「希ちゃん、待って!」



 気絶してしまった銀崎くんをみんなで協力して彼の部屋に運んで、どうにかベッドに横たわらせた後のことだ。誰からともなく外に出て解散の流れになるその中で、自分の部屋に戻ろうとしていた希ちゃんの背中に声をかけたのは。
 空はいつの間にか薄い紫色になっていて、目を凝らせば仄かに星が瞬いていた。気怠いようなぬるい空気から浮かび上がるみたいに、希ちゃんは振り向く。



ちゃん」



 どうしたの? って薄く微笑まれて、私も反射的に笑った。「えっと、ちょっと話がしたくて」って続けた言葉に、何の逡巡もなく頷いてくれたのが嬉しかった。
 視界の端で、くららちゃんがさっきの決闘で壊れてしまったらしいマスクを両手に抱えて、面影くんと狂死香ちゃんに挟まれる形で部屋のほうに向かっているのが見える。華奢なその背は項垂れているせいか、いつも以上に線が細く、夜の空気に滲み出して、そのまま溶けてしまいそうだと思った。
 ――長い一日だった。
 朝、ここで厄師寺くんに声をかけられたのが遠い昔の話みたいだ。
 決闘のために体育館に行って、特訓を経て逞しく成長した銀崎くんと対面した。だけど、どんなに鍛えても銀崎くんが戦えない体質であることに変わりは無かったらしい。「……なによ」って言ったのが、くららちゃんだった。くららちゃんは「戦えない」と言った銀崎くんに、役立たずは役立たずのままね、って息巻いて、だったら自分の我駆力で一方的にすり潰してやる、って言った。多分、許せなかったのだ。銀崎くんじゃなくて、銀崎くん越しに存在する、「役立たずで弱虫の」、本当のくららちゃん自身のことが。
 いろんなことがあった日って、脳がたくさん処理をする分、普段よりもずっと長く感じられる。長かった。長かったし、大変だった。今日一日で私達が一番時間を費やしたのは、決闘云々じゃなくて銀崎くんの巨体を体育館からここまで運んだことではあったけれど(本当に大変だった。以前第二防衛学園で澄野くんにそうしたみたいに、担架で銀崎くんを部屋まで運ぼうとしたんだけど、筋肉に包まれた巨体の異様な重さに苦しめられたのだ。人数が多い分交代で運ぶことはできたけれど、足腰の疲労はどうしても否めない)。



「あー、疲れたな流石に」

「丸子はほとんど何もしてないでしょ……!」

「そっすよねー、階段三段でギブして蒼月先輩に助けを求めた人の疲れたは流石に笑えるっす」

「人のこと言えないよお兄ちゃん……。自分らは何もしてないんだから……」

「可愛い妹ちゃんにあんな巨体運ばせらんねーっすからね!」

「オメーは少しは手伝えや!」

「びえぇぇ! 体育会系、キモかったよー!」

「お疲れ様……怠美さん……」



 遠ざかっていく最終防衛学園の人達の話し声。ふと視線を感じてそちらを見たら、澄野くんが私達――厳密に言えば、希ちゃんだろう――を見ていたことに気がついた。「東京団地の知り合いに似ている」希ちゃんを、彼は特別に思っている。私と一緒。だから、ぱち、と視線が合って、なんだか申し訳なくなった。希ちゃんじゃなくてごめんね、って念じて見返したら、だけど澄野くんは笑った。



「霧藤、。――また明日な」



 その言葉につられてこちらを見た最終防衛学園の彼らの目に、剥き出しの敵意は、もうあんまりない。全部じゃなくて、あんまり。でもそれでもいいって、今は思う。



「うん、また!」



 そう言って手を振ったら、澄野くんは嬉しそうに笑った。








 本当は食堂に行くとか、どっちかの部屋で話をしたほうがよかったのかもしれないけれど、夕方と夜の混じり合った空気が心地よくて、屋上で話をすることにした。
 空のオレンジの部分は炎の向こうに混じり合って溶けていて、私はそれを、綺麗だ、と思うよりも早く一瞬で網膜に焼き付けている。「きれいだね」って、希ちゃんが掬い上げるみたいに言ってくれたのが嬉しかった。「ね」って、短く相槌を打つ。希ちゃんの眦は気が抜けたように細められて、私はそれを隣で見せてもらえて、嬉しいって思う。



「……くららちゃん、大丈夫だったかな?」



 先に口を開いたのは希ちゃんだった。



「マスク、銀崎くんに慌てて外されて、壊れちゃってたみたいだったけど……」

「あ、私、さっき面影くんが確かめてるの見たよ。修理すれば直りそうだって」

「ほんと? なら良かった……。くららちゃんだったらすぐ直せるね」

「うん。明日には直ってるよ、きっと。それでいつもの調子で、『頭が高いのよ愚民共!』って言うよ」



 私のものまねに、希ちゃんは「ふふ、そうだね」って笑ってくれる。
 銀崎くんに一方的に我駆力を使おうとしたくららちゃんに怒ったときとは、まるで別人みたいだ。瞼に残った残像を思い出すように、考える。
 希ちゃんは、あの時、くららちゃんに、ちゃんと怒った。我駆力は仲間に対して使うものじゃない、って。大鈴木家の人間だと分かってそんな口を利いているのか、って、怒りに震えながら言い返したくららちゃんは、そうやって自分を守ろうとしたのかもしれない。だけど希ちゃんは、友達だから言わせてもらうね、って、くららちゃんの盾を取り払った。そして、そんなのただのイジメだよ、我駆力は、人類を守る為にあるんだよ、って言ったのだ。私は、それをただ見ていた。なにもできないまま。二回目だ、って思った。一回目は、澄野くん。
 私が何もできずにいるときに、傷を負ったり、傷つけてしまうかもしれないのを覚悟で道を正そうとするひと。
 私はそんな二人のことを、綺麗だって思っている。



「でも、銀崎くん、すごかったね。まさかくららちゃんに勝っちゃうとは思わなかったよ」

「……うん。本当に。……びっくりしたなぁ」



 希ちゃんの声は、いつもそこかしこに、仄かな熱が落ちているみたいだ。大切なものを抱きかかえるみたいに、まるい声。
 くららちゃんと銀崎くんが我駆力を使わない、生身の肉体での殴り合いで決着をつけることになったのは、厄師寺くんの提案があったからだ。「要するに同じ条件ならいいんだろ」ってことみたいだった。
 我駆力を使えないのはそっちのせいなのに、どうしてそっちに合わせなければいけないんだい? って聞いたのは面影くんだったけれど、厄師寺くんは「なんだよ、逃げんのか?」って言った。それがくららちゃんからしたら酷い侮辱になることを、彼は知らなかったのだろう。「は?」って漏らしたくららちゃんの声は震えていた。大鈴木家の嫡女としての責任を一身に背負っていたくららちゃんは、だって、逃げることなんか許されなかった。どれだけ苦しくても、くららちゃんはいつも周囲の求める「大鈴木くらら」として立っていた。マスクをかぶって、本当の自分を殺してまで、必死で生きていた。バカ言ってんじゃないわよ。逃げてるのはアンタ達じゃない。その声が。



「アタシは違う……! アタシは逃げたりしない!」



 そう叫んだくららちゃんの声が引き攣れて歪んでいたのを、私は知っていた。
 それでも勝負っていうのは残酷だ。思いの種類とか強さに関係なく、黒と白に分けられてしまうんだから。
 人体の急所をいくつも、的確についたくららちゃんの敗因は、銀崎くんが異様に打たれ強かったことだろう。
 銀崎くんは、厄師寺くんの言葉を借りるとすると「どえれー頑丈」だった。体質のせいで攻撃はできない代わりに、彼はじっと堪えていた。どれだけ殴られても、吹っ飛ばされても、顔を腫れ上がらせても鼻血を出してもフラフラになっても、絶対に膝をつかなかった。「負けません」って踏ん張って、歯を食いしばって、くららちゃんの猛攻を凌いでいた。「気合いと、根性、です……!」って。床には血が滴っていた。他人を攻撃できない彼は、ぎゅっと拳を握って、殴られ続けていた。こんな負け犬同然の自分に期待してくれている人がいるから、って。だから絶対に、諦めるわけにいかないんです、って、そう言って。
 折れたのは、だから、くららちゃんの方だったのだ。くららちゃん、って言うよりは、「元々の人格のくららちゃん」と言った方が、きっと正しいんだろうけれど。
 くららちゃんはマスクを被ったまま全力のパンチを何度も何度も打ったものだから、酸素が足りなくなってしまった。緑から紫色のグラデーションを作るマスクに、善意からそれを外そうとしたのは銀崎くんだ。やめて、触らないで、と暴れるくららちゃんから、銀崎くんはマスクを無理に取り払おうとする。それを止められなかったのは間に合わなかったからっていうのもあるけれど、くららちゃんが本当に苦しそうだったから。素のくららちゃんがこんなところに引き摺り出されてどうなるかまで、思い至っていなかった。
 だからマスクの下から現れた金髪碧眼の女の子が新鮮な空気と視線に晒されて声をあげて泣いたとき、やっと、あ、って思ったのだ。
 元々、大人しくて人見知りで気弱な性格の女の子だ。周囲の期待に応えるためだけにマスクを被って、別の人格として振る舞っていただけ。そのマスクを取り上げられたら、くららちゃんは元々のくららちゃんに戻ってしまう。
 果たして気弱で泣き虫なくららちゃんは、銀崎くんに負けを認めることになる。許して、もうしないから。酷いことをたくさん言ってごめんなさい、って、殊勝な謝罪の言葉と、痛々しいくらいの涙と共に。
 私達は、負けてしまった。



「でも銀崎くん、あんなに殴られても立ってられるなんて、すごいよねえ」

「うん、本当に……。でも、よっぽど無理してたんだろうね。最後に倒れちゃったのはびっくりしたなあ……」

「ね、おかげで有耶無耶になっちゃったもんね、命令のやつ……」



 決闘の勝敗が明らかになった後、銀崎くんはそのまま倒れて、気絶してしまった。だから例の――決闘の勝者に与えられる命令権に関しては、まだ白紙のままだ。
 でも、完全になくなったわけじゃない。
 勝ったのは最終防衛学園のみんなだけど、勝者の命令権自体は代表として戦った銀崎くんにある。銀崎くん自身は元々性根の穏やかな人だから悪いようにはしないだろうと思いたいけれど、ちょっと胃が痛くなってしまう。私達、何やらされちゃうのかな。丸子くんや飴宮さんあたりに丸め込まれたりしなければいいんだけど、って思うのは、やっぱりくららちゃんや面影くんが悪乗りしていたのを知っているからだ。そういうのって、やっぱり巡り巡って自分達に返ってくる。
 空の、オレンジの部分が完全に消える。さっきはなかったはずの星が浮かんで、ちかちか瞬いている。私ね、と言いたかった言葉が引っかかる。話がしたくて呼び止めたのに、私は自分の醜さを希ちゃんに曝け出す勇気がない。
 私、ずっと銀崎くんのこと「弱虫」って思ってた。
 丸子くんのこと、失礼な人だって思ってた。
 飴宮さんのこと、わけわかんないって思ってた。
 今馬くんのこと、酷いって思ってた。
 でも、傲慢だったね。
 自分を楽にするための懺悔を口にできないのは、希ちゃんに失望されるのが怖いからだ。希ちゃんが私達の仲をどうにかしようとしていたのを分かっていたのに、私は全部希ちゃんに押し付けて、現実を見ないふりをしていた。それと彼らと、一体何が違うんだろう?
 考えていたら何だか泣けてきて、だけど希ちゃんにばれたら気を遣われるのがわかっているから、星を見ているふりをして飲み込んだ。
 希ちゃんは私の隣で同じように夜空を見上げながら、「きれい」って、泣けるくらい優しい声で言った。きれい。きれいだね。そんな相槌のあとにがんばって口にした「希ちゃん、ごめんね」って言葉を、希ちゃんはわかってくれたのだろうか。希ちゃんは目を丸くして私をみたけれど、全てを許す聖職者みたいに笑って、「ううん」って言うだけだった。
 まるい月の輪郭が滲んでいく。うまくやれるかな、って祈るみたいに思う。ごめんねって、みんなにも言えたら良い。そういうチャンスが、ありますように。一度だけ瞼を閉じたら、裏側に月の影が、じっとりと残っていた。清濁すべてを淡く包み込むような、白い光だった。


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