない様子だったことから命にかかわるものではなさそうだって思っていたけれど、実際に言葉にして聞かされるとほっとした。「よかったあ」って胸をなで下ろせば、面影くんは小さく笑った。



「随分元気そうだったよ? かすり傷だ、百万倍返ししてやる……って何度もベッドから起き上がるから、澄野君達も大変そうだったな……」

「その状態で出てきたの?」

「あの状況じゃ何人いても変わらないよ。……それより、ちゃんの方が気になったからね」

「え」



 私? って、自身を指さす。
 テーブルに肘をついた面影くんは、「うん」って微かに頷くだけだ。



「…………ショックだっただろうなって思ってさ」



 面影くんの肌が、水槽を淡く映している。彼の背の向こうだ。厄師寺くんが今馬くんに刺されたのは。








 抵抗する過子ちゃんのことを、有無を言わさずに連れて行こうとした今馬くんの前に、厄師寺くんは立ち塞がった。「いくらアニキだからってよ、妹の自由を奪っていい事にはなんねーだろ」「ちったぁ妹の意見を尊重してやったらどうだ」って、そう言って。
 それが今馬くんの逆鱗に触れたのだ。



「アンタ、なんなんすか……。勝手に妹ちゃんの事を知った気になって……」



 過子ちゃんを掴んでいた手を離した今馬くんは、厄師寺くんに、ゆっくり歩み寄った。異様な空気だった。丸子くんがたじろいだように身を竦めていた。さっきまで「いつまで兄妹喧嘩するつもり?」と漏らしていたくららちゃんも、息を飲んでその状況を見守っている。
 小柄な身体に、今馬くんははじっとりとした怒りを詰め込んでいた。



「自分は……妹ちゃんを守らないといけないんすよ? ジャマしないでほしいっす……」



 次の瞬間、学生服のポケットから、慣れた手つきで彼は何かを取り出した。私の座っていた場所からでは、それが何かよくわからなかった。ただ、今馬くんが一歩厄師寺くんへと踏み込んだ直後、音がしたのだ。私が侵校生の身体にナイフを突き立てるときと、よく似た音が。ぐ、って、厄師寺くんの低い声も。



「……アンタがジャマするからっすよ」



 厄師寺くんの身体から、今馬くんはゆっくり離れる。低い、厄師寺くんのうめき声。彼らの傍にいた澄野くんが息をのむ。まさか、って思った。だけど、「た、猛丸クン!?」って蒼月くんの声が、厄師寺くんの苦しそうな声が、最悪の想像を否定してくれなかった。
 今馬くんは、ポケットに忍ばせていたナイフで厄師寺くんの脇腹を刺したのだ。
 なんの躊躇もなく。
 今馬くんが厄師寺くんの身体から身を引いたその瞬間、厄師寺くんの身体越しに、温度のないその瞳と目が合った気がした。








 私を見つめる面影くんの顔を、見つめ返す。彼の目は、今馬くんのものと全然違う。ぬるくて、優しい。思いやりに満ちている。長い長い沈黙の後、体内に這い回るトカゲのようなものの尻尾を目で追いながら、「うん」って言う。「びっくり、したよ」って、そのへんに落ちていた棒で線を引く。
 今馬くんは厄師寺くんを刺した後、混乱に包まれる食堂を過子ちゃんと二人出て行った。私はその背を見ていた。「妹ちゃんの世界は、兄である自分が守らないといけないんす」、「妹ちゃんの幸せは、兄である自分が守らないといけないんす」、今馬くんが言った言葉を、円になるくらいくるくると反芻させて。



「それが……自分の『生きる意味』なんで」



 私は今も取り残されたまま。


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