起床の時間を報せるアナウンスの前には、大抵目が覚めている。
 部屋の洗面台で顔を洗って、髪を梳いて、全身をチェックする。私の両手の平には昨晩面影くんが巻いてくれた包帯が残っていて、その感触から多分もう薄皮ができているんだろうなって何となく思うんだけど、外して確かめたりはしない。服の袖を引っ張って布地ごと手を握ると、昨日のことまで私と面影くんの秘密になるような気がして、なんだか胸がむずむずした。
 部屋を出ようと思ったのは、なんだか落ち着かなかったからだ。
 扉を開けると、朝の、濁りのない風が私の髪を撫でる。白っぽい紗幕が空一面を覆っていて、その清々しい眩しさに思わず目を眇めた。
 もこちゃんのこと、自分のこと。思考の端に引っかかるそれらに、ともすると悪い方向に引き摺られそうになるから、自分が立っている場所を意識して確認する。学園の外と内とを区切るように燃えさかる紫色の炎は段々私の日常になっていて、それにぐるりと囲まれていることに安心感すら覚えている。
 輪郭のぼやけた雲の隙間から差し込む朝日の穏やかさに身を委ね、足音を立てないようにしながら校舎に続く階段へと向かっていたときだ。並んだコンテナハウスの扉の一つが開いたのは。
 つい足を止めてしまったのは、一瞬そこが誰の部屋か分からなかったから。だけど、中から出てきた人は私を見て「あ」って言った。聞き慣れた優しい声に、身体の緊張が解ける。



ちゃん」



 希ちゃんは、眉尻をさげて、柔らかく笑った。








 階段を下りる足音は揃っているのに、履いている靴のせいでばらばらな音がする。その音に無意識に耳をそばだてながら、「早起きだねぇ、希ちゃん」って、声をかけた。



「ふふ、それを言うならちゃんもね」

「あは、ほんとだ」



 校舎の中は、静かだ。私達以外の誰もいないみたいに。
 こうして希ちゃんと並んで、窓からの光を背に歩いていると、私達の間から欠落しているものがはっきりと分かってしまう。あの日の思い出が色濃く脳に刻まれているから。そっと隣の希ちゃんを盗み見たら、いつもより目がしょぼしょぼしている気がした。上手く眠れなかったのかもしれない。――昨日あんなことがあったんだから、当たり前だ。
 今度こそ、って思ったのに、私達は何も掴めなかった。
 ねえ、希ちゃん。私達、あの日、もこちゃんと三人で階段を駆け下りたね。もうあの階段も、どこにもないけど。最後の何段かを飛び降りた。二人の髪に、光の粒はいくつも爆ぜていた。警報音を怖がる希ちゃんに、もこちゃんが「アタイの入場曲に変えてもらいましょう」って言った。あの日の約束は、果たせないまま。あの日に置き去りにされたまま。
 同じ事を思い出していたのだろう。私達は二人揃って、最後の三段を一跨ぎで飛び降りた。
 希ちゃんが、ちょっとびっくりした顔で私を見た。助走をつけなかった分、足の裏がじんと痛む。髪の毛が口に入って、指の先で払う。欠けてしまった私達。諦めないって、昨日、希ちゃんは言った。私もそうだ、やっぱり、諦められない。可能性はもう、ほとんどないのかもしれないけれど。それでも祈るくらいはさせてほしい。



「私も諦めない、もこちゃんのこと」



 自分に言い聞かせるようにそう言ったら、希ちゃんは、泣き笑いみたいな顔で私に頷いた。
 目元のほくろが、小さな星みたいだった。








「さ~て、オメーらをどうしてやろうかな~!」



 朝のアナウンスが鳴って、私と希ちゃんだけだった食堂に続々と人が集まり始めている中、丸子くんはいつも以上に生き生きとしていた。
 それもそのはずだ。だって今日は、先日行われた決闘の勝者である銀崎くんから私達に完全服従の命令が下される日なのだから。
 決闘の後銀崎くんが倒れたり、侵校生の襲来があったり、その結果また銀崎くんが倒れたりで延び延びになっていたのだ。蒼月くんなんかは「昨日ちゃんと謝ってくれたんだし、もういいんじゃないかな」と丸子くんを取りなそうとしてくれたのだけど、丸子くんは譲らない。「約束は約束だ! ちゃんと約束を守らねーヤツとは仲間になれねぇ!」だって。
 くららちゃんは「こんなことだったら余計なことを言うんじゃなかったわ……」って今更後悔していて、狂死香ちゃんは「エッチな命令は、その……!」ってしどろもどろになっている。希ちゃんは覚悟している様子であるとは言え流石に身構えているし、面影くんは「私は職業柄どんな拷問でも慣れっこなんだよね」って悠々としていた。私は……普通に怯えている。痛いのも怖いのもエッチなのも嫌だ、って思っている。



「本当ならオレが命令してやりてーが……銀崎に譲るしかねえか……」

「きょっきょっきょ! 命令はノナリーゲーム一択っしょ! 制限時間は九時間! 九の扉を開けて船から脱出せよ!」



 「完全服従の命令」についてノリノリなのは、丸子くんと飴宮さんくらいだった。遅れて食堂にやって来た澄野くん、それから蒼月くんや川奈さんなんかはそれを持ち出すこと自体今更じゃないかって否定的だったし、厄師寺くんはそもそも決闘の勝者である銀崎くんに一任すべきだと考えている。過子ちゃんは食堂に来たときからずっと心ここにあらずといった様子で、今馬くんもあまり興味がなさそうだ。だから、とんでもない命令をされるようなことがあっても、多分、誰かしらが止めてくれるとは思う。
 ――でも、彼らに対して私達が酷い態度を取っていたのは確かだ。
 SIREIさんがいなくなって、彼らはこの学園に取り残された。戦う理由も侵校生の正体も東京団地のみんながどうなったのかも教えてもらえないまま、不安と孤独の中で戦い続けていたのだ。何もわからない状態で命をかけろなんて、横暴だ。もし私が最初に配属されていたのが第二防衛学園じゃなくて最終防衛学園だったら、私だって戦いを拒否していたかもしれない。――ううん、そうしたと思う。希ちゃんがいなかったら、もこちゃんが「守ってあげる」って言ってくれていなければ、私はあんなに簡単には武器を持てなかった。
 なのに私は、彼らを侮蔑の目で見ていたのだ。私達が来ていなかったら全滅していたのに、餓死していたっておかしくなかったのに、って。私達の三十日を否定するようなことを言われて、許せなかった。世界死のことも教えず、自分達だけで戦うって、彼らを拒絶した。こんなの、嫌われれて当然だ。お互いがお互いの立場を全く考えずにここまで来たのだから。
 だから、私達はちゃんと禊ぎをしなくてはいけない。これまでのことを水に流して、残りの五十日余りをみんなで協力して戦うために。痛いのでも怖いのでもエッチなのでも、甘んじて受けなくちゃいけない――。
 そう覚悟を決めたのに、厄師寺くんに促された銀崎くんは、「えっと……」って言葉を探すように視線を彷徨わせてから、「僕達と仲良くしてください!」って言った。



「…………え?」



 困惑の声をあげたのは私達と、それから丸子くん。だけど銀崎くんは、構わず続けた。いつも部屋の隅で俯いていた人物とは思えない、真っ直ぐな目で。「弱虫な僕は争い事が苦手なので、ギスギスした空気に堪えられないんです」って。



「……だから、みんなで仲良くしませんか? 前からいたとか後から来たとか抜きにして、みんなで、同じ学園の仲間として。……それが、ゴミカスな僕からの命令です」



 従って、もらえますかね?
 その言葉の最後だけ、私達の様子を窺うように小さくなっていったけれど。
 でも私はその言葉が染みこむや否や、感動してしまったのだ。思わず彼に駆け寄って、その手を取ってしまったくらいには。「ぎ、銀崎くん~……!」と感極まる私に、銀崎くんは「あ、ダメです! 僕のくっせぇ菌がさんに移ってしまうので……!」と狼狽の色を濃くしているけれど、「銀崎殿~!」って号泣する狂死香ちゃんにまで空いている方の手を取られて、そのまま宙ぶらりんになっていた。
 納得いかない様子の丸子くんを、澄野くんや蒼月くんが宥めている。狂死香ちゃんに称賛されて、ほとんど反射で自分を卑下する言葉を口にする銀崎くんに「君は殺り甲斐のあるとても魅力的な人物だよ」って声をかけたのは面影くんだ。希ちゃんに「今の命令に従える?」って尋ねられたくららちゃんが、「フン。……命令なら、仕方ないじゃない……」って、渋々に見えるよう頷く。川奈さんが「毒気抜かれちゃったね」って笑って、飴宮さんはそんな中でいつも通り、「怠美は諦めてないから……いつか絶対デスゲームをさせてみせるから……」って呟いている。それをいつも通りって思えるくらい、私達はもう、一緒にいるのだ。それがくすぐったかった。



「……アンタの争い事が嫌いってのは、ホントに筋金入りね……。まぁ、アンタが食べてもいないカレーを食べたって名乗り上げた時からわかってた事だけど」



 私と狂死香ちゃんに手を繋がれて宙に浮いていた銀崎くんにくららちゃんがほとんど呆れたような口調で言ったのは、丸い空気が食堂に浸透しきったその後だ。
 「えっ」ってつい声をあげてしまったけれど、どうやらあの日、くららちゃんの作ったカレーを勝手に食べたのは銀崎くんではなくて丸子くんだったそうなのだ。(くららちゃんはそれを薄々勘づいていたらしい。自分のカレーを食べたと主張しているくせに、銀崎くんが「美味しかった」としか言わなかった時点で、彼が誰かを庇っているんじゃないかって思っていたんだって。確かにあんなすごいカレーを食べて、感想がそれだけっていうのは不自然だった)。また一波乱あるのかと身構えたのは、多分私だけではないだろう。だけど、そんなことはなかったのだ。改めて味の感想を求められた丸子くんが素直に「信じられねーくらい美味かった」「もう一回作ってほしいくらい」って言ったのをうけて、くららちゃんは、丸子くんを許したみたいだったから。「気が向いたら作ってあげてもいいわよ」と言ったくららちゃんに、丸子くんも鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。――多分、くららちゃんも、みんなのことを認めたんだって思った。
 私はそれが嬉しかった。やっと仲間になれたみたいで。
 だけどそういう穏やかだった空気が濁ったのは、その後だ。
 蒼月くんが、「よーし、それじゃあ、こうして一致団結できた事だし……みんなで輪になって円陣を組もうか!」って私達に提案をした後。



「手を重ねて『ファイト、オー!』の掛け声だよ!」

「ファ、ファイト、オー……!?」

「テメーはいつの時代の高校生だぁ!?」

「そう? いいんじゃない? せっかくだし、みんなでやろうよ。……ね? 澄野くん」

「え? あ、あぁ……そうだな」



 それぞれ文句だったり賛同の言葉を口にしながらも彼の周囲に一人、また一人と集まり出して自分の手を重ねたのは、みんながそれぞれ、私達の団結を心の底では喜んでいたからなんじゃないか、って思う。仄かな羞恥心と、胸をざわめかせるような喜び。私は今、この二つに支配されていた。重なった、川奈さんと希ちゃんの手の感触と温度に、少しだけ泣きたいような気になっていた。やっとスタートラインに立てるんだって、そう思って。
 だけど。



「あれ?」



 そう言って食堂の入り口の方を見たのは、川奈さんだった。



「何してんの? 二人ともこっち来なよ」



 彼女の視線の先には今馬くんと、困ったような顔の過子ちゃんがいる。二人はこの輪に加わる気は無いらしい。「恥ずかしいのはオレらだって一緒だぞ? けど、みんなで一致団結しようとしてんだし……」丸子くんのその言葉に、今馬くんは息だけで笑った。



「いやー、一致団結とか結束とか、そういうド寒いノリって苦手なんすよねー」



 冷たい壁みたい、って思った。私達と彼らの狭間にあるもの。越えられないもの。彼らが線を引き、私達と彼らとを区別するもの。厄師寺くんに「オメーなぁ……!」とドスの利いた声で詰められても、今馬くんは眉一つ動かさない。



「ま、自分らの事は気にしないでください。みなさん方だけで、お寒くやってください。……じゃあ、自分らはもう行くんでー」



 彼は逡巡するような様子を見せる過子ちゃんを促すと、その手を取って食堂から出て行ってしまう。
 扉を閉めるその寸前、温度のない目が私を見た気がした。ぞわりと背筋が粟立って、つい、円陣のために差し出していた手に力を入れてしまう。川奈さんの手の甲を撫でてしまって、「あひゃっ」って身を捩られた。「わ、ご、ごめん川奈さん!」と謝る私に首を振る川奈さんは、「いーよいーよ」って、優しい。
 二人が去った後、とりあえず今いるメンバーだけでも、って、蒼月くんは私達の顔を見渡した。彼の爽やかな掛け声に続いて、私達は少しの羞恥を持ちながら、「ファイト、オー」って口にする。そうしながらも、私の意識は今馬くん達に引っ張られている。
 私はこの学園に来た時から、あの二人のことを目で追っていた。引き寄せられるみたいに。あの二人の背を見ていた。


PREV BACK NEXT