「総員、起床時間だよー!」
聞き慣れない声が、膜の向こうの方から聞こえたような気がした。
「えー、みんなを率いる司令官であり、この学園の責任者である本官がお伝えします……」
私はそのときくららちゃんと狂死香ちゃん、希ちゃん、面影くん、それからもこちゃんと一緒に第二防衛学園の食堂の冷蔵庫の中で増殖してしまった羊羹を食べ続けていたところだったから、馴染みのないその声に意識だけを無理矢理引き摺り出されて、どっちが現実でどっちが夢なのか分からなくなる。
羊羹は食べても食べても減らなくて、くららちゃんは物凄くイライラしていた。なんでも狂死香ちゃんが外で羊羹を拾ってきて、冷蔵庫に入れておいたせいだったんだって。「野良の羊羹なんか放っておきなさいよ!」って怒るくららちゃんに、狂死香ちゃんは「面目ないでござる……雨の中一匹でいたのがあまりにも哀れで放っておけなんだ……」と小さくなっていていた。「食べきらないと他の食材が入らなくて腐っちゃうから、みんなで頑張ろう!」って私達を鼓舞していたのは希ちゃんで、面影くんは「カワイイみんなの胃が荒れたら困っちゃうからね」ってお薬をくれた(本当にちゃんとした胃薬だった)。もこちゃんが「やーん! こんなに食べたらアタイ、太っちゃうかも! こうなったら、食べ終わったらみんなでトレーニングよー!」って、私達の誰よりも食べ進めてくれた。もこちゃんの形をした羊羹のトンネルができたくらいに。NIGOUが私達の後ろでチアのポンポンを持って「みんなー! 頑張ってー! フレー、フレー! みんな!」って応援してくれた。その声や表情まで、どこまでも鮮明。
――だけど、そっちが全部夢なのだ。
浅い眠りから目覚めたばかりのぼやけた目で、自分が今いる場所を確かめる。白いシーツと、壁に沿って走る剥き出しの配管。天井からぶら下がるペンダントライトと、ゆるゆると回り続けるシーリングファン。書き物をするためのデスクに、ローテーブルとソファ。ガラス張りの浴室と、扉の傍に設置された洗面台。私達が一昨日まで過ごしていた第二防衛学園の部屋とほとんど同じだけれど、どこかがはっきりと違う。空気のにおい。光の彩度。それから湿度。そういうところ。
ヘッドボードの方にはロールカーテンの下りた窓があって、その僅かな隙間からは清かな光が差し込んでいた。――朝だ、と思った。アナウンスが鳴っているってことは、きっと七時。いつもより遅くなっちゃったな、とも。
「最終防衛学園三十日目の朝になりましたー!」
わー! ついに三十日目に到達だねー!
モニターから続けられる、どこか暢気な声に、時間をかけて上体を起こす。
聞き慣れない声、ではあった。だけど、初めて聞いたっていうと語弊がある。だって昨晩も、モニターにこの声の主はその姿を見せていたから。
白くて小さな身体。脳みその透けた頭には赤いベレー帽の代わりにピカピカのメダルが輝くシルクハットが乗っていて、昨晩は見えていたはずの心臓を模した赤いハートは、今はスーツで隠されている。三十日目だからなのかな。それともこっちがデフォルトで、昨晩の方がレアなのかな。ここに来たばかりの私達には、分からないことが、まだまだたくさんある。
最終防衛学園の責任者で、私達の司令官で、NIGOUの上官――SIREIさんはスーツ姿にシャンパングラスを傾けて、「というわけで、記念に新しい教室がオープンするよ!」と続けた。校舎一階に工作作業室、二階に生物薬品室でーす、って言葉を、まだどこかふわふわした脳で反芻する。くららちゃんと面影くんが喜んでそうだな、って考えながら。
「いつも通り、活用方法は来た時に本官が説明するね! みんなのお越しを待ってまーす!」
その直後、モニターはブツリと音を立てて暗転した。反射する室内に、ぼさぼさの髪でベッドに座る私が映っている。いつも通り、来た時に。そんな言葉が、耳にぺったりと張り付いていた。
――録画なんだろうね。
昨晩、就寝時間を報せるアナウンス映像を見てそう言ったのは、面影くんだ。
昨日のことを思い出しながら、ベッドから足を下ろす。今朝は、改めてみんなで食堂に集まろうってことになっていたのだ。支度をして向かわなければと思うけれど、蓄積した身体の怠さは、一日眠ったくらいでは治らない。
「……ろくが」
「そう、録画。きっと今のは予め準備しておいた映像だろうね。……澄野君が言うには、こっちの司令官はとうに何者かに破壊されてしまったそうだし」
だから、今あそこに映ったのは生前の姿だ。
夜、最低限の灯りのみを残した食堂で、面影くんは天井から吊下げられた、既に沈黙しているモニターを指差してそう続けた。
面影くんの長く整えられた爪の先を見ながら、何と答えたら良いか分からずに小さく頷く。実際、SIREIさんの姿はこの学園のどこにもなかった。戦場にも、作戦室にも、食堂にも。だから面影くんの言う通り、さっきの就寝時間を報せるアナウンスは録画しておいた映像なのだろう。
SIREIさん、NIGOUとそっくりだったね、って、心の中だけで思うに留めたのは、過去形で語ることになるのが、辛かったからだ。司令官を失ったのは、澄野くん達だけじゃない。私達は未だ、誰もあの時の話をしない。NIGOUのことを、口の端にも上らせない。きっと誰も、あのことを昇華できていない。
二十三時。今、この最終防衛学園の食堂には、第二防衛学園からやって来た私達五人を除いて人の気配はなかった。澄野くんも、彼の仲間である他のみんなも、数時間前には屋上にある自分達の部屋へと引き上げていったのだ。空飛ぶ部隊長が率いていた侵校生達との死闘の後、久しぶりの食事を終えて(最終防衛学園のみんなにとっては、実に五日ぶりのまともな食事だったらしい。私達が持ってきた食糧を、彼らはほとんど感極まった様子で食べていた。一日缶詰一個で慎ましく暮らしていたって言うなら、それも当たり前だ)一先ず今日は身体を休めようと解散はしたものの、私達だけがこうして再び集まっている。今後のことを考えたら今日のうちに最終防衛学園の校舎の中を見ておいたほうがいいんじゃないかって、面影くんと希ちゃんの提案で。
澄野くんが言っていた通り、最終防衛学園と第二防衛学園の校舎はびっくりするくらいそっくりだった。壁とか天井の色が、ところどころで若干違うくらいだろうか。第二防衛学園にはなかった室内プールとか訓練室、ガレージに図書室、娯楽室なんてものまであったのには流石に驚いたけれど。でも、いちいち羨んだりする体力は私達には残されていなかった。「わあ」だの「すごいね」だの「うちの書斎と比べたら猫の額みたいなものだわ」だの「待つでござる! 奥の暖簾、あれは十八禁コーナーではござらんか……!?」だのぼやき合いながら、疲労しきった身体を引き摺って、最終的にはいつも私達がそうしていたみたいに、食堂に腰を落ち着かせていた。……ここは私達の暮らしていた第二防衛学園じゃなかったのにね。
静かな夜だった。昼間、校舎の外であんな戦いを繰り広げたなんて想像もできないくらいに。それでも身体に残る倦怠感と疲労だけは私達が二日に渡る死線を乗り越えたことを如実に表していて、私はつい、「あ~……」って情けない声を漏らしながらテーブルに突っ伏してしまう。
「…………ちょっと疲れちゃったね?」
私を気遣うような希ちゃんの声に、「疲れちゃった……」って、小さく答えた。
ずっと気を張っていた。昨日の朝、第二防衛学園で数日の眠りについていた澄野くんが目を覚ましたって聞いたときから。突然襲撃してきた部隊長と戦っているときも、彼(と呼称して良いのかは判然としないけれど)にトドメを刺さなくてはならなくなったときも、ミイラみたいになってしまったその身体を見たときも。NIGOU曰く「規格外」で、「とんでもない強さ」の部隊長が現れたときも、勿論そう。NIGOUと第二防衛学園を置いて逃げなくちゃいけなかったときも、爆発音を背に、粉塵に塗れながらバスに揺られている間も。最終防衛学園に到着して早々に戦わなければいけなかったときも。澄野くんの仲間達と顔を合わせてからも。食事をしていたときや、私達の事情を彼らに話していたときすらも。ずっと。
「……ていうかこっちの連中は一体どうなってるの?」
彼らのことを思いだしかけたとき、はっきりとした物言いでほとんど吐き捨てるように言ったのは、くららちゃんだった。
「司令官は殺されて……雫原だっけ? その後リーダーになったヤツも行方不明。冷蔵庫を火事にして食糧は消失するわ、食糧を探しに行って嵐に巻き込まれて迷子になる童貞はいるわ……。で、挙げ句の果てに今日の戦いぶりでしょ? ……ちょっと危機感が足りないんじゃないの?」
「そんなことはないんじゃないかな……」って希ちゃんは彼らを庇うけれど、面影くんも、狂死香ちゃんも、否定はしない。今日の戦いを思い出すように、じっと黙りこんでいる。
卵を産み落とす部隊長は悠々と空を飛んでいて、そのために最終防衛学園のみんなは苦戦を強いられていた。私達が到着するまで、誰の学生兵器も、高度が足りなくて部隊長を撃ち落とすどころか傷一つつけられずにいたんだって。そこで活躍したのが、くららちゃんの地対空防衛砲だ。くららちゃんは突貫で巨大な砲台を作り上げると、空飛ぶ部隊長目掛けて大砲を撃ち込んだ。まともに弾を受けた部隊長は即死は免れたもののたまらずに降下。地面に落ちてしまえば、後はこちらのものだった。そうして総攻撃を仕掛けた後、弱って人型へと姿を変えた部隊長にトドメを刺したのだ。部隊長の首を切ったのは、最終防衛学園の、青い髪の女の子――飴宮さんだった。
でも、もしくららちゃんがいなかったら、一方的にやられておしまいだったのではないだろうか。
「…………くららちゃんがいてくれて良かった。そうじゃなかったら、文字通り手も足も出なかったもん……」
顔を上げてそう言えば、くららちゃんは「でしょ?」って、私を見る。
「なのにあのふにゃちんメガネ、勝てたのは澄野のおかげとかぬかしたのよ? 何をどう見たらそうなるのよ。アイツ、メガネの度が合ってないんじゃないの? 今日の戦いを無事に切り抜けられたのは、どう考えてもアタシのおかげじゃない……! アタシ達がいなきゃ勝てなかったくせに……」
「ふ、ふにゃちんメガネ……」
「絶対ふにゃちんでしょあいつ。大事なとこの硬度が足りませんって顔に書いてあるわよ!」
「高度?」
「……こら。くららちゃんもちゃんも、女の子がはしたないよ?」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
「……だけど実際、くららちゃんがいなかったら彼らはどう戦うつもりだったんだろうね?」
「なんともにんとも、敵に攻撃が届かなければどうする術もないでござる。……ね? 聖十文字刀もそう思うよね? ……え? 拙者に怪我がなくてよかった? も、もう、だめでござるよ、みんながいるんだから……」
「ちょっと、そういう変態的自慰行為は部屋でやってくれない?」
「え!? ち、違うよ、これはそういうんじゃないってばぁ!」
「……でも、だからこそ本当に危ないところだったよね。私達が間に合って良かった……」
希ちゃんの声に、私達は再び口を閉ざす。
私達が第二防衛学園から大量に持ってきた食糧を冷やす、冷蔵庫の音(一度火事にはあったものの、修理したらしい。それはそれですごいなって思う)、巨大水槽のサーキュレーター音。静寂を塗り潰すのは、馴染みのあるそれだ。今はスリープモードになっている自動調理マシーンも、私達が何かを頼めばあっという間に調理を始めてくれる。壁とか床、天井の色がほんの少し違うだけ。もこちゃんとNIGOUが、どこを探してもいないだけ。
それだけで、何だかものすごく遠いところに来てしまったように思えるのだ。
私達は、じっと黙っていた。思うところは、きっと、もっとあったのだけど。最終防衛学園の彼らの戦いぶりだけじゃなくて、一人一人の戦いに対する向き合い方とか考え方に、私達とはっきりとした温度差があることについてとか。
戦うことのなかった三人について。とか。
自分の中に粘ついた塊が生まれた気がして、つい、「…………防衛室の前の炎、すごかったね」って、さっきみんなで確かめた、紫の炎のことを口にした。どういう原理なのか、炎は室内にも拘わらず、防衛室を守るように燃えさかっていた。あの向こうには、本当に何かがあるらしかった。第二防衛学園とは違って。
「うん、学園の周りにある炎と同じだったね。あの消えない炎のことは、明日また改めてみんなに教えてもらおうか」
希ちゃんがいつも通りの口調で答えてくれたのに頷いて、私は自分の胸の内側がたいらになるように、ささくれた部分を必死で手で押さえている。「彼ら」に引き摺り出されかけた十年前の私を、遠ざけようとしている。
与えられた自室へと戻る途中、くららちゃんが私にだけ聞こえるような声で呟いた、「この状況で他人に全てを押し付けて戦わない選択肢を持とうと思うこと自体、どうかしてるって思わない?」って言葉に、私はやっぱりくららちゃんにしか聞こえないような声で、「うん」って言ったのだけど、自分で口にしたその二文字は、澱のように私の中に沈殿していったように思えて、紛らわすように、咳払いを一つした。
温い夜風が肌を撫でていた。夜空の下、フェンスの向こうに揺らめく紫色の炎が、どうしてか、酷くきれいなものに見えた。
支度を調えて外に出た。最終防衛学園の朝は、第二防衛学園のそれよりも生きた人間の気配が濃い。
私の部屋は、空いていた数部屋の最奥。人数分の空き部屋があったってことは、やっぱり私達の合流は予め見越してあったものだったということらしい。私の部屋から空き部屋を一つ挟んで、面影くん、狂死香ちゃん、くららちゃん、それから希ちゃん、その先に最終防衛学園の人達が三人、って続いている(面影くんの部屋との間に一つ部屋を空けたのは、いつか戻ってくるかもしれないもこちゃんのためだ。ほとんど願掛けのようなもの。最終防衛学園の存在は知っていても、場所どころか名称すら知らないもこちゃんが合流できる可能性は第二防衛学園にいたときよりずっと低くなってしまったってことはわかっていたけれど、それでも何もせずにいることはできなかった)。校舎の正面側には残った最終防衛学園の人達の部屋があって、こうしてみると、随分大所帯だ。後からやって来た私達が、異物に思えるくらい。
みんなはもう行ってしまったのだろうか。それぞれの部屋の、閉ざされた扉を視界の端で確かめながら、小走りで通路を駆けていたときだ。みんなの部屋のさらに奥にあった部屋から、二人組の男女が出てきたのは。
しまった、って、反射的に思った。
「――あれ?」
私の存在を認めた男の子の方が微かに笑ってそう口にした瞬間、息が止まりそうになる。
華のある、とびきり美しい顔をした二人だった。二人とも赤を基調とした学ランとセーラー服を着ていて、まだどこか幼さの残る目を縁取る睫毛は長い。名前は、九十九今馬くんと、九十九過子ちゃん。二人は双子で――兄妹だ。
昨日の戦いでは、彼らともう一人、銀崎くん、っていう小柄な男の子が戦闘に出ていなかった。あんな状況で、他人に全てを任せ、戦わないって選択をした。――昨晩のくららちゃんの言葉が、どうしたって頭を過ぎる。だけど本当の意味で私の頭を埋め尽くすのは、私だけが抱えている、その奥にあるものだ。視界が緩く明滅する。どうしてだろう。今までは平気だったのに。東京団地から離れた今だからこそ、だからなのだろうか。今の私から、遠く切り離された無数の欠片たち。薄い影。別の手。何か一つでも間違えていたら、そう考えると、自分がここにいること自体が間違っているような気になる。
肩のあたりで切り揃えられた暗い色の髪を揺らしながら、今馬くんは私の顔を見て微かに首を傾げた。その奥に、私を見つめる少女の姿がある。細められた今馬くんの目。戦わなかった人。私の動揺を知ってか知らずか、彼は「――第二の助っ人の人じゃないっすか」って、殊更明るい声で、言う。些か大仰にも聞こえるくらいの声量で。
「えーっと……名前、なんでしたっけ?」
「……先輩、だよ、お兄ちゃん……」
「あー、そうそう、先輩だったっすね。覚えてるなんて、さっすが妹ちゃん!」
頭がぐるぐるする。くららちゃんが言うように、昨日の戦いを経て思うところがあったのは嘘じゃなかったから。そもそも人見知りだから。私が知らんぷりして隠しているものを引き摺りだされそうになるから。そういうのを見透かしてわざと意地悪をされているのか、何の他意もないのか――それを推し量るには、私は彼のことを知らなすぎる。
「先輩」
影を、踏まれた。
「第二の人らが他にいないんなら、食堂、自分らと一緒に行きます?」
もしもその時過子ちゃんが「お兄ちゃん、先輩、困ってるよ」って言ってくれなければ。或いは後ろから「ちゃん?」って、面影くんが声をかけてくれることがなければ。
私は本当に、わあって叫んで逃げ出してしまっていても、おかしくなかった。