――九十七。……九十八、九十九。
頭の中で数えながら、腹筋を繰り返す。お腹の筋肉はさっきから引き攣ったように痛くて、噛みしめた唇からは息なのか嗚咽なのかも分からない音が絶え間なく漏れている。
もうみんなとトレーニングを始めて一ヶ月近くが経とうとしているんだからいい加減に私の腹筋だって慣れてくれたって良いだろうに、未だに百回程度で「もう無理です!」って悲鳴をあげるんだから、我ながら情けない。もこちゃんみたいな、引き締まったムキムキのお腹は、まだ遠い。
「ひゃ~、く……っ!」
ぷは、と口から漏れる息に、本当はそのままひっくり返って体育館の天井を仰ぎ見たいのを堪えながら、そのまま膝を抱えた。熱を孕んだお腹を太股に押し付けて、達成感と共に「終わった~!」って、つい口にしてしまう。
「うふふ……頑張ったね、ちゃん」
面影くんに声をかけられて、膝に突っ伏しながら「がんばった~」って、ひょろひょろの声を出す。「あはぁ、ちゃん、毛細血管が拡張して皮膚が赤くなってるね……火照っちゃってカワイイなぁ……!」って言われたことには、ちゃんと反応できなかったけれど。代わりにサンドバッグ打ちをしていたくららちゃんが「面影! アンタキモいのよ! 訴えられたら負けるわよ!?」って叫んでくれた。狂死香ちゃんは「火照りというと……エッチなやつでござるか!?」ってわざわざ素振りの手を止めてこっちを見ていたから、「ちがう……!」って首を振る。
もこちゃんやNIGOUがいなくても、第二防衛学園がなくなっても、私達は変わらない。ううん、変わらないように努めている。それが今の私達の背骨になっているって、私は思っている。
三十一日目。私達が最終防衛学園にやって来てから三日目の朝、私達は学園の一階にある体育館にいた。
広々とした板張りの床。奥にある妙に長い階段の先には高すぎるステージがあって、その上では一対の巨大な燭台が煌々というよりはほとんど轟々と炎を燃やしている。跳び箱にサンドバッグ、妙な位置に設置されているバスケのゴールポスト、謎の銅像、ランニングも出来るギャラリー。窓の類はなく、壁面に設置された燭台からの灯りが、朝だというのにじっとりと薄暗い体育館内を照らしている。第二防衛学園のものとそっくりな、最終防衛学園の体育館。
第二防衛学園にいたときと同じように、こっちでも日課だった朝のトレーニングは続けていこうと私達が決めたのは、昨日のことだった。この状況でルーティンをやめてしまったら肉体的にも精神的にもバランスが崩れてしまうかもしれないし、そうじゃなくても私はこうして五人で毎日顔を合わせたかったから、みんなでそういう風に決められたのは、嬉しかった。
トレーニングをしているうちは頭を空っぽにできるけれど、やっぱりこうして一呼吸ついたとき、どうしても最終防衛学園の人達のことが気に掛かる。現在進行形で希ちゃんが彼らと話をしているとなれば、尚更だ。
希ちゃんは私達を代表して、食堂に行っていた。これからは食堂を使う時間を最終防衛学園の人達とずらすことにすると、彼らに伝えに行ってもらっているのだ。
「――希ちゃん、大丈夫かなあ……」
閉じられたままの体育館の扉を見つめながら、誰にともなく呟いた。
希ちゃんがここを出て行ってからもう十分は経っているはずだけど、まだ彼女が戻ってくる気配はない。「揉めてるのかなぁ、心配だなぁ……」とぼやく私に「大丈夫でしょ」と声をかけてくれたのは、くららちゃんだ。
「あんな連中でも流石に言葉は通じるんだし、食事の時間をずらすって宣言するだけで無理難題ふっかけてるわけじゃないんだから」
「だが心配でござる……。やはり、拙者も希殿についていくべきでござったか……!」
「アンタが行って何の役に立つのよ。まだ炭酸の抜けたソーダの方が使い道あるんじゃない?」
「拙者炭酸の抜けたソーダ以下なの!?」
「もう、くららちゃん、また意地悪言って……」
「キシシシシシ……」
どのみち朝はトレーニングがあったけれど、そもそも食堂を使う時間について当分ずらした方が良いんじゃないか、って提案したのは、私達と向こうとの関係に一番頭を悩ませているであろう希ちゃん本人だった。
「今後のことを考えたら向こうの人達とも仲良くしていきたいし、みんなにもそうしてほしいけど、今のままじゃいがみあうだけだし……。当分はお互いに距離を置いて、少し冷静になった方が良いんじゃないかなって思うんだ」
そう口にした希ちゃんに、くららちゃんは「一生距離を置いていいでしょ、あんな連中」って吐き捨てるように言っていたけれど、私としては希ちゃんがそういう風に提案してくれたことに関してはほっとしていた。昨日あんな風に感情的になってしまった手前、どんな顔で彼らに会ったら良いか分からなかったのだ。
でも、そんな風に気にしていたのは私だけだったのかもしれない。
「――お利口さんなんすね、先輩」
昨日向けられたその言葉を、恐らく意図的に柔らかく細められた目を思い出して、抱えた膝に額を押し付ける。細く長く息を吐いて、蘇りそうになる負の感情を平らにしようと努める。
そうしなければ、胸の内側でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた苛立ちが唸り声と共に外に滲出してしまっていてもおかしくなかったから。
できたら当分会いたくないなっていう人物に順位をつけるなら、間違いなく今馬くんがトップだった。他の人にもそれなりに思うところはあったけれど、「洗脳」なんて言われて、それを聞き流して他の人と同じように接することなんかできる気がしなかったから。
とは言え同じ校舎で生活している以上は全く顔を合わせないなんてことは難しい。屋上でばったり鉢合わせたように、どうしたって彼と関わらなければいけないタイミングもあるだろう。だから、もしその時が来たら落ち着いて、できるだけ大人な対応をするしかない。だって私の方が、今馬くん達より年上なんだから――そんな風に想像してはいたものの、まさかそれが数時間後になるなんて流石に思っていなかった。
心の準備なんか、だから、できていなかったのだ。少しも。
「あっ」
「あ」
開けた扉の先で視線がばちって絡まって、目を見開いたまま固まってしまったのは、生物薬品室でのことだった。
切れ長の目を縁取る長い睫毛。肌荒れの一つも無い白い頬。顎のあたりで切り揃えられた髪を引っかけているせいで露わになっている、右耳の淵をびっしりと埋め尽くすピアスが視界に引っかかって、無意識に半歩後ずさった。
今馬くんの眼球の中で、私ははっきりと狼狽していた。情けないことに。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
彼の背後からひょいと顔を覗かせたのは、過子ちゃんだ。目が合った瞬間、僅かに驚いたような顔で「あ、先輩……」と名前を呼ばれて、「こ、こんにちは」って慌てて挨拶をした。過子ちゃんから返される「こんにちは……」って細い声を聞く。二人は、いつも一緒だ。どこか遠くで丸くなる、小さな私が呼吸を止める。
売り言葉に買い言葉で険悪な雰囲気になってしまったあの日の朝から、半日しか経っていなかった。私達は二手に分かれて、新しく開放されたっていう生物薬品室と工作技術室を見て回っていたところだった。私が生物薬品室に一人で来ることになったのは、一緒に工作技術室を見ていたくららちゃんがちっともそこから離れる気配がなかったからだ(兵器開発でのし上がった大鈴木家の血がそうさせたんだと思う。数々の兵器が並んでいた工作技術室は火薬と鉄の匂いが充満していて、そこでは侵校生の戦いに備えて防衛装置なんかも作成できるらしかったから。くららちゃんが夢中になるのも、無理はない)。生物薬品室を見ていた面影くんも同じようなものらしく、彼と一緒に居たはずの希ちゃんと狂死香ちゃんが二人で工作技術室にやって来たのを受けて、ほとんど二人と入れ替わる形で私が二階にやって来た。私が今馬くんと過子ちゃんに出会ったのは、そういうタイミングだった。
「……先輩もここ、見に来たんすか?」
薄く笑われて、「は、はい、見に来…………ました」って言いながら思わず目を逸らす。冷静に、大人な対応を、って思っていたけど、これじゃあどっちが年上なのかわからない。朝、私達はあんな風に険悪な空気になったのに、「なんでそんな酷いことを言うの」って、私は彼を責めたのに。なのに今馬くんは、私が怒っていたのも忘れているみたいな顔でいる。どこか飄々とした顔で、細めた目で、私のことを見つめている。
今馬くんと過子ちゃんの背の奥に広がる生物薬品室は薄暗く、壁一面に薬品やホルマリン漬けの物体、魚か何かの目玉が詰め込まれた瓶なんかがずらりと並んでいた。「面影くん、生物薬品室が気に入ったみたいで――」そう話していた希ちゃんの声を思い出して、縋るように中にいるはずの彼に視線を送る。面影くんは、誰かと喋っているらしかった。「ここには、禁忌を無視した人体研究と、常識を外れた悪魔的技術の数々が揃っているんだ。倫理観の観点から、研究が禁止されている技術さえもね……」興奮を抑えたような声色で誰かにそう話す面影くんの姿を確かめようとしたら、通せんぼでもするみたいに、視界を今馬くんの体に塞がれた。びっくりして、ちょっとだけ身体が跳ねた。
「ね、先輩」
彼の、暗い色をした髪の毛が、重力に従って流れていた。私はそれを、ただ見ていた。今馬くんはそういう全てを見透かしてでもいるかのように目を細め、ドア枠の部分に体重をかけると、「――自分ら、薬品室って言うくらいだから」って、私の目を見て、その口を開いた。
「色んなオクスリがあるのかなーと思って来てみたんすけど、どうも戦いに関するモンだけみたいなんすよね、ここ」
「そ、そうなんだ……」
「ええ。ドーピングとか、そういう感じみたいっす。だから、自分らには関係ないなって。ね、妹ちゃん」
「…………う、うん……」
「戦う気、ないっすからね、自分らは」
念を押すように、彼は言う。それに眉を動かしてしまった私も良くなかったとは思うけれど、私の反応を見て、明らかに目を細めた彼も彼だと思う。
「だけど先輩もこういうの門外漢だろうにわざわざ見に来るなんて――やっぱりお利口さんなんすね。先輩」
その「お利口さん」に悪意が詰まっていることに気付かないほど、私は鈍感ではなかった。
息を飲んだのと、中から「人体改造!?」って声が聞こえたのと(多分、この施設があればそれすらも可能、って話をしていたんだろう。漏れ聞こえていた直前の会話の内容を踏まえると。……それはそれで物凄く気になったけれど、その話題を振ったら「改造させてくれるの?」って言われそうだから、とりあえず、聞かなかったことにしておく)、その声が澄野くんのもので、面影くんと話をしていたのが彼だって気がついたのと、「じゃ、自分らはもうここに用ないんで」って、今馬くんと過子ちゃんが私の横をすり抜けていったのは、全部、ほとんど同じタイミングだった。
遠ざかっていく二人分の足音に、時間差でやって来た、明らかに馬鹿にされたことへの動揺をどうしたらいいかわからなくて、両目をぎゅって閉じた。「お利口さん」って、だってあれ、絶対嫌味だ、馬鹿にしてるよ。「あれ? ちゃん?」、生物薬品室から顔を覗かせて、声をかけてくれた面影くんの声を聞きながら、やっぱり今馬くんって苦手だ、って、刻み付けるように考えていた。
「みんな、お待たせ! 澄野くん達に伝えてきたよ……!」
体育館に希ちゃんが戻って来て、はっと顔をあげる。昨日の記憶から引き摺り戻されていきなり頭を動かしたせいで、軽い貧血でも起こしたみたいに、視界が緩く明滅していた。「お、おかえり希ちゃん!」三角座りの姿勢から立ち上がって、体育館の入り口へと駆け出す。酷使された腹筋は、まだ微かに熱を持っている。
希ちゃん曰く、食堂を使う時間をずらす旨は向こうの人達に了承してもらえたらしい。朝も昼も夜も、私達の方が彼らの後に食堂を利用するっていうことで話がまとまったそうだ。それを聞いて、胸を撫で下ろす。苦手な人達とは、やっぱり顔を合わせないに越したことはないから。希ちゃんも「当分の間」って言っていたし、今後の侵校生との戦いのことを考えたらずっとこのままっていうことは難しいのだろうけれど、心の猶予をもらえるのは有り難い。
脳裏にちらつく今馬くんの顔に緩く頭を振る。ずっとこのままではいられないのは分かっている。でも、できたら次の侵校生の攻撃はずっと先だったらいいなって、そんなことを思っている。
そんな風に考え事をしている私は、面影くんが思案気に私を見ていることなんて、ちっとも気がつかないのだ。