「あー! ほんと、傑作だったわ!」
廊下を歩きながら、くららちゃんは大仰な仕草で肩を竦める。
「やっぱ、大人しそうに見えるヤツがキレたときが一番空気凍るのよね。見た? あの唐変木クソゴリラの顔!」
「と、とうへんぼく……? だれ……!?」
「あの馬鹿でかいドグサレヤンキーのことよ! いきなりキレたのこと、とんでもない顔で見てたわよ。あれはチビっててもおかしくないわね」
「……あっ、もしかして厄師寺くんのこと……? ど、どうしよう、やばいヤツって思われたかな……!?」
「なんて思われようとどうだっていいわよ。大体あいつらだってよっぽどまともじゃないじゃない。…………あんな貧民共と戦うなんて、こっちから願い下げよ……!」
第二防衛学園と変わらない作りの、薄暗い廊下だ。壁にびっしりと描かれた絵(というよりも、それはもうほとんど壁画だ)に多少差異があるくらいで、あとはコピーでもしたみたいにそっくりな校舎を、私達五人は体育館に向かって歩いている。
「でも、殿、マジでカッコよかったでござる。仲間のために怒るその姿、まるでジャンプの主人公のようでござった……!」
「そ、そんなことないよ……!」
「いや、殿がああして怒りを露わにしていなければ、拙者の聖十文字刀が咲き狂っていてもおかしくなかったでござる……。ね、聖十文字刀? 聖十文字刀も、怒ってたよね?」
「ホント、刃傷沙汰にならなかっただけ感謝すべきよね。――希、アンタもあんな連中放っておきなさい。ああいう言葉の通じない愚か者共とは話すだけ時間の無駄よ」
「……うーん……」
苦々しい顔で言葉を濁す希ちゃんは、こんな状況でもあの人たちと協力したいのだろうか。あんな、酷いことばかり言う人達と。
――私は、嫌だ。
あんな風に怒ってしまったことはちょっとみっともなかったかもしれない、って薄ら後悔しているけれど(くららちゃんと狂死香ちゃんがこうして肯定してくれているから、多少はその感情も和らいでいるとは言え)、それでもさっきの食堂でのことを思い出すと、どうしようもなく胸がざわついて苦しくなる。彼らに言われた言葉たちは、今も私の内側にぺったり張り付いている。血が沸き立つみたいになって、お腹の奥にぼとぼとと音を立てて落ちて行く。
決裂、って、ああいうことを言うのだろう。
あの後、結局私達は彼らに「世界死」の話をしなかった。協力する気がなくなった、とくららちゃんが吐き捨てたのだ。希ちゃんはそんなくららちゃんを窘めようとしたけれど、それも無駄だった。売り言葉に買い言葉で、向こうの彼らも引くことはなかったから。
本当に、どうしようもないくらいこじれて、荒れに荒れた。元々互いに思うところはあったとは言え、それらの全てが噴出してこんなに揉めることになるなんて、誰も想像していなかったんじゃないだろうか。ヒートアップした私達と彼らを取り持つにしても、希ちゃん一人ではどうしようもなかった。
彼女の気持ちを考えたら、申し訳ないことになったと思う。いや、そうじゃなくても、NIGOUの残した願いを思えば私達は手を取り合うべきだったのだ。人類の未来のために。それでも、私達は彼らのことを許せなかった。一緒に戦うつもりでいたのに、裏切られたような気持ちになっていた。
それでお互いに怒鳴り合って、罵り合って、これ以上一緒にいる意味は無い、って、食堂を出てきてしまったのだ。部屋に戻らずにこうして体育館に向かっているのは、トレーニングをすることが日課として、もう染みついてしまっているから。「するでしょ、トレーニング」とくららちゃんに言われて、誰も首を振らなかったから。
「ちゃん」
「わ」
その時斜め後ろから名前を呼ばれて、飛び上がりそうになる。一瞬足を止めて振り向いた私に、くららちゃん達は気付かない。「大体澄野のヤツも情けないわよね。てっきりあっちのリーダー代わりみたいなもんなんだと思ってたけど、話し合いの間ほとんど黙ってたじゃない。妙に希のことチラチラ見てるし絶対狙われてるわよ。気を付けるのよ、希」くららちゃんの言葉に曖昧に頷く希ちゃんの声を聞きながら、「な、なに? 面影くん」って、彼を見た。
面影くんは、普段からわざと気配を消しているのだろうか。「殺あ……びっくりさせちゃってごめんね?」って薄く笑う彼は、朝なのに仄暗い校舎の中にその輪郭を滲ませている。「ううん、大丈夫」まだドキドキと音を立てる心臓をこっそり押さえながら、緩く首を振って、彼の隣を歩く。「ていうか、希、分かってるでしょうけど、『世界死』の話、あいつらにするんじゃないわよ。話してやる義理なんかないんだから」念を押すくららちゃん達は私達より少し前を歩いていて、トイレのある角を曲がったところ。体育館は、もうすぐそこだ。第二防衛学園と作りがおんなじだから、わかる。
――そもそもこの学園は自分達がいた場所だ。お前達こそ迎え入れてもらった立場であることを忘れるな。
もう協力はしないし「世界死」のことを話すつもりもないと言い放ったくららちゃんに、彼らの不満も頂点に達したのだろう。そんな風に言い返してきた丸子くんや厄師寺くんに「……でもさ、昨日の防衛戦で私達が助けてあげなければ、君達も今頃ここにはいないよね?」って正論を言ったのは、今こうして私の隣を歩いている、面影くんだった。
私は、面影くんを冷静な人だと思っていた。――いや、冷静ではあるのだろう、勿論。すぐ頭に血を上らせてしまうくららちゃんや感情の制御ができずいきなり怒り出す私、軽々に刀を持ち出す狂死香ちゃんに比べれば。だから、さっきはちょっと驚いた。薬師寺くんが勢いで吐いてしまった「ぶっ殺すぞ」って言葉が気に食わなかったらしいとは言え、希ちゃんと一緒に止めるわけではなく、私達と同じところに立って舌戦を繰り広げてくれるなんて、思ってなかったから。
面影くんも、怒っているのだ。いつもよりどこか殺気だって見える面影くんが、もしも女の子だったら、私、多分さっき面影くんにしてもらったみたいに、背中を撫でたんだろうな、きっと。でも面影くんは男の子だし、私は男の子に、そんなことはできない。いつもと少し感じの違う彼の、隣を歩くことしかできずにいる。
「『殺す』なんて言葉を私の前で軽々しく使わないで欲しいなぁ……」
そう厄師寺くんに目を細めて言ったときの彼の、静かな怒りを湛えた瞳を、ただ思い出している。
多分、ゆるせなかったんだろう。私にもそういうものがあるように。
面影くんは私と並んで歩きながら、不意に目線だけをこちらに向けて落として首を傾げた。
「……ところで、手、大丈夫だった?」
「手?」
「さっき思いきりテーブルに叩きつけてたじゃない。すごい音だったからさ」
「……あ、大丈夫だよ! それに私、怪我してもすぐ治るみたいだし、全然平気!」
「でも痛いは痛いんでしょ?」
「うーん、そうだね、手の平、確かにちょっとヒリヒリした。……次はグーでやることにするね!」
多分、こう垂直に振り下ろした方が痛くないと思うんだ、って言いながら、握った拳を顔の前で何度か振り下ろす私の隣で、「ふふ」って息が聞こえた。思わず彼の方を見て、ちょっと息が止まる。
細められた右目に、気の抜けた顔をした私が映っていた。面影くんは少しの間笑った後、やがて「面白いね、ちゃん」って、そう言った。ごつごつした指が、彼の口元に添えられていた。慈しむような目だった。
どちらも特別美しい顔をした二人だけど、今馬くんの笑った顔と、面影くんのそれは、全然違う。「洗脳なんかされてない」、「どうしてそんな酷いことを言うの」、そう訴えた私を、今馬くんは口角だけを上げながらも、ほとんど侮蔑の目で見ていた。彼は怒りに塗れた私に何も言わなかった。「お、お兄ちゃん……」過子ちゃんの、動揺に染まった弱々しい声まで鮮明で、それを思い出すと、泣きたくなる。怒りとは別の部分で、引き摺り込まれるような気になる。
あの時限界にまで張り詰めていた気は、今はもう、ゆるゆると解れていた。肩の力が抜けて、熱を持った指先は良く動いた。――こうして五人でいるからだ。この事態がそうさせるのか、細やかな物事にすらもいちいち昔を思いだしそうになる私の弱さは、みんなにしか引き上げてもらえない。澄野くんの纏っていた光も、手を繋いだ二人も、あちこちに落ちている影も。
「でも、だめ」
その時、面影くんが自然な所作で宙に浮いていた私の手を取って、緩く握っていた拳をその指先で解いた。そうされた瞬間、さっき屋上で見た今馬くんと過子ちゃんの後ろ姿が、繋がれていた手が、見えなくなった気がした。
「ちゃんにはもうああいうこと、あんまりしないでほしいな」
ああいうこと。
口の中で繰り返したそれが聞こえていたのか、面影くんは笑いながら首を傾げる。「私がハラハラしちゃうからね」って、答えになっていない言葉を、彼は言った。
――面影くんは、軽率に人に触る。
怪我の治ったばかりの膝に、バスで私の手に、さっきは背中に。
面影くんからしたら、これが普通なのだ、多分。いちいち動揺したり、息を止めたりしている私の方が、変なのだろう。
面影くんに開かれた手の平を胸のあたりに引き寄せる。まだ彼の指の感触が残っている気がして、つい、握ったり閉じたりしてしまう。素直にドキドキしている。いつまで経っても、全然慣れない。
面影くんは、どういう人生を送ってきたんだろう。どういう風に暮らして、どういう人と付き合って、どうやって彼の人となりはできたんだろう。どういう高校生活を送っていたんだろう。改めて考えてみると、知らないことばかりだ。面影くんにも、大事に抱えているものがあるのかな、って考える。私がそうしているみたいに。
「何してんのよアンタら、早く来なさいよ」
最終防衛学園の体育館へと続く扉に手をかけたくららちゃんに振り向かれて、顔を上げた。
約束の百日目まで、あと七十日。今の状況は、あんまり芳しくはない。本当にこの五人で最後まで学園を守り切れるとは思っていないし、それに、私達と最終防衛学園の彼らの間にだってまたもう一悶着あるだろう。それが一体どういう形で収まるのか、そもそも本当に収まるのかもわからないけれど。
踏み入れた体育館の空気は籠もって、澱んでいた。誰も一回も使ってないってことはないと思うけど、あんまり人が入った形跡がない。第二防衛学園のものとは違うステージの壁を覆う赤い幕に、随分遠くにきちゃったな、って、そんなことを思っている。瞼の裏の薄い影に、あの人を見ている。
第二の人らが食堂を出て行っても、ギスギスした空気は部屋中に充満しきっていて、笑えた。
「いやー、マジで性格歪んでたっすねー」と口にする。厄師寺先輩には「オメーも大概だけどな」と返されたが、そんなの今更だ。自分らの見たいもんしか見てなくて、視野が馬鹿みたいに狭くなってるのにも気がつかない先輩方。間違っているのはこっちだって? 自分から見たら、言われたまんまを飲み込んで、思考停止で他人のために命を賭けるアンタらの方が、よっぽど頭がおかしく見えますよ。
「でも、『世界死』ってなんなんですかね? やっぱり気になりますよね……」
「やめろやめろ。気にしたら負けだ。オレはあんな連中に頭を下げるなんてゴメンだからな」
食事をする気も失せたのか、先輩方はそんな会話をしながらもバラバラと食堂を後にしていく。制服のポケットに突っ込んだままの紙切れを指先の感触だけで確かめて、「自分らも行こうか、妹ちゃん」と、妹ちゃんに声をかけた。屋上に続く階段へと向かいながら、何気なく手の中でそれを広げる。小さな紙片は、保冷剤に触れたまま運ばれたせいで、妙に萎びている。
昨日第二の人らが持ってきてくれた食糧を冷蔵庫に運んでいたとき、紛れていたものだった。「百日目まで一緒に頑張ろうね」、丸い字で書かれた手紙というには短すぎるメッセージは、十中八九あの中の五人のうちの誰かが書いたものだろう。こういうことをしそうなのは、善性の塊みたいな霧藤先輩か、先輩か――まあ、多分頭が悪そうな後者かなと思いながら、指の腹でポケットの奥に押し込む。
「……何見てたの? お兄ちゃん」
不意に隣から声をかけられて、「妹ちゃんが気にするようなもんじゃないよ」と曖昧な笑みを作った。生まれる前から一緒に居た、世界で一番愛しい子。自分はこの子が守れればそれで良い。戦いなんて危ないこと、やりたいヤツだけがやればいい。
「なんでそんな酷いこと言うの」
先の言葉と、屋上で見かけた彼女の怯えたような目を思い出しかけたけれど、すぐに脳内で消した。