上手く出来たと思う。
 希ちゃんに食事を渡すときも、目を覚ます気配のないもこちゃんの寝顔を覗き込んだときも。上手く出来た。希ちゃんの前でも普通に振る舞えたし、声も震えなかった。私は自分の問題とは関係なく、心からもこちゃんの容態を心配したし、希ちゃんにも自然な口調で看病の交代を提案することができた(希ちゃんには「大丈夫だよ。こうしている方が、むしろ気が楽なんだ」って優しく微笑まれた。きっと希ちゃんは、もこちゃんが目を覚ますまでそうして彼女の隣にいるつもりなのだ)。
 希ちゃんはもこちゃんの寝顔を、持ち込んだ丸椅子に座って眺めていた。無償の愛を注ぐ母親のような目だった。一度たりとも諦めることのないままに捜していたもこちゃんにようやく会えたのだ。その献身も無理はない。そして、そんな希ちゃんに不審がられない程度には、私はいつもの私でいられたと思う。



「何かあったらいつでも呼んでね。希ちゃんも、ちゃんと休むんだよ」

「うん、ありがとう。ちゃん」

「希ちゃんまで倒れたら嫌だよ~。そうなる前に、絶対絶対頼ってね。私でもくららちゃんでも狂死香ちゃんでも、面影くんでも!」

「ふふ。うん、わかった。――約束」



 小指を差し出されて、どきっとした。
 約束。指切りだろうか。年の離れた妹とはたまにしていたけれど、こんな風に同年代の女の子とするのは、いつ以来かも定かではない。逡巡を払ってひっそり絡ませた指は、冷たかった。つやつやと輝いた爪だった。希ちゃんは爪先まできれい、って思った。小さな貝みたい、って。
 指切りげんまん。嘘吐いたら――もこちゃんの眠りを妨げないような微かな声量で歌う希ちゃんの声は、どこまでも柔らかい。



「――針千本、のーます」



 指先を離したとき、思ったよりも希ちゃんの顔が近くにあったことにびっくりした。
 青い血管が薄く透けた白い肌と、長い睫毛。その瞳がこちらに向けられそうになって、慌てて中腰の姿勢から背筋を伸ばす。首を傾げられるよりも早く、「じゃあ私、また来るね」って二人にそう言った。



「うん、また」



 最後に振り返って、軽く手を振る。椅子に座って手を振り返してくれる希ちゃんの姿は、細くなっていく扉の向こうに消えて行く。
 パタン、と音を立てて扉が閉まった。
 ――変じゃなかったかな、私。
 上手く出来たとは思う。でも、ちゃんと笑えてたかな。もこちゃんの眠るこの部屋に、濁った物を持ち込むことなくいられたかな。指が震えてたの、バレなかったかな。
 全部エゴっすよね。
 さっき今馬くんに言われた言葉は、ずっと胸に突き刺さったまま、私はそこから血を垂れ流している。無理に引き抜こうとしたら、先の尖った部分だけを体内に残してしまいそうで、できなかった。
 彼の言う通り、全部エゴだ。私が見ているものは過子ちゃんではなく、昔の自分と、とうに背丈を超してしまったあの子。分かってるから言い返せない。視線を爪先にまで落としてしまう。ため息を吐きかけて、でも、直前で止まった。そこに、私のものより一回り大きなサイズの黒いブーツの端が見えたから。



「――殺ぁ、ちゃん」



 もこちゃんの部屋の扉のすぐ真隣のところに、彼は居た。喉の奥で、呼吸とも声ともつかない音が鳴る。「お、面影くん」、いつからいたんだろう。少なくとも、私がご飯を持ってこの部屋をノックしたときはいなかったはずだ。
 壁に寄り掛かり、腕を組んだ彼は、光に目を眇めてでもいるように私を見ていた。



「ちょっといい?」



 青みの薄い空に、面影くんの髪は酷く映えた。








 生物薬品室は、昼でも変わらずに薄暗い。独特の薬品臭に、ホルマリン漬けにされた臓器。この間は気がつかなかったけれど、奥の壁には蝶の標本がずらりとかけられていた。室内のあちこちに置かれた機材は何かを計算でもしているかのように常に稼動していて、そのディスプレイの明滅によってようやくこの部屋に光がもたらされているようだった。
 私からすればこの部屋のものは全部触っちゃいけないもののように思えるのに、面影くんは勝手知ったる自分の城にでもいるみたいに自由だ。迷うことなくすいすいと動き回り、薬品棚から目当てのものを選んでいく。その横顔は、今は眼帯で隠れて読み取れない。



「ちょっと手伝ってほしいんだ。どうしても手が足りなくてね」



 そう言う彼に二つ返事で頷いてついてきたけれど、私は何をしたらいいのだろう? 生物薬品室のことはちっとも分からないし、そうじゃなくても薬品の知識なんかからっきしだ。体育会系寄りの文系、って自分を分類しているだけあって、私はそもそも理数の知識に乏しい。
 できることなんかそう多くはないだろうという自覚を持ちつつ、「あの、私はどうしたらいい?」って声をかけたら、面影くんは「うん。とりあえず座ってて」って言った。まだ私の手は必要ないってことだろうか。この間怪我を治療して貰った際に座ったスツール(というか、小さなドラム缶だ)に腰を下ろす。面影くんの輪郭は、薬品室の薄闇に溶けて、滲んでいる。



「今は何をしてるの?」

「薬品の分類かな。今後、私が一番この部屋を使うことになるだろうから、自分の使いやすいように殺らせてもらおうかと思ってさ」

「でも、すごい数だねぇ」

「ふふ、最高にカワイイよね」

「かわいいかぁ」



 面影くんの手によって台の上に並べられる瓶は、大小も色も様々だった。貼られたラベルは危険物であることを主張するものばかりで、数を増やす事になんだか落ち着かない気持ちになる。倒れたらどうなるんだろう。混ざったら爆発する? やっぱり飲んだら死ぬのかな――そんなことを考えながらぼんやりしていたものだから、視界の外で何やらごそごそと動いていた面影くんが液体の入ったビーカーを私の傍に置いて「どうぞ」って促してきたときは、それはもうギョッとした。
 「え」って顔を上げると、面影くんは「飲んでて?」って言う。飲んでて? 飲んでてって、これを? 確かめるように暗い色の液体が注がれたビーカーと自分を交互に指さす私に、面影くんは笑う。



「ビーカーでごめんね? ここ、グラスがなくてさ」

「そ、それは全然平気……」

「中身は一応さっき食堂から持ってきたばかりだから、まだ冷たいよ」

「そっかぁ……お気遣いありがとう……」



 もしここが生物薬品室じゃなければ、私は面影くんから差し出された飲み物でも平気で飲んだだろう。
 でも、ここは薬品だらけの生物薬品室だ。加えて相手は面影くん。彼のことは仲間として信頼しているし、大好きだけど――この状況において手放しで信用できるかというと首を縦に振ることはできない。
 ビーカーの中で揺蕩うそれを観察する。
 黒っぽい色合いだけど、コーヒー、ではない気がする。表面に浮かぶ小さな泡がぱちぱちと弾けているし、それらしい匂いもあんまりない。独特な香料に、コーラかな? って思う。飲んでいいのかな。だけど、解剖やら人体実験やら薬の開発やらを好む彼だ。私に頼みたい「手伝い」が、新薬の人体実験でないと誰が言い切れるだろう?
 私の逡巡を見抜いたのか、面影くんは台の向こう側からビーカーに手を伸ばした。綺麗に整えられた長い爪が瓶に触れる硬い音がして、顔を上げる。面影くんはそのままそれに口をつけて、一口だけ、私の前で飲んでみせた。
 喉仏がごくりと動く様を、ほとんど呆然と見上げていた。
 無防備に晒された首筋、骨張った手に包まれたビーカー。生物薬品室は薄暗いのに、その時私は、色彩に溢れている、って思った。直視したくないくらいに気味の悪い目玉も、ホルマリン漬けの心臓も、危険を示す薬品のラベルも、私とそう背丈の変わらない人体模型も、室内のあちこちでほとんどネオンみたいに発光しているディスプレイも。
 その中で薄く笑って首を傾げる面影くんの、妖艶さといったら!



「――毒味」



 じっと目を見つめられて、頬から耳までが、じわりと熱を持った。「普通のコーラだよ」って言う面影くんに動揺を悟られなくて、煩い鼓動に耳を塞ぎながら、手渡されたそれに目線を落とす。コーラ。そう、そうだよね、って。だって、これ炭酸っぽいもん。ぱちぱち弾けてるもん。面影くんの善意を疑うなんて、よくない。
 まだ冷たいって面影くんの言葉通り、ビーカーから伝わるそれで指先から熱が奪われていく。面影くんが口をつけたと思われるところはビーカーを傾けたときに出来るコーラの痕が薄ら残っていて、それを確かめた上で、反対側に口がつくようにビーカーを回した。「い、いただきます」って意を決して言えば、面影くんが「うん」って短く答える。
 顎を持ち上げて、それを口に含んだその瞬間だ。「――ちゃんはさ」って、面影くんが口を開いたのは。



「暗殺を生業としていた私が、毒に耐性があるとかは考えないの?」



 飲みこんだ後じゃなかったら、びっくりして咽せていたかもしれなかった。
 ごくん、って音を立てて胃の中に落ちて行った液体は、でも、やっぱりコーラだった気がする。舌、ぴりぴりしてるし。味もそのままだった。でも、コーラに何か混ぜられていたんなら分からない。
 人体実験、お手伝い、新薬の開発――冗談では済まなくなってきたそれらの可能性に青ざめながら、「コ、コーラじゃないの……?」って恐る恐る聞いたら、面影くんは「さあ? どっちかな」って言う。その時の、面白がるような目。



「や、やだやだ、コーラだよね?」

「ふふ、そう、コーラであってるよ。そこにあるでしょ、ペットボトル」

「え、な、なに、ほんとにほんと?」

「ほんとにほんと」

「変なの入れてない? 私にしてほしいお手伝いって、実は新薬の人体実験だったりしない?」

「殺だなぁ、ちゃん。私がちゃんにそんなことすると思う?」

「ちょっと思う……ッ」

「うふふ……心外だなぁ。安心して? そういうの、自分で試すタイプなんだよね、私」

「自分で試すタイプなの!?」

「効果を実感しないことには、暗殺に使いにくいじゃない?」

「な、なるほど……?」



 面影くんは、私のことをじっと見下ろしている。それが沈黙だと気付くのが早かったか、遅かったか。面影くんは「手伝ってほしいっていうのは、でも、確かに嘘だね」って、いつもの彼よりも殊更に優しい声色で呟いた。
 ビーカーを両手に抱えたまま、私は彼を見つめ返す。「うそ?」って、鸚鵡返しに繰り返す私が、彼の右目に映っている。
 私は、自分の中に全部閉じ込め続けていた。あの部隊長の洗脳によって、私の前に整然と並べられたもの。内緒にしたいとか、秘密にしておこうとか、そういうんじゃない。誰かに打ち明けたってどうしようもないことだから。後悔している過去について何か一つでも正しいものを選べていたらよかったって思うことはあるけれど、今更どうしようもないことだっていうのも分かっていたから。過子ちゃんを重ねているのだって。
 だけど面影くんは、私が透明な箱を両手で抱えていることを、ちゃんとわかっているみたいに私を見るのだ。



「――ちょっとでも元気になってほしかったんだ。ちゃんに」



 心臓の柔らかいところを、ぎゅって掴まれた気がした。
 ビーカーの中のコーラが波打つ。視界の真ん中にいる面影くんが、ディスプレイの明滅で淡く発光している。埃の粒が星みたい。細められた眦。私が過子ちゃんを心配するように、彼もまた私を気にしてくれていた。足を取られた私を、待ってくれていた。面影くんの手で、刺さったまま抜けずにいたものが、滲むように溶けていく。
 鼻とか目の奥が痛かった。意識しないと呼吸も浅くなってしまって、苦しかった。
 元気だよ、って言ったら、また嘘だって見抜かれてしまいそうで、言葉を探す。「あの」って、口にした。それから、面影くんの顔を真っ直ぐ見る。



「ありがとう」



 元気なかったので、うれしい、って。最後の方が掠れて、弱々しく消えて行ったのを面影くんは最後まで見届けるように間を開けて、「うん」って言った。嘘つきとは、もう言われなかった。
 生物薬品室は薄暗くて、訳の分からないものが多い。
 聞いた事の無い薬品と、何に使うのかもわからない機械。手術台と無影灯、ホルマリン漬けにされた巨大な脳。薬の甘い匂いと、ホルダーに立てられた試験管。禁忌を無視した人体研究と、常識も倫理観からも外れた技術の集大成がここにあるって、面影くんは前に言っていた。
 だけど、今はあんまりここが怖いと思わないのだ。
 面影くんは薬品の整理を再開する。もこちゃんの様子はどうだった? とか、希ちゃんもあまり無理しないといいねとか、そういう話をぽつりぽつりと交わす。私はその話の合間に、ビーカーのコーラをちびちび飲む。
 瓶と瓶がぶつかる微かな音にこっそり目を閉じた。張り詰めていた糸は、いつの間にかたゆんでいた。エゴだったらなんだっていうの、って、そのとき思ったのだ。強く、強く。


PREV BACK NEXT