「…………またくらら殿の作ったカレーが食べたいでござる」
狂死香ちゃんが思い出したように零したのは、銀崎くんが私達に夢の話をしてきた翌日の、夜の食堂でのことだった。
その時私達は食後の飲み物を淹れておしゃべりをしていて、それまでは澄野くんの希ちゃんに対するあれこれについて話をしていたんだけど(でも厳密に言えばくららちゃんが一方的に澄野くんをこき下ろしていた、と言った方が正しいかもしれない。第二防衛学園で一目希ちゃんを見たときから彼女を知り合いに似ているって話していた澄野くんは、今もまだ希ちゃんのことを目で追っていて、くららちゃんからしたらそれが途轍もなく「露骨すぎて気持ち悪い」らしかったから。当の希ちゃんも、はっきりと否定はしていなかったけれど)、それが一段落ついたとき、ぽつりと狂死香ちゃんは言ったのだ。「カレーが食べたい」って。
夕飯を食べた後でお腹は膨れているはずなのにそんなことを口にするってことは、狂死香ちゃんはよっぽどあのカレーが恋しいのだろう。そんな風に考えたけれど、「くららちゃんのカレー」と聞くと私も食べたくなってくるのだから不思議だ。私だってご飯を食べたばかりで、お腹がいっぱいだったのに。あの中毒性のあるスパイスの香りを思い出す。ごろごろの野菜と豚肉、口いっぱいに広がるコクの深い味も。面影くんや希ちゃんも、きっとそうだったのだろう。
「うふふ……。確かに恋しくなるよね。くららちゃんの作ったカレー」
「わかるな。フルーティーなのにまろやかで、すっごく美味しいもんね」
「もう長いこと食べていない気がするでござるよ……」
食堂を使う時間をずらしたい――私達のそんな要望が最終防衛学園のみんなに受け入れられてから、実に三日だ。
おかげさまでここ数日、私達はまるで第二防衛学園にいた頃のようにのんびりと食堂での時間を過ごせていた。勿論時間がずれているだけで私達だけが食堂を使っているわけではないから見えない気遣いはしているけれど、きっとそれは向こうも同じだろう(例えば冷蔵庫のプリンだ。食後のデザートにしようと思って手に取ったらでかでかと「厄師寺」って書いてあったので、慌てて戻した。もしも気付かず食べてしまっていたら、いくら女には手は出さないと常々宣言している厄師寺くんであっても、「おいテメェ、ちょっとツラ貸せや……」と凄んできたかもしれない。私の妹が、食後のプリンに並々ならぬ情熱を注いでいたみたいに)。
カレーが食べたい。そう言われたくららちゃんは、食後の紅茶を飲みながら「そうねぇ……」と小さく呟いた。
銀崎くんとはあれから顔を合わせることがなかったとは言え、くららちゃんはまだちょっとイライラしているみたいだった。トレーニングではいつも以上に拳に力が入っていたし、狂死香ちゃんや私をからかう回数も極端に少なかったから。
機嫌が良いときならまだしもこういうときにカレーをねだられるのって、くららちゃんからしたら負担だったりするのかな、と思っていたら、向かいに座っていたくららちゃんが私のことをじとっと見つめていることに気がついて、つい肩が跳ねた。
「――は?」
「えっ」
「もアタシのカレー、食べたい? って聞いてるの」
え、って、もう一回声が漏れたけれど、逡巡は一瞬だけだった。くららちゃんが私の掛け値のない本音を待っているっていうのは、彼女のトマト頭が浮かべている表情だけで分かったから。
テーブルの上の手をぎゅって握る。私達の本心がくららちゃんを少しでも元気づけてくれたらいいって、そう思いながら。
「――食べたいっ」
そう言った私に、くららちゃんはふんと鼻を鳴らした後、大仰に肩を竦めて「仕方ないわね。そこまで言うんだったら、アンタ達に作ってあげるわよ。進化の帰結たる究極の大鈴木カレーをね!」って言った。その声は、最近のくららちゃんが出したどの声よりも、いっとう柔らかかった。
もう夜だったけれど、一晩冷蔵庫で寝かすって工程を考えれば、むしろ今から作り始める方が都合が良いらしい。
くららちゃんは食堂の巨大冷蔵庫やパントリーから持ってきてほしいものをリストアップすると、それを私と狂死香ちゃんに寄越した。
「とりあえずアンタ達、その中から玉ねぎとにんにくだけ持ってきてくれない?」
何度か食べさせて貰ってはいるけれど、こうして彼女から手伝いを頼まれるのは初めてだ。くららちゃんはいつも、私達に作業中は鍋に近づかないよう言いつけていたから。
狂死香ちゃんと二人で顔を見合わせてから、野菜の保存されているパントリーに向かって駆け出した。普段調理マシーンに料理を任せっきりな私達は玉ねぎとにんにくを見つけることができなくて、最終的には希ちゃんの手を借りることになるけれど、それでもくららちゃんに頼まれたごとをされたのが嬉しかったのだ。
「くららちゃんが私達に手伝わせるなんて、珍しいね?」
そう面影くんがくららちゃんに尋ねるのが聞こえたけれど、「……ま、たまにはね」って言ったくららちゃんの顔は、私からは見えなかった。
くららちゃんは手際が良くて、結局私達が手伝ったことと言えば、材料を持ってくることと、じゃがいもの皮を剥くことくらいだった(でもそれにしたって私と狂死香ちゃんは下手くそで、「アンタらどんだけ皮厚く剥いてんのよ!」ってくららちゃんからどやされてしまったけれど)。
その点、手先が器用なのは希ちゃんと面影くんだ。二人の野菜の皮を剥く速さと美しさはくららちゃんも文句のつけようがないらしく、「希と面影にだったら任せられるわね……」と言わしめていた。ちなみに、私達はクビだって。使い終わったザルでも洗ってなさいと言われ、狂死香ちゃんと二人で洗い物をした。
くららちゃんのカレーは、私の想像していた以上に色んな隠し味が入っていた。アーモンドミルクに、林檎にバナナ。フルーティな甘さの理由は、ここにあったみたいだ。「え~、全然わかんなかった、バナナかあ」って口にする私に、くららちゃんは「でしょうね」って言うだけだった。だけどお鍋の中身を大事に大事に掻き混ぜるくららちゃんの横顔はマスク越しでも優しくて、ここのところずっとくららちゃんの周囲に張り巡らされていた棘が、ようやくなくなったような気がした。
具材を煮込む時間は、六十分。残り時間が四分の一になったら、一口大に切ったじゃが芋や人参、マッシュルームを投入する。
その頃には私達も手持ち無沙汰で、みんなでくららちゃんとカレー鍋の様子を見守っていた。「アンタら邪魔くさいわね……」ってくららちゃんは言ったけれど、「うふふ……くららちゃんが殺だったら向こうに行ってるけど」と微笑む面影くんの言葉に、頷くことはしなかった。
その後くららちゃんがさらに隠し味として入れられたのは、オレンジジュースと出汁醤油だ。野菜が柔らかくなるまで煮込んだら、火を止めて、ルーを入れる。丁寧に愛情込めて溶かしきった後は、最後の仕上げにインスタントコーヒーを加えて、もう一煮立ち。
「手がこんでるねぇ……」
思わず呟いた言葉に、くららちゃんは「当たり前でしょ」って言う。
「アンタらに食べさせるんだもの。手なんか抜く気ないわよ」
ま、カレー作りにおいてアタシが手を抜いたことなんて、今までもこれから先も一回もないけれどね。
くららちゃんが、火を止める。ボクシングをするには小さすぎるように思えるその手を、私は言葉もなく、見つめている。
事件が起きたのは、その翌日、お昼過ぎのことだった。くららちゃんが前の晩冷蔵庫に入れておいたカレー鍋の中身が、ほとんど空っぽになっていたのだ。
気がついたのはくららちゃんだ。お昼ご飯に食べるため、一晩寝かせておいたカレー鍋を取りに冷蔵庫に向かった彼女の「はぁ!?」って声を聞いたときは一体何事かと思ったけれど――まさかくららちゃんの作ったカレーが誰かに食べられちゃっているなんて、私達は誰も、想像すらしていなかった。