くららちゃんの尋常ならぬ怒声が廊下まで聞こえていたのだろう。「どうしたの!?」って、最初に食堂に顔を出したのは、川奈さんだった。
川奈つばささん。日に焼けた肌に長い金髪を一つに結んで黒のキャップを被った健康的な風貌の女の子で、この間の戦いではおっきな車を乗り回していた。個性豊かな最終防衛学園メンバーの中では、比較的良識的に見える人だ。彼女は出入り口近くにいた私と目が合うと、こんな時なのに、律儀にはっとした顔をしてみせた。
「あっ……! ご、ごめん。今はあなた達が食堂を使う時間だったよね……!」
「う、ううん、それは平気なんだけど……。あの、実は今ちょっと、問題が起きちゃって」
「問題?」
「一体誰よ! アタシのカレーを食べたのは!」
「ゆ、許せんでござる! か、カレーが……! くらら殿のカレーが……っ! 拙者、昨日からカレーの口だったというのに……!!」
「あの……くららちゃんのカレーがなくなってて……」
ほとんど中身のないカレー鍋を両手に怒り狂うくららちゃんに怖じ気づいたのか、川奈さんは「ひっ」って分かりやすく身構えて後ずさる。
くららちゃんは、怒っていた。川奈さんの存在に気がついて彼女を躊躇なく指差すと、「アンタらの誰かでしょ! 存在から意地汚さが滲み出てるもの……! もしかして犯人はアンタじゃないでしょうね!?」って物凄い剣幕で捲し立てるから、川奈さんも困惑を隠せないみたいだった。
「……流石に彼女ではないんじゃない? 一人じゃこんなに食べられないだろうし……」
「知らない知らない! 私、今朝はサンドイッチしか食べてないし……! 澄野と蒼月が見てたから、アリバイだってあるよ!」
「じゃあ一体誰が犯人なのよ……! さらし首にしてやるから、今すぐ全員連れてきなさいよ!」
「うるせーな……何揉めてんだぁ?」
「クソゴリラ! アンタが食ったの!?」
「……はぁ!? 何の話してんだコラァ!」
「く、くららちゃん、落ち着いて……!」
「えっ? ど、どうしたの、一体何の騒ぎ……!?」
「ええい、犯人は名乗りでよ! 聖十文字刀の血肉にしてくれる!」
「コロシアイってヤツ……!? 怠美も混ぜてー!」
騒ぎを聞きつけたらしい厄師寺くん、蒼月くん、飴宮さんまでやって来て、食堂は少しずつ人口密度が高くなる。最終防衛学園の人達まで巻き込んで収拾がつかなくなり始めていることで、きっと助けを求めようと思ったのだろう。希ちゃんが「わたし、澄野くんを探してくるね……! ちゃん、くららちゃん達のこと、お願い……!」って、止める間もなく行ってしまった。「えっ」って声が出たのは、澄野くんの希ちゃんへの態度が頭の中を勢いよく駆け巡ったからだ。
「あいつ希のことばっかじろじろ見ててキモいのよね、絶対童貞よ」と吐き捨てたくららちゃんの言葉とか、希ちゃんの困ったような顔、銀崎くんの夢の話について真剣に議論していた澄野くんの横顔が私の中にある一つのコップの中でぐるぐるに掻き混ぜられる。行かせない方がいいんじゃないか、でもこの状況だったら澄野くんがいたほうが多分良いよね。でもだったらいっそ私が行った方がよかったんじゃないかな、今からでも遅くないかも、って、判断が遅れる。
「の、希ちゃん!」
慌てて廊下に飛び出して、彼女の背中を探そうとしたときだ。「先輩」って声を向けられたのは。
「ドやかましいなーって思って見に来たんすけど、これって一体何の騒ぎっすか?」
今馬くんと過子ちゃんがそこにいて、私は完璧に、希ちゃんを追いかけるタイミングを逸してしまった。
今馬くんに薄く微笑まれて、私はこんな時なのにはっきりと怯んでしまっている。
希ちゃんが澄野くんを連れて食堂に戻ってきた頃には、もう、全員が食堂に勢揃いしていた。結局今馬くん達が野次馬をしに来た後、丸子くんと銀崎くんも騒ぎを聞きつけてやって来たのだ。私達第二防衛学園組と最終防衛学園組の人達の間には相変わらず何かの象徴のように長テーブルがあって、その上には今、だいぶ中身の寂しくなってしまったカレー鍋がある。
私達――と言うには私は大したことはしていないけれど――が昨日お手伝いをして作った、くららちゃんのカレー。みんなでジャガイモの皮を剥いた。洗い物をして、鍋の中でくたくたに煮込まれていく野菜を見守った。手間暇と愛情のいっぱい詰め込まれたそれは、今や鍋の内側にカレーの残骸と薄く切られたマッシュルームの端っこをへばりつけて、ほとんど役目を終えたみたいにひっそりと息をしているだけだ。
くららちゃんが怒るのは当然だったし、私だって物凄く悲しかった。人一倍カレーを楽しみにしていた狂死香ちゃんだってそうだ。面影くんや、希ちゃんだって。だから「この中にいる犯人を見つけて公開処刑してやる!」と息巻くくららちゃんを、私達は止めない。
誰がこんなひどいことを、って、本気で思っている。
「あー、アホらし……たかがカレー如きで、いい加減にしてくれよ……。オレはもう行くからなー」
カレーへの情熱を、このカレーがどれだけ愛を込めて産み落とされたものだったのかを滔々と語り、だから許せないのだと犯人への怒りを露わにしたくららちゃんに肩を竦め、さっさと食堂を出て行こうとした丸子くんを「逃がすか、クソ貧乏人が!」と殴り飛ばしたのは、そのくららちゃん本人だった。顎を殴られ悲鳴をあげながら宙を舞う丸子くんが前回同様長テーブルに落下しそうになったのを見て、慌ててカレー鍋を救出する。残り少なくなってしまったとは言え、落下の衝撃で飛び散らせるのは本意では無かった。
予想通り、カレー鍋の置いてあったところにしっかり吹っ飛ばされた丸子くんは、顔を押さえながら痛みに呻く。可哀想……ではあったけれど、「アホらしい」と言われたのがどうにも引っかかって、私は鍋を抱えたまま、ぎゅっと唇を噛みしめている。
「クッ……! ま、また殴りやがったな……! 一度ならず……二度までも……!」
カレーのことでこんなに怒るなんて、確かに、彼らからしたらアホらしいのかもしれない。
このカレーも、「たかがカレー」でしかなくって、それを誰が食べたんだろうが、きっとどうだっていいんだろう。でも、くららちゃんにとって、私達にとって、これはただのカレーじゃないのだ。
もこちゃんと希ちゃんと三人で校舎の外に出て侵校生を倒した日、怪我をしてもこちゃんにおぶわれながら戻った私を、くららちゃん達は待っていてくれた。事故だったけれど、くららちゃんはあの日私達にマスクの下を見せてくれた。自分は本当は弱虫なんだって告白して、それから、名前で呼びなさいよって言ってくれた。私達は多分、あの日、ちゃんと仲間になったのだ。あの時のカレーがどんなに私達を救ったか、この人達にはわからない。だから、くららちゃんのカレーは、特別。
あの日のことまでバカにされたみたいだった。そんな意図は彼らにはないって、わかっていても。
「犯人を見つけて処刑するまでは、何人たりともここから逃がさないわよ……」
くららちゃんの言葉に「処刑って……本気でするつもり?」って反応を見せたのは、川奈さんだった。青ざめる彼女に構わず、くららちゃんは「えぇ、本気で処刑するわよ。死んでも蘇生しやがるのは腹立たしいけど」って言葉を重ねる。
「うふふ……だったら罰として、せめて痛みを与えないとね……。そうだ……全身をコマ切れ肉にして、そのままカレーの具材にしてみんなで食べちゃう?」
「お、面影くん、さすがにそれはちょっと……」
うっかり想像してしまって薄ら気持ち悪くなりながら、つっこみを入れるみたいに面影くんの腕を手の甲で軽く叩く。「うふふ……ちゃんに突っ込まれちゃった……」って口角を上げる面影くんは「テメーは気色わりーんだよ!」と厄師寺くんに言われても、何も堪えていないらしいけれど。
処刑って言葉は、だけどやっぱりどうしても強く響いていた。それを向けられて彼らが動揺するのは当然だろう。「ま、待てよ……!」って、澄野くんが口を挟む。
「……処刑とかって……まさか仲間に我駆力を使う気じゃないよな?」
「――使うに決まってるでしょ。大鈴木家に仇なす者は敵も同然だもの」
「く、くららちゃん!?」
息を飲む最終防衛学園の彼らに混ざって、希ちゃんが声をあげた。びっくりしたんだと思う。私も、ちょっとびっくりしたから。でも、仕方ないじゃん、って思う。仕方ないじゃん、だって、悪いのは犯人なんだから、って。この数日、私達に彼らとの協力を訴える希ちゃんは優しいから――だから、そんな顔をするのだ。
「ま、待ってよ……本気で言ってるの? カレーくらいで……我駆力まで使う気なの?」
川奈さんが、困惑した様子で尋ねる。彷徨ったその視線が私に向けられて、思わず抱えた鍋に力を入れた。
犯人をカレーにして食べるのは嫌だけど、それくらいくららちゃんが、面影くんが怒っているのは、私にはわかる。私は希ちゃんほど、優しくなれない。それは根底に、この戦いに消極的な彼らを認められないっていう思いがあるからだろう。
この中の誰かにカレーを食べられてしまったのも、一向に犯人が名乗り出る様子がないのも、腹が立っていた。直接言葉にされずとも、食堂の、長テーブルの向こう側の空気が、この腕にあるカレー鍋を明らかに軽んじている様子なのだって。「カレーくらいでなんで」って、彼ら全員が薄らと思っているのが、嫌だった。
私は、犯人に、ちゃんとくららちゃんに謝ってほしかった。最終防衛学園のみんなにカレーを――ここに来るまでの三十日に満たない日々を、もこちゃんやNIGOUとの思い出を大事にしている私達のことを、理解してほしかった。
それくらい本気だって、わかってほしかったのだ。
でも、何にも伝わらなかったらしい。
「オ、オメーがその気なら、こっちだってやってやるよ……」
丸子くんがそう言ったことで、食堂の空気は一気に剣呑になったから。この間、銀崎くんの夢のことで揉めたときみたいに。
「ひゃっはー! 我駆力バトルロイヤルだね! 我駆力刀持ってこよーっと!」って諸手を挙げて喜ぶ飴宮さんを、澄野くんが「ダメに決まってるだろ!」って止める。だけどもう、そんな言葉だけじゃ私達の間の溝は埋まらない。厄師寺くんが身構える。蒼月くんが胸を押さえる。飴宮さんが我駆力刀を取りに駆け出して、今馬くんはそんな彼らを見て笑っている。過子ちゃんがおろおろと狼狽えていて、川奈さんが動揺を隠しきれないまま、だけど私達をじっと見つめている。
私達はまた、お互いを許せなくなる。
でも、その時だった。
視界の端で、誰かがひっそり手を挙げた。「ちょっといいですか」って。
私達の中でも一際小柄な身体。明るい緑色の、クマみたいな耳のついた帽子を被った銀崎くんは私達の視線を一身に浴びながら、「僕なんです」って言った。
「…………僕なんです。冷蔵庫のカレーを食べたのって」
本当に、すみません。
俯きがちに、小さな、だけどはっきりとした声で、銀崎くんはそう言った。くららちゃんは、そんな彼のことを、ただじっと見つめていた。