最終防衛学園まではスクールバスでも一日くらいかかる。そうNIGOUから聞いていたから、太陽が真上に差し掛かるか差し掛からないかの頃、澄野くんが「……あれ?」って声をあげた時、まさかその後に「もう学園まで結構近いかもしれない」って言葉が続くとは想定していなくて、思わず「えっ」って声を漏らしてしまった。
昨日第二防衛学園を出たのが夕方近かったから、なんとなく、最終防衛学園に着くのはもうちょっと先だろうと思いこんでいたのだ。でも、みんなからしたら数時間なんて誤差の範囲内だったらしい。いい加減待ちくたびれたといった様子で、澄野くんの後ろの席に座っていたくららちゃんは盛大なため息を吐いた。
「やっと着くのね。そろそろこのオンボロバスに嫌気が差してたのよ。高貴なアタシには合わないのよね。身体が痛いったらないわ」
「うむ……。駕籠での旅路もこれほど長いとなかなか堪えるでござるな……。駕籠の担い手もこんなに長く走っていれば草臥れたであろう。後で礼を言わねばあるまい」
「お礼を言う相手はいないかもしれないけど……でも、本当にちょっと遠かったね」
「も、もう着いちゃうんだ……!? どど、どうしよう、心の準備ができてない……!」
くららちゃんや狂死香ちゃん、希ちゃんの反応に対して私の言動がおかしかったのか、隣に座ったままの面影くんがほとんど吐息だけの笑みを零すから、私はちょっと「う」って声を漏らしてから、彼から視線を逸らした(面影くんは、結局みんなが起きた後もずっと私の隣の席を陣取っていた。目を覚まして、その状況に気がついたくららちゃんが「……。アンタ、嫌な時は嫌って言っていいのよ?」って同情したような声色で言ってくれたけれど、私自身は隣に面影くんがいることに関してドキドキして緊張するってだけで、嫌ってことはなかったから、「嫌じゃないよ!」って首を振った。実際隣に人が座っていてくれる方が、気軽に会話ができる分、気が紛れて良かったのだ)。
「ほら、あの辺に紫色の炎が見えるだろ?」
澄野くんの言葉に、窓の外に視線を向ける。
傾いたビル群の向こう側のさらに先。随分遠くではあったけれど、澄野くんの言う通り、その「炎」は遥か上空へと立ち上がって、揺らめくというよりはほとんど壁のようにそびえ立っている。侵校生どころかバスの行く手まで阻もうとしているようにすら見えるそれには、一切の隙間がない。本当に、文字通りの炎の壁だった。
現実のものとは思えない光景に思わず息を飲む。隣の面影くんが窓の外を見ようとしたのか、こちら側に身を乗り出して「へえ……本当に炎そのものなんだね。すごいなぁ。一体何がどういう原理で燃えているんだろう。炎色反応から考えればカリウムだけど」とか言うものだから、二重に息を飲む羽目になってしまったけれど。目の前に面影くんの傾いた頭、その旋毛があって、どぎまぎして、「面影くん、ち、ちかいよ……!」ともごもご言ったら、「うふふ、ちゃん、照れちゃってるの? カワイイなぁ……」って笑われて、今度こそ息が止まりそうになった。本当に、「嫌」ではないけど、困る。
「でも、何なのよあの炎……一体どうなってるの……?」
「ま、まるでウォール・マリアでござる……!」
「……最終防衛学園はあの炎の向こうにあるってこと?」
「あ、ああ。そうなんだ」
希ちゃんに尋ねられて、澄野くんの声が微かに上擦る。
「知り合いの女の子」とは人違いだったって認めた後でも、やっぱり彼は希ちゃんを意識してしまっているみたいだ。それが表情や声のトーンでもなんとなく察せられてしまうから、希ちゃんも、どうしても警戒心が拭いきれないらしい。くららちゃんが「希に話しかけられたからってどもってんじゃないわよ童貞!」と茶々を入れるせいもあるんだろうけれど。通路を挟んで反対側の、一つ前の席に座っている希ちゃんの表情を面影くんの身体越しに窺うと、彼女は困惑したような目で、前の方の座席に座っている澄野くんを見ていた。
それにつられて、私も彼の方を見る。彼は椅子に腰を下ろしたまま身を捻って、私達全員の顔を見渡しながら続ける。
「……あの『消えない炎』が、侵校生が簡単には侵入できないよう、最終防衛学園をぐるっと取り囲んでいるんだよ。……って言っても、侵校生側にも何か炎を突破する手段があるみたいで、完全な防御壁とまではいかないみたいなんだけど……」
だけど、確かにあれだけの炎が燃えさかっていれば、侵入なんてそう容易くはないだろう。そう思うと、第二防衛学園って無防備だったんだなあ、って改めて実感してしまう。私達が本当に守らなければならない大切なものは最終防衛学園にあって、私達は囮だった、っていうのも頷ける話だ。……そんな風に思うと、なんだかちょっと、胸にくるものがあるけれど。
でもあの炎の壁が学園の周囲を完全に取り囲んでいるなら、じゃあ、澄野くんはどうやってあの学園から外に出てきたんだろう?……言い換えるなら、私達はどうやって学園に入ればいいんだろう。抜け道があるのか、それとも何か他に方法があるのだろうか。
不意に浮かんだその疑問を口にしようとしたときだ。「ところで、あれはなんでござるか?」って、後部座席の方に座っていた狂死香ちゃんが窓の向こう、バスの進行方向にある炎のさらに上を指差したのは。
「…………え?」
その先には、学園の上空をゆっくり旋回するように浮遊していた丸い物体があった。飛行船のように、丸みを帯びたそれはくるくると、学園の上を大きく弧を描き飛んでいる。
私は最初、それもまた、最終防衛学園の防衛システムの一つなのかと思った。空から周囲を警戒して、侵校生を発見次第迎撃するような。だけど澄野くんの口にした、「なんだあれ……?」という言葉に、その想像が全くの見当違いであったどころか、正反対のものだと察してしまう。
希ちゃんの口の端から、「侵校生?」と言葉が漏れた。遠く離れたバスからでも判別できる大きさ。そこから際限なく地面へと産み落とされる、卵のようなもの。その頭上にあるのは、昨日倒した部隊長も冠していた、赤い光輪――。
「――部隊長だ」
空気の抜けたすかすかの声が、私の周囲を埋めていく。
最終防衛学園の空は青く、適当に指で千切ったようなばらばらの大きさの雲があちこちに散らばっていた。その空の下、炎の壁の向こう側で大きく旋回しながら卵を産み落とし続ける丸みを帯びた物体は、近づけば近づくほどに異形のものとしてそこに存在していた。昨日の、両手足に鎌を携えた部隊長のように。
「最終防衛学園も戦いの真っ最中……ってわけ?」
くららちゃんの言葉に、どうしても息が詰まる。怖くなってしまう。ああ、また戦わなくちゃいけないんだ、って、底のない沼に足を取られたような気になる。昨日あんなことがあったばかりなのに。私達は第二防衛学園を、NIGOUを失ったばかりなのに。一難去って、どころの話じゃない。終わりが見えないのだ。侵校生や、部隊長との戦いが。
でも、今あの空の下で、澄野くんの、いや、私達の仲間は必死で戦っているのだろう。東京団地の人達を、人類を守る為に。命をかけて、武器を持って。だったら私も、戦わないわけにはいかない。
細く息を吐いて、懐に入れていた我駆力刀を服の上から確かめるように触れた。戦わなきゃ、って思った。私のまなうらには、さっき見た夢の光景がありありと蘇っていた。やわらかな手触りや温度、においを伴って。お母さんと、お父さん。お腹の中の「妹」。溶けてしまったかき氷と、からころ鳴る下駄の音。
帰りたい、って思える場所があることは幸運だ。大好きな人達を思い出せば、それで力は湧いてくるんだから。それでもその意思とは反対に、手はどうしようもなく震えて、膝の上で両手を握った。瞼には、どうしても消せない昨日の光景があった。部隊長の、私に向けた明確な殺意は、一朝一夕では拭いきれるものではなかったのだ。
そこに落ちる、私のものよりも一回り大きな手が作る薄い影。
重ねられるまで、私はそれに気がつかなかった。
少し冷たいその指は、私の手の甲の、一際ごつごつした骨の部分をなぞる。思わず閉じていた目を開けた。少し伸びた、けれどきちんと形の整えられた爪が、気遣うように私のことを撫でていた。びっくりして、彼の方を見る。窓から差し込んだ光に、眩しそうに細められた瞳。睫毛の先に乗ったやわい光の粒。
彼は何も言わなかった。何も言わずに、私の手の上から自分の手を重ねて、緩く握った。バスの、丁度真ん中くらいの座席だった。通路を挟んだ一つ前の席には希ちゃんがいるのに、内緒話でもするみたいに、安心させようとしてくれているみたいに、面影くんは私の手に触れていた。
大丈夫、って言うみたいに。
泣きそうだったなんて言ったら、また、笑う?
「……悪い、みんな。到着早々、力を貸してもらうことになるかもしれない」
澄野くんの声が、膜の外側から聞こえてくる。
それでも彼は、やっぱり光って見えた。正しく。真っ直ぐに、歪みも欠けもないままに。なのに、汚れることも厭わずに。そっと目を眇める。視界の真ん中の澄野くんは、どこまでも薄く発光したまま。
記憶の中にこびり付いた影に祈るように、もちろん、と思った。やるよ、って。特防隊の一員として、武器を取って戦うよ、って。そう思えたのは、こうして手を繋いでくれる人がいるからだ。そろりと隣の面影くんに目線を送ったら、目が合って、それだけで、本当になんでもできる気がした。
私達は最終防衛学園へと到着しようとしていた。私達が残りの七十日あまりを守ることになる、炎に包まれた学園に。
私達が東京団地を離れて、二十九日目のことだった。