件のカレー事件から、三日が経った。
私達と最終防衛学園のみんなとの関係性は未だに平行線――どころか、悪化の一途を辿っているって言っても良いと思う。校舎内で丸子くんなんかとすれ違うと、分かりやすく舌打ちされるくらいだから。川奈さんに怯えた顔をされたり厄師寺くんに視線を逸らされた上でため息を吐かれてしまったときは私もちょっと堪えたけれど、でも、あの後私達の間に起きたことを思えば、それも仕方がないのかもしれなかった。
くららちゃんのカレーを食べたのは、銀崎くんだったらしい。
「……僕なんです。すみません」
ですので、僕の事は好きにして構いません。切り刻まれても文句は言いません。どうせ、役立たずで生きてる価値のない敗者ですから――手を真っ直ぐ挙げて謝罪の言葉を口にした銀崎くんに、くららちゃんはそれまで自身が抱いていた、煮詰めに煮詰めて凝縮された怒りを彼にぶつけはしなかった。丸子くんにそうしたみたいに問答無用で殴ったりもしなかったし、一方的な罵声を浴びせたりもしなかった。一度はあんな風に、「出て行け」って言い放った相手だったのに。なのにくららちゃんは、ただ、「……ふーん、そう」ってゆっくりと銀崎くんの元まで歩み寄って彼の顔をまじまじと眺めた後、「で、味は?」と聞いたのだった。
――味。
くららちゃんが何を思っていたのかは分からない。どういう意図があったのかを尋ねても、きっと答えてくれないだろう。くららちゃんが満足するような称賛を銀崎くんが口にしたら、くららちゃんは彼を許したのだろうか。それとも、他に何か理由があるのだろうか。
銀崎くんのつぶらな瞳はその質問の真意をはかりかねているみたいに瞬きを繰り返していた。
「……美味しかった、です」
その時の彼のすかすかの声と、食堂の灯りに反射して星みたいに瞬いたその瞳だけが、どうしてか、今も私の記憶に残っている。
上の方に誰もいないのを確かめてから、階段を駆け上がる。
いつもだったら部屋に戻るときはくららちゃんと一緒のことが多かったけれど、最近は別だ。三日前の件があってから、くららちゃんは面影くんと一緒に実験とか例の「命令」に関する相談事とか、そういう諸々をするために、お昼ご飯の後は二階にある生物薬品室に直行してしまうようになっていたから。
この日は珍しく希ちゃんもその二人に加わっていて(曰く、「たまに様子を見ておかないと、二人が暴走しちゃうかもしれないから……」だそうだ。ここ数日のくららちゃん達の様子とか今の状況を考えたら、その心配も頷けるけれど)、それで私と狂死香ちゃんは午後の時間を二人、食堂でのんびり過ごしていたのだ。お茶を飲んでいた狂死香ちゃんが唐突にはっと目を丸くして、「ま、まずいでござる、拙者、今朝、聖十文字刀の寝間着を洗濯していたのでござった!」って立ち上がる、その瞬間までは。
「せ、聖十文字刀のねまき?」
「早く干さないと今日の聖十文字刀が真っ裸でござる……!」
「あ、寝間着か!」
第二防衛学園と違って、最終防衛学園には私達の分も含めて人数分の洗濯機が最初から揃っていた。だから以前みたいに使うタイミングだったり取り違えだったりに注意しなければならないってことはないのだけど、私とか狂死香ちゃんみたいなうっかり屋は、その分洗濯物の存在そのものを忘れてしまいがちなのだ。
「そっかあ、替えがないのは困るね。私、狂死香ちゃんの分の湯飲みも片付けておくから、今干してきちゃいなよ」
「殿……! か、かたじけない! この恩は、いつか必ず……!」
「いいよいいよ、またあとでね」
でも、聖十文字刀にも寝間着ってあるんだ、って、食堂の外へ駆け出していく狂死香ちゃんの背中を見送りながら思った。
――そういう色んな偶然と必然が重なったせいで、今、私は一人で部屋に戻ろうとしているのだ。
二階から三階に続く階段で身を縮めながらも耳を澄ませる。上に人の気配がないのを確かめてから、一段飛ばして駆け上がる。
別に、ドキドキなんかしてない。一人のときに丸子くんに会って舌打ちされたら傷つくな、とか、川奈さんに明らかに嫌そうな顔をされて逃げられたら落ち込むな、とか、蒼月くんに気遣われたらどんな顔をしたらいいかわからないな、とか。あとは、今馬くん達に出くわしたら嫌だなとか、そういうことをほんのり、心臓の裏側あたりで思ってしまうだけ。それで、変な緊張をしてしまっているだけ。
「あんなこと」があって、私達は益々対立を深めていた。ギスギスした空気は壁や天井を伝って、色んなところから滲み出ていた。だけどそれも全部、全部、仕方ない。だって、今から五日後――私達が東京団地を出て四十三日目の朝に、くららちゃんと銀崎くんが私達を代表して、決闘を行うことになってしまったのだから。
最初に決闘、って言い出したのは、くららちゃんだった。
美味しかったです、と銀崎くんに言われたくららちゃんはスッとその目を細めると、「はぁ」とため息を吐いた。「つまんない感想ね」って。
「――もっとマシな事を言えば許してやったのに」
ぽつりと呟いたその言葉は、多分くららちゃんの本心だったのだろう。――それが空気に溶けて消えた頃、くららちゃんは続けたのだ。「で、切り刻まれても文句は言わないって言ったわよね? ……だったらお望み通り、アタシの我駆力でコマ切れにしてやるわ」って。
それを諫めたのは、希ちゃんだ。「くららちゃん、ダメだよ!」って、希ちゃんは彼女にしては珍しく声を荒げた。我駆力は仲間を傷つけるためじゃなくて、人類を守るためのものなんだよ、って希ちゃんは言う。
希ちゃんの言いたいことは、勿論わかる。そもそも私達はこんな風に内輪もめをしている場合ではないのだ。人類の未来のため、力を合わせて戦わなくてはいけない。わかってはいても、感情が邪魔をする。理性なんて、私の感情の前ではマッチ棒みたいなものなのだ。でもくららちゃんは、希ちゃんの非難だって見越していたのだろう。「そう言うと思った」と肩を竦めると、彼女は決闘形式の模擬戦を提案した。自分と銀崎くんの、我駆力を使っての一対一の戦いだ、って。
「第二防衛学園でアタシともこが良くやってたでしょ。あれと一緒よ。……それなら文句ないわよね? 特防隊員同士の模擬戦なんだもの」
「え? で、でも……」
「じゃあ早速始めるわよ! 表に出なさい、この腐れチビ!」
私は、最終防衛学園の人達に対して怒っていた。
「で、ですけど……僕は、その……」
「ひ、卑怯だよ! 銀崎が戦えないの知ってるのに!」
「……卑怯とは言ってくれるわね。特防隊のクセに戦えない方がおかしいんじゃない」
こんな状況で戦わない選択肢をしている人が未だにいること。消えない炎がありながらも司令官を失って、リーダー格だった女の子の所在は今も分からないまま。
「だったらアンタが代わりにやる? 団体戦がいいならそうしてやってもいいわよ。……まとめて肉団子にして、侵校生に食わせてやるわ!」
「ふ、ふざけんな……! ここまでバカにされて黙ってられっかよ……!」
「……怒っちゃってカワイイなぁ。そんな顔をされると、私も殺りたくなっちゃうよ?」
食糧を消失して、防衛戦でも苦戦していた。
「テメーがその気ならやってやんよ! ぶち殺すぞ、コラァ!」
「むっ! 今のは拙者らへの脅迫でござるか!? 聖十文字刀が黙っておらぬぞ!」
空を飛ぶ部隊長からも餓死の危険からも私達に救われておきながら、「洗脳されている」って言い放ったのも。
「こうなったら団体戦で決着つけるしかないっすね! 自分は戦わないっすけど!」
「お、お兄ちゃん……首を突っ込まないでよぉ……」
今回のカレーのこともそう。くららちゃんの、私達の大切にしているものを、「たかが」なんて言ってほしくなかった。
「ダ、ダメだよ……みんな……! そんな……醜い争いをしないでよ……!」
「堪んねぇ……こういう殺伐とした展開……待ってたんだよなぁ……。きょっきょっきょー! やーっとデスゲーム感覚でコロシアイできそう!」
私達が譲れないものを悉く踏みにじるこの人たちと、どう仲良くしたらいいの、って思っていた。
「……もうやめて」
だけど私は、希ちゃんのことを悲しませたいわけじゃなかったのだ。
もこちゃんと三人、光の中にいた。私のひなたの女の子。
「あれ? ?」
階段を上りきって屋上に続く扉を開けた瞬間そんな声が耳に入って、息が止まった。
低い、ちょっと掠れた声だった。顔をそちらに向けると、想像していた通り澄野くんがそこにいた。
わ、と思った。動揺を悟られないようにしようと思うのに、私ははっきりと狼狽える。「珍しいな。お前が一人でいるなんて」と話しかけてくれる澄野くんと目を合わせられず、先に屋上に戻っているはずの狂死香ちゃんを探してしまう。もしかしたら、そのあたりのフェンスに聖十文字刀の寝間着を干している彼女がいるんじゃないか、って思って。だけどその期待は、もろくも崩れ去ってしまった。屋上には狂死香ちゃんどころか、私達の他には人っ子一人いなかったのだ。
こうして二人っきりになるのは初めてだ。逃げるわけにも行かず、観念して彼に向かい合う。
「……え、ええっと……くららちゃん達は生物薬品室にいて相談事とか、実験とかしてるみたい……狂死香ちゃんと私だけ食堂にいたんだけど、聖十文字刀の寝間着が乾かなくって……」
しどろもどろになりながら説明したけれど、多分澄野くんには伝わってない。「……寝間着? なんて?」って聞かれて、困ってしまった。大体私もそこのところはよくわかってないのだ。「な、なんでもない」って言ったら、彼は頬をかいて、眉尻を下げて笑った。
澄野くんは、丁度部屋から出てきたところだったらしい。「オレはこれから探索にでも行こうかと思ってたんだけど……も行くか?」って言われて、慌てて首を振る。気遣われている、と思った。澄野くんは、希ちゃんと一緒でみんなに仲良くしてほしいと考えているみたいだから。「あー、そっか……」って苦笑を浮かべられて、なんだか罪悪感めいた感情が芽生えてしまうけれど、撤回することもできない。
――部屋に戻りたかった。
私は澄野くんと、こっちに来て以来、まともに話をしていない。
ここ最近の澄野くんは、最終防衛学園の人達と私達との間にある亀裂の真ん中に困ったような顔で立っていた。向こうの人達をまとめきれなくて、どうしたらいいか分からないみたいだった。あの日部隊長を切り伏せた彼の背が放っていた淡い光は今の澄野くんにはなくて、私はそれを彼の周囲に探そうとする度、我に返る。ないならないで、別にいいじゃない、って思う。
私を守り、導いてくれる男の子。
空っぽになったその箱に澄野くんを入れることがどれだけ愚かなことなのかを、私は知っている。
無意識に、澄野くんの顔をじっと見ていた。
さらさらの赤い髪。猫みたいなアーモンド型のきれいな目はいつも希ちゃんを追いかけていて、私は本当は、だから、「今の澄野くんにあの日の光はない」っていうのが自分で自分に吐いた嘘だということを、察している。澄野くんは、光っていた。三日前、ちゃんと。決闘だ、って一触即発の空気になったとき、言い争う私達を見て希ちゃんが泣いたとき、声を荒げて私達を止めた澄野くんは、きらきらしていた。おもいだすのだ、あなたを見ていると。金切り声と、私を包むさやかな熱。「大丈夫、オレがを守るから」って言ってくれたひとのこと。
「…………かっこよかった」
言う気のなかったことを口にした。澄野くんが目を丸くしていたけど、彼の瞳の中で私も同じくらい目を見開いていた。
――びっくりした。
自分で自分が信じられなくて、慌てて手と頭を振る。
「ち、ちがうちがう、ちがうの、えっと、そういう意味じゃなくてね」
「いや、違うって言われても傷つくけど……」
「わー! そ、そうじゃないの、その、ええと、この間のとき!」
もうやめろ、って、澄野くんがみんなに言ったとき。そう続けた私に、澄野くんは瞬きを一つした。
あの時、みんなは変な方向に向かおうとしていた。だって、いくらお互いが気に入らないからって、全員で戦うなんて変だ。憎しみが根底にある以上、それは模擬戦たりえない。――もしも希ちゃんが泣いていることに気がつかなければ、だけど私も空気に飲まれて、みんなと一緒になっていたかもしれない。だから、自分だけは違うなんて言うつもりは毛頭ない。声を震わせながら「やめてよ、みんな……お願いだから……」って泣いていた希ちゃんに気付いていたら、くららちゃんも、面影くんも、狂死香ちゃんも、絶対に冷静になっていた。
だけど私にはみんなを止める力はなかったから、希ちゃんが泣いていることに気がついて、びっくりしていただけだったから、だから、「もうやめろ」って叫んだ澄野くんのことを、すごいと思ったのだ。
澄野くんはその後、くららちゃんと銀崎くんの決闘を了承すると、ただし猶予をくれ、って言った。銀崎くんは戦ったことがないから、準備のために、って。せいぜい二日か三日くらいだろうかと思われたそれは、だけどくららちゃんによって八日と定められることになる。その代わり、勝者は敗者に何でも命令できる権利を得ること。そんな交換条件を出したくららちゃんに、澄野くんは頷く他なかったみたいだったけれど。
「あの状況を良く収めたなあって、リーダーシップあるんだなあって思ったの」
「……いや、オレは何もしてないよ。ていうか、それで言うんだったら、霧藤の方がよっぽどそうだろ」
「あは、希ちゃんはね、そうだよね。信頼感すごい。第二の良心みたいな子だから」
「それを言うならもだろ?」
思いがけない言葉に、顔をあげた。
最終防衛学園の屋上は、炎の影響もあるせいか、風がいつもぬるかった。いつの間にか見慣れてしまった、本物の空。真っ白の絵の具で線を引っ張ったみたいな雲が空を走っていて、私はそれを見る度、ここが東京団地じゃないってことを思い知らされている。私はあそこで、「普通の幸せ」を享受していたなって、思い出す。こんなときに。
「もっていうか、お前ら全員か」
青く澄んだ空の下で、澄野くんは眉を下げた。澄野くんの纏う丸い空気。彼の足元から伸びる、短くて薄い影。
「霧藤だけじゃなくて、お前ら全員、仲間思いだ」
――それに泣きそうになったなんて言ったら、笑われるかな。
私達の過ごした三十日に足りない日々を、澄野くんが掬ってくれた気がしたなんて言ったら、それは、かみさまに縋っているのと同じことになるのかな。
ぐ、と息を止めて空を仰いだ。私が泣くのを我慢していることなんて、澄野くんは気がつかなかった。だから、良かったって思った。
探索に行こうと思っている、って言っていた澄野くんは、結局その後、私といつまでも話をしていた。銀崎に対してはやれることはやったから、あとは自分から動き出してくれるのを待つだけなんだよな、とか。生物薬品室にいるって、どうせあいつら、自分達が勝ったときのために変な薬でも作ってるんだろ、とか、拷問だの人体実験だの嬉しそうだったもんな、とか。他愛もないとは嘘でも言えない、私達のこれからの話を。
私はそれに緩い相槌を打ちながら、その笑顔に、あの日の彼を重ねている。フェンスが作る影を、爪先で踏んでいる。