「あ、さん! おはよう!」
まだほとんど人気のない食堂に入った瞬間、名前を呼ばれた。
顔を上げれば川奈さんが奥のテーブルからこちらに向かってにこにこ手を振っていて、呼ばれた嬉しさもあって、犬みたいに駆け寄ってしまう。
「おはよう川奈さん! 早いね……!」
「うん、変な時間に起きちゃって、今までガレージで作業してたんだ。だから一番乗り。……ね、ご飯持ってきたらここ座りなよ! 一緒に食べよう?」
「え、いいの? やった!」
「ご飯取ってくるね!」って言い残してから調理マシーンにサンドイッチを作ってもらって、それから川奈さんの向かいの席に「お邪魔します……!」って腰を下ろした。「どーぞどーぞ」って言ってくれる川奈さんの朝食は、ハンバーガー。向かい合わせに座ると、どちらともなく笑ってしまう。
何て言うか、こうしていると学校にいるみたいだ。川奈さんって、仲の良かった友達に雰囲気がちょっと似ているし。そういうことを話したら、川奈さんは「え? 本当? 私もさん、友達に似てるなーって思ってたんだ。だから、実は前から話してみたかったの」って顔をふにゃってさせてくれて、胸の内側がむず痒くなった。
食堂には、どんどんみんなが集まってくる。賑やかな気配に、川奈さんは感慨深げに「……改めてこうして全員揃うと賑やかになったよね。ちょっとしたクラスだよ」って呟いた。その言葉を拾ったのは、近くの席に座った丸子くんだ。肘をついて、半分呆れた様子でため息を吐く。
「こんな異常者だらけのクラスなんかごめんだけどな……」
「あら? アンタはクラスメイトじゃなくて、迷い込んできた奴隷ポジションよ?」
「なんで奴隷が迷い込むんだよ!」
キッチンの方から顔を覗かせたくららちゃんが彼にそう軽口を叩くから、そのやりとりについ笑ってしまった。仲が良いのか悪いのか分からないけれど、くららちゃんのその声に、以前はあった剣呑さがないのは間違いなかった。そういうひとつひとつが、私の心を軽くさせる。本当にクラスメイトみたい、って思える。
「そうだ。あなた達ってトレーニングは行かなくていいの? いつもこの時間にやってたよね」
「あ、うん、そうなの。これからはね、朝はみんなで顔を合わせた方がいいよねって話し合って、それぞれのタイミングですることにしたんだ」
口の中にあったサンドイッチを慌てて飲み込んでから返事をした。
トレーニングについては、昨日みんなで話し合って決めたのだ。みんなでやる朝のトレーニングは、もうおしまいにしよう、って。もこちゃんやNIGOUといたときからの日課をやめるっていうのに抵抗がなかったかって言うと、どうしても嘘になる。だけどこうして毎日きちんとみんなと会って結束を深めるのだって、私達のこれからを思えば大事なことだった。実際こうして川奈さんや丸子くんと関われているだけでも、充分に意義がある。
「へー。じゃあ、良かったら今度私も混ざって良い? 実はちょっと気になってたんだよね。第二の人達のトレーニング」
「え! 勿論だよ、一緒にやろ!」
「ふふ、お手柔らかにね」
いつの間にか、全員が食堂に集まっていたらしい。希ちゃんは澄野くんと蒼月くんと、面影くんは銀崎くんと厄師寺くんと、狂死香ちゃんは飴宮さんと(意外な組み合わせに思えるけれど、二人は案外良く話している。漫画とか、そういう話をしているみたい)、くららちゃんは丸子くんとまだ何か会話していて、五日前までは考えられなかった光景に、何だか不思議な気分になる。
その中で、今馬くんと過子ちゃんだけが、その場からぽっかり浮かんでいるみたいだった。
これまで通り、と言えばそれまでなのだろう。彼らは誰とも目を合わせることなく、生クリームと海鮮が一つの丼に乗った謎のご飯を黙々と食べ進めていた。
過子ちゃんの表情は、ここからではよく見えない。
――思い出すのは、昨日のことだ。
作戦室で「世界死」についてみんなに話したとき。「人類の存続が懸かってんだぞ」そう低く訴えた厄師寺くんに、今馬くんはどこ吹く風だった。「だから何度も言ってるじゃないっすか。……記憶か耳のどっちか悪いんじゃないすか?」って、ほとんど吐き捨てるように言ったのだ。
「自分ら、人類とか興味ないんで。東京団地だか世界死だか知らないっすけど……そういうのは先輩方に任せるっす。ね、妹ちゃん?」
「で、でも……人類みんなを守る為って……」
その時の過子ちゃんの、顔。
目を微かに瞠って、胸元に添えた手を握りしめて、過子ちゃんは一生懸命自分の意思を伝えようとしていた。
戦いたいのだ、過子ちゃんは。
だけど今馬くんがそれを許してくれない。
今馬くんは過子ちゃんの意見を無理矢理ねじ伏せると、「後は先輩方で頑張ってください」って、過子ちゃんの手を取って作戦室を出てしまった。
ああいう人達なんだよ、って、昨日川奈さんは言った。
だから放っておくしかないって。
妹の意思よりもその安全を守ろうとする今馬くんと、それに抗えない過子ちゃん。放っておくのが正しいのだろうか。過子ちゃんの意思を無視して良いんだろうか。サンドイッチの端っこを千切りながら、目線を落とす。あの二人との付き合いの浅い私がこんな風に考えるのは、だけど、エゴなのかもしれない。勝手にわかったような気になっているだけ。――同一視しているだけ。
朝用にアレンジして作ったのだと言うカレーを、くららちゃんは「朝からカレーはちょっと」ってさして乗り気でもない丸子くんによそってあげている。それを一口食べた丸子くんがかっと目を見開いて、「んまーい!」って文字通り飛び上がったとき、それに視線をやっていた今馬くんの奥にいた過子ちゃんと、初めて目が合った。
初めて。
その目がどこか縋るように歪んだのを、見ていた。
丸子くんがカレーの美味しさに長すぎる感想を捲し立てている。厄師寺くんや飴宮さんがくららちゃんのカレーに興味を示す。少し離れたテーブルでは、希ちゃんと澄野くんが、以前まで希ちゃん側から張っていた薄い膜を感じさせないような距離感で、何かを親しげに話している。そういう全部が遠のいて、私は今、食堂のほとんど端と端っていってもいいくらいの遠さにいる過子ちゃんと見つめ合っている。
守られるだけの女の子。
「先輩……っ」
午後、自室に向かうのに階段を上っていたときだ。作戦室に続く廊下から顔を半分だけ覗かせた過子ちゃんに、そう声をかけられたのは。
先輩、って名前を呼ばれているのに本当に私に用事があるのか確証が持てなくて、つい周囲を見回してしまう。誰かが廊下を走っているらしい足音が階下の方で聞こえるくらいで、私の他には誰もいない。――ってことは、聞き間違いじゃなくて本当に私を呼んだのだ。
それで、改めて彼女の方を見た。臙脂色のセーラー服。両サイドでお団子になっている部分から垂れ下がる長い髪はふらふら宙に漂っていてどことなく頼りないのに、彼女の目は痛いくらいに真っ直ぐだ。
いつも一緒にいる今馬くんは、どうやらいないらしい。「私?」って首を傾げると、過子ちゃんはうんうんって大きく首肯する。子供っぽいその仕草は、だけど確かに逼迫めいていた。「うん。先輩、来て……!」って、彼女は真面目な顔で続ける。
「ど、どうしたの? 過子ちゃん……」
「いいから早く……!」
「わっ」
過子ちゃんって見た目によらず力が強いみたいだ。手首を引っ張られて、廊下を走らされる。角を曲がった先にある作戦室の扉を、過子ちゃんは忙しなく開ける。
学園の周囲の映像を映すモニターが、薄暗い部屋にいくつもの青を落としていた。柱には、私達の我駆力刀が今もきっちり並べられていて欠けがない。防衛のための機器があちこちで動いていて、その排熱のせいで室内は外よりも温度が高く、空気が妙に籠もっていた。
「過子ちゃん? ど、どうしたの? 何かあった……?」わけがわからなくて尋ねたら、過子ちゃんはようやく私の腕を解放してくれた。彼女の背の奥で、モニターの映像がばらばらに切り替わる。彼女の白い頬が、青く染まる。
「先輩……!」
「は、はい……っ」
長い睫毛に縁取られた、大きな瞳。黒いリボンのついたカチューシャがおでこにぶつかりそうになるくらいの距離で見る彼女は、今馬くんが溺愛するのも分かるくらいとびきりの美少女だった。女の子同士なのに、心臓が鳴る。いつもどこか怯えたような色をしていた瞳は、今は真っ直ぐ、私を見ている。
「戦うのってどんな感じなのか、自分に教えてほしいの……!」
過子ちゃんのその言葉に、「え」って声が漏れた。
過子ちゃんの表情は、どこまでも真剣だった。
別に、我駆力刀を使えるなら誰でも良かったんだと思う。偶々通りかかったのが私だっただけ。多分、狂死香ちゃんでもくららちゃんでも、彼女は作戦室に引き摺り込んだ(でも面影くんだったら――スルーしたかもしれない)。
過子ちゃんは私の話をものすごく真剣に聞いてくれたから、私も誇張とか嘘とか綺麗事がないように、実際に自分の我駆力刀をテーブルにおいた上で、真面目に話をした。我駆力刀をお腹に刺すのは今でもドキドキすること。怖いし、本当に痛いってこと。繭みたいに私の周囲に纏わり付く血は生々しいから、そういうのが苦手な私は我駆力刀を使うときいつもぎゅって目を閉じているってこと。戦うときは戦況を広く見ること。「場数を踏んだ方がいい」こと。一人じゃ勝てないときは、無理をしないようにしていること――目をキラキラさせて話を聞いてくれる過子ちゃんは、素直で可愛かった。私の知っている過子ちゃんのイメージが、ぽろぽろ零れ落ちていくみたいだった。
「先輩の学生兵器は、ナイフだよね。至近距離で戦うのって怖くない……?」
「怖い……! でも私、ちょっとだけ足が速いから、攻撃される前に逃げちゃうの。囲まれないように気を付けてれば、案外大丈夫だったりするよ」
「あっ、そうだよね! 自分、この間の戦いで先輩が走ってるの見たよ。攻撃しては逃げ、攻撃しては逃げ……かっこよかったなぁ……っ!」
「え、えぇ~……そんなことないよ……!」
急に褒められて、つい色んなところが緩んでしまう。
作戦室にあるPC用の椅子に座ってするには、あんまりにも血生臭い会話だったと思う。今朝まで目を合わせたことすらなかった私達が初めて話すのに、本当に相応しい話題だったかっていうと、多分そうじゃない。
だけど私達の間には、それしか落ちていなかった。私達はクラスメイトみたいになれたけれど、本当にはクラスメイトじゃない。特防隊として、人類の未来を守るために集められただけ。過子ちゃんも、それを分かっているのだ。
分かっているから、戦いたいって思っている。
「いいなぁ……かっこいいなぁ……」
ないものねだりをするというよりは、まだどこかに希望が滲んだ声だった。少なくとも私には、そう聞こえた。
「……過子ちゃんは、やっぱり戦いたい?」
ぽつりと尋ねた言葉に、過子ちゃんは私を見る。まだ幼さの残る柔らかな頬。戦わせられないって思う今馬くんの気持ちだって、わからないわけじゃない。
「――戦いたいよ」
淀みも歪みも躊躇いもない声だった。
「守られてばかりじゃなくて、守りたい」
私にはそれが眩しかった。ちぎれそうに寂しかった。
「…………逃げているのは、もう嫌なの」
どこにも行けなかったから、ゆっくりと相槌を打っていた。その度に救われていたのか、すり潰されていたのかも分からなかった。
だって、私も戦いたかった。
守られてばかりじゃなくて、守りたかった。
どうして何もしてあげられなかったんだろう。声をあげなかったんだろう。綺麗な服を着て、髪を結い上げられて、人形みたいに大人しく座っていたんだろう。逃げてしまったんだろう。
だからあの子はいなくなったのに。
あの日の自分を救うことは、もうできない。その事実はいつも私を打ちのめした。でも、じゃあ、代わりにこの子を救うのは?
いつの間にか閉じてしまっていた目を開けた。泣き出す寸前のような顔をしていた過子ちゃんの両手をそっと握る。紫がかった大きな瞳がぱっと見開かれて私を見る。戦いたい、戦いたいよね、って思う。私にはそれが痛いくらいにわかる。私だってずっと後悔していた。どうしてじっと息を潜めていたのか。あなたがいなくなるくらいならなんだってできたのに。もしも私がちゃんとしていたら、そしたら今もどこかで生きていた?
だから、「戦おう、過子ちゃん」って、私は言ったのだ。
「今馬くんのこと、説得しよう、二人で。だめだったら、他のみんなと一緒に。きっとみんなも協力してくれるから……!」
下腹で火が生まれたような高揚があった。過子ちゃんの瞳が驚きと喜びに見開かれたのだって、私は見た。
――だけど。
「そうやって妹ちゃんを唆すの、やめてもらえません?」
そこになかったはずの声が、私達の頭上に冷たく落ちて来る。
作戦室の扉は少しの隙間を残して開いていて、廊下からの光が室内に白い線を作っていた。空気はさっきまでより熱を失っていて、影が長く伸びていた。
暗い髪の色。侮蔑の色を浮かべた瞳が私を捉える。過子ちゃんと同じ臙脂の色の学ランに身を包んだ彼は、剥き出しの殺意を真っ直ぐに私に向けていた。凝縮した憎悪をそこに閉じ込めたように、その目は酷く暗い色をしていた。冷たくへばりつく泥でも見ているみたいだった。その瞳の中で、私が歪む。
――今馬くん。
彼は私を視界の中央に据えたまま、ため息を吐いた。酷く掠れた声で、過子ちゃんとは全然違う言い方で、先輩、って、呼んだ。
「――やっぱめちゃくちゃウザいっすね、あんた」
お兄ちゃん、って、中身のないすかすかの声で過子ちゃんが言う。私はその響きが、泣きたいくらいに美しい音だったことを思い出している。