十七年をきれいなものにだけ囲まれて生きてきたなんてことは嘘でも言えないけれど、それでも物心ついてからの私が出会った人達の多くは清く正しい真っ直ぐな人達ばかりだったから、だから、そんな人達に慣れきってぬるま湯に浸かっていた私の思考が甘かったのだ。きっと。
「別に、無理して戦わなくても逃げればいいじゃないっすか」
テーブルを挟んで向かい合っていた私達に向けられたそれは、どこか侮蔑の色が滲んでいた。
「ほら、皆さんが乗ってきたバスを使えばもっと遠くにまで行けますし……あれに乗って、東京団地を探しに行くのはどうっすか?」
吐き出されたばかりの今馬くんの無責任な言葉は、耳のあたりにこびりついていつまでも反響している。じわじわ内側に染みこんで私の息を止める、温い毒みたいに。
「バ、バカを申すなっ! 敵前逃亡は武士と女子の恥でござるぞ!」
今馬くんの言葉を侮辱と受け取ったのだろう。狂死香ちゃんが刀に手を添えながら、目を見開いて彼に言う。「――大体」と狂死香ちゃんの怒りを引き継いだのはくららちゃんだ。「……いくら遠くまで行けるからって、場所もわからない東京団地に辿り着ける訳ないじゃない。」トマト頭の下にある本当の彼女の表情は分からないけれど、それでもくららちゃんが感情を抑えようとしているのは分かった。だから、私もこっそり息を吐く。緩く点滅する視界を誤魔化すように、小さく首を振る。
――逃げるなんて有り得ない。それにもしそうせざるを得ない状況だったとしたって、東京団地を探すなんて、無謀だ。
今から何百年も前、世界死により地球を追われた人間が地下に作った巨大なシェルターがある――私達はNIGOUから話を聞いて、それこそが東京団地なのだとほとんど結論づけていたけれど、例えその仮定が間違っていなかったとしても、この広大な地上のどこに東京団地へ続く入り口があるのかなんて分からない。だって、第二防衛学園から最終防衛学園までですらバスで一日近くかかっているのだ。東京団地への入り口を探すなら、もっと広範囲を探索しなくてはならない。それに侵校生からの攻撃に東京団地が備えている以上、例え出入り口なんかあったとしても数は多くないだろうし、よっぽど目立たないものに決まっている。砂漠の中で、一粒の金を探すようなものだ。
抑えようとしても、上手くいかない。私の中の「悲しい」が、ちょっとずつ変質していく。なんで逃げようとか言うの。今更そんな話をして意味があるの、って。悔しくて、頭がぐらぐらする。喉が痛くなる。「くららちゃんの言う通りだよ」、希ちゃんが、真っ直ぐな声で言うのを、頭のてっぺんで聞く。
「……それに、これは人類を守る為の戦いなんだよ? わたし達が逃げたら、誰が人類を守るの?」
「て言うか、その『人類を守る為の戦い』ってヤツ、本気で信じてるんすか? 騙されてるかもしれないとは考えないんすか?」
希ちゃんの正論も、今馬くんには届かないのだ。
思わず顔を上げた。テーブルの向こうに立って私達に視線を向ける彼らに臆さなかったとは言えない。だけど、どうしたって胸が痛かった。刺されたみたいだった。だって、私達が騙されてるなんて、そんなわけなかったのだ。NIGOUはいつも私達のことを思っていてくれていた。優しい子だった。そうじゃなかったら、私達だけを逃がすなんてことするわけがない。
「本官と第二防衛学園は、ここでお別れだ」
私達に別れを告げたときの、感情を押し殺したようなNIGOUの声。顔を見て話したわけではないけれど、あの時、多分、NIGOUは笑っていたんだと思う。そうして自分を置いていく私達を見送ったんだと思う。
私はあれを愛だと思ったのだ。いつかのお祭りの夜みたいに。NIGOUの愛だって。
なんで、なんで、って思いが膨らんでいく。昨日から私のあちこちに落ちていた種が発芽して、めきめき音を立てて伸びていく。黒々した蕾が膨らんで、一気に破裂しそうになる、その、手前。
背中に手を添えられて、息が止まった。
面影くんが、私の背を緩く叩いたのだ。言葉もなく、宥めるように。彼の顔を見ると、面影くんは私に緩く首を振る。落ち着いて、って、その右目が言っている。彼の手の熱が、背中に伝わる。
「……騙されているかもしれないなんて、そんなのとっくに考えたわよ。ここに来た、最初の時に」
そうして背を緩く撫でられながら、くららちゃんの言葉に、第二防衛学園で目覚めた日のことを思い出していた。浅い呼吸を、繰り返し。
自分達の身に何が起きているのか、あの時はちっとも分かっていなかった。くららちゃんに「なんでトマト?」って言ってしまって怒られたこと、刀と会話する狂死香ちゃんにぎょっとしたこと、訳も分からないままみんなで食事をしたこと、食べかけのオムライスが欠けた死体に見えたこと、そんな状況でももこちゃんがもりもりお肉を食べていたこと、食の進まなかった私を面影くんが気遣ってくれたこと。NIGOUが屋上に案内してくれたこと、希ちゃんの部屋をもこちゃんと一緒に覗いた。砂混じりの紗がかかったような空。四台だけの洗濯機。私達が暮らしていた第二防衛学園。
――私はあそこが好きだった。
「皆で話し合った末に決心したのだ! 人類のために戦い抜こうと!」
「……希ちゃんが鼓舞してくれたお陰でね。私達も腹をくくれたのさ」
「わたしは……別に大したことは言ってないけど……」
二日目に第二防衛学園を襲った侵校生を、みんなで力を合わせて撃退した後のことだった。NIGOUは私達に、色んな話をしてくれた。地球のこと、世界死のこと、私達が「選ばれた」のだということ、人類の未来について――全てを詳らかに話してもらえたわけじゃない。NIGOU自身もわからないこと、話せないことは、たくさんあった。それでも蘇生マシーンの使えない希ちゃんが「やるしかないよ」って私達に言ったから、だから戦うことを決めたのだ。だって、それ以外に何もできなかった。
人類のために、家族のために。戦わない選択肢なんか、取れるわけなかった。
希ちゃんは最終防衛学園のみんなをぐるりと見回して、「きっと、みんなが不安になるのは、SIREIがみんなに詳しい話をする前にいなくなっちゃったせいじゃないかな」って口にする。私達はNIGOUから話を聞いていたから、きっとその差なんだと思う、って。「世界死のことだってそうだよ。あんな恐ろしい事を放っておけないでしょ?」続けられたその言葉に、テーブルの向こうのみんなが不思議そうな顔をした。
「ちょっと待って……。世界死って、何?」
不意に、第二防衛学園の体育館で世界死と聞いて首を傾げていた澄野くんのことを思い出す。
彼らはSIREIさんから、何も聞いていないのだ。
世界死が何かも。地球に何が起きたかも。そのためにかつて人類の大半が死に絶えたことも。私達が住んでいた東京団地のことも。人類を世界死による滅亡から守る唯一の手段が、この最終防衛学園にある、ってことも。
「アンタら……そんな大事な話も聞いてないのに、嘘だのなんだのバカみたいに喚いてたの?」
元を正せば、世界死こそがこの戦いの元凶であること。世界死のせいでかつて人類の大半が死に絶えて、その結果人類が東京団地でしか生きられなくなったこと――掻い摘まんでの説明に動揺する彼らを前にして、くららちゃんがそう言うのも無理はない。「人類の大半が死に絶えた、って……。……え? どういうこと?」って、過子ちゃんが青ざめた顔で口にしている姿を、「説明しろや!」と狼狽しきった様子で啖呵を切る厄師寺くんを前に、くららちゃんは緩く首を振る。
「……おつむがお可哀想なこと」
不安定な台の上に、相手の出方を窺いながらも崩れることのないよう交互に積み木を積んでいたのがさっきまでの私達なら、今の私達は次のことなんて考えない。今自分が手にした積み木さえ置けてしまえばそれで良い、結果積み上げたものが崩れても、相手がこちらに積み木を投げつけることになっても構わない――そういう状態だった。水面下で高まったフラストレーションを、隠そうとすることすらも、もうしない。
くららちゃんの言葉にかっとなったのは、丸子くんだ。「うるせぇ! いいから早く教えろよ!」と声を荒げる彼の言葉に、くららちゃんもカウンターを食らわせる。「は? それが教えを請う態度なのかしら? ロクな教育受けてないのね」言葉の応酬は止まなかった。
もう、手遅れだったのだ。どれだけ取り繕おうとしても無駄だった。私達の間の線はぐちゃぐちゃに絡まって、簡単には解けなかった。いくら希ちゃんが正しい形に戻そうとしても、誰も協力しようとしなかった。……私だってその一人だ。パンパンに膨らんだ風船が食堂いっぱいに充満して、みんな、冷静ではいられなかった。希ちゃんと、多分、澄野くん以外は。
「うるせーよ……! オメーはまともな教育受けてもそれじゃねーか!」
くららちゃんを指差して言い放った丸子くんのそれが、くららちゃんの怒りを買ったのだ。
くららちゃんは一瞬の沈黙を作ると、両の手を身体の脇で握りしめた。戦慄くそれは傍から見ても痛々しいくらいで、なのに、私にはどうすることもできない。「うるさいわね……」くららちゃんの、引き攣って震えた声が、もう限界だと告げている。微かに俯いたせいで露わになる細い首筋は、はっきりと赤い。
「アンタらのウジウジって本当に不愉快だわ。ウジウジウジウジと……」
くららちゃんの拳が持ち上げられる。それがテーブルに勢いよく叩きつけられた瞬間、鈍い、酷い音が食堂中に響いた。川奈さんがびくりと肩を震わせる。「わは、トマトの人、すごー!」って、飴宮さんが楽しげに声をあげる。そういう全てをねじ伏せるみたいに、くららちゃんは叫んだ。怒りに滲んだ、悲痛な声だった。
「文句言ったところで敵は攻めてくるのよ!? だったら、戦うしかないじゃない!」
遠く離れた場所にもう一つ、第二防衛学園と同じような学園がある。
そこには私達と同じように東京団地から集められた、選ばれた子たちがいて、私達と同じように人類のために必死で戦っている――
それをずっと信じていたのだ。私は。
だったら、頑張れるって思った。どれだけ怖くても、つらくても、同じように頑張っている子たちがいるって思ったらそれだけで前を向けた。戦わずに逃げている子がいるなんて知らなかった。いつ死んだって一緒だとか、逃げれば良いだとか、そんな風に考える子がいるなんて知らなかった。協力して戦おうって言う私達を前に、文句や弱音ばかり吐かれるなんて、思ってなかった。
「文句ばっかって……仕方ないじゃん。だって、私達は巻き込まれただけなんだし……」
「ううん、違うよ。わたし達は巻き込まれたんじゃなくて、人類の代表として選ばれたんだよ」
「……人類の代表?」
「うん。わたし達は人類を守る為に選ばれて、人類の代表としてここにいるんだよ。今ここで人類の平和を守れるのはわたし達だけ……だったら、わたし達が頑張るしかないでしょ?」
川奈さんや蒼月くんに訴える希ちゃんを、彼は――今馬くんは笑う。「あははっ」って、声をあげて。
「それマジで言ってるんすか?」
彼らは何も知らない。SIREIさんが何も話さずにいなくなってしまったから。でも、例えそうだったとしても。
「――洗脳でもされてるんじゃないっすか?」
第二防衛学園で過ごした私達の三十日を、NIGOUを、そんな言葉で侮辱される筋合いは絶対にない。
嘲笑うような今馬くんの言葉に、狂死香ちゃんが「貴様っ! また拙者らを愚弄するか!?」と気色ばんだときだった。私は一歩前に出て、両手の手の平に目一杯の力を込めて、テーブルに叩きつけていた。くららちゃんがそうしたように。
ばしん、って、酷い音がした。指先も、拇指球も、全部が全部、満遍なく痛かった。ヒリヒリした痛みは手の平から駆け巡って、目の奥を滲ませた。食堂はしんと静まって、みんなの視線が私に集中していて、本当だったら、私はそれだけで怯むはずだった。でも、止められなかった。
悲しかった。ずっと、ただ、悲しいって思ってた。でも違うのだ。
私のこれは、怒りだ。
「せ、洗脳なんか、されてないよ……!」
今馬くんの顔をじっと見て、ぎゅっと唇を閉じてから、続ける。
「さっきから、なんでそんな酷いこと言うの……!?」
長い睫毛に縁取られた今馬くんの、大きな瞳。
彼はそれを微かに瞠らせて、私を見ていた。その眼球の中、彼を睨みつける私は、必死で毛を逆立てている猫みたいなものだったのかもしれない。今馬くんは、やがて、息だけで「は」って笑った。面白そうに口角を釣り上げた彼は、年下の男の子には、全然見えなかった。
絶対引かない、って思った。一度は面影くんが止めてくれたのに、こんな風に感情を剥き出しにして怒っちゃうなんて、なんて馬鹿なんだろう。その時頭の隅っこでそう思っていた時点で、私はもう負けていたのかもしれなかったけれど。