何が起こったのか、わからなかった。
「それ」は突然現れた。部隊長を倒した私達が武器を下ろし、パーティのために学園へと戻ろうとするその背に、誰にも気付かれることなく、たった一人で立っていた。
その気配を察して振り向いたときには、耳馴染みのない言語が朗々と一帯に響いていた。その声のトーンと体つきから察するに、それは女性を模しているようだった。仰々しい装備に包まれたその身体、首から上は、さっきの部隊長のように奇妙な装飾で覆われていた。赤く光る右目部分は、真っ直ぐ私達を見ていた。
――別の部隊長だ。
私達がそれに気がついたときには、もう遅かった。
親指で自身の首元を掻き切ったそいつは、首から噴き出した大量の血に守られるように身体を包まれて、やがて、その姿を変えたのだ。全身を仰々しくも禍々しい鎧に包まれた、巨大な騎士の姿に。
我駆力刀を自身に突き刺して戦う力を得る、私達そっくりだった。だけどそれを口にする余裕も、深く考える時間も、あるわけない。だって私達は疲弊しきっていた。全員、ボロボロだった。立っているのがやっとだったのだ。
どうしてこんな時に、と思ったこと。姿を変えたその部隊長が(そもそも人型が元々の姿なのか、化物じみたこれがそうなのかは分からないけれど)私達の背丈か、ひょっとしたらそれ以上あるようにも見える巨大な赤い剣を携えていたこと。その背に、黒い翼のようなものが広がっていたこと。NIGOUがその反応に息を飲んで、「……規格外だ。とんでもない強さだよ!」と叫んだこと。全部覚えている。
さっきの部隊長と違って、私達の必死の攻撃がちっとも効かなかったことも。そいつの一振りで、私達全員が赤子の手を捻るよりも簡単に切り伏せられたことも。地面に這いつくばる私達に見向きもせず、その部隊長はバリア装置を容易く破壊して、悠々と校舎に入っていったことも。「絶望」を与えるには余りある強さだった。私達の間には、圧倒的な差があった。
六人分の血溜まりの中で、その背を見ていた。死体回収用のドローンが飛んでこないこと、隣にいた希ちゃんが呻きながらも起き上がろうとしているのが見えたのが、私達全員が生きていることの証だったのに、それでも絶望してしまう。どうしよう、と、朦朧とした頭で考える。どうしたらいいの、って。
致命傷ではなくても、その一歩手前。無理をすれば立ち上がって、その背を追えたかもしれない。だけど、できなかった。私達の心は完全に折れてしまっていた。全員でかかってもあいつに傷一つ負わせることのできなかった時点で、「勝てるわけがない」って判を押されたのも同然だったから。
「な、なんだよあいつ……まるで……刃が立たない……」
部隊長との交戦という意味では私達よりも余程場数を踏んでいるはずの澄野くんですら、その表情や言葉に動揺の色は拭えなかった。さっき部隊長の力を吸収した面影くんも、いつも自信に満ちたくららちゃんも、弱音なんか滅多に吐かない狂死香ちゃんも。私だってそうだ。どうしたら良いのか、皆目見当もつかない。突然現れた強大な敵を前に、選択肢を失っている。
力の差は歴然だった。さっきの部隊長とは、格が違う。アレを倒すヴィジョンなんて、誰も持っていなかった。全員でかかっても足止めすらできない相手に、一体どうやって立ち向かえば良いのか。喉のあたりが気持ち悪くて、咳き込んだら、血の塊が零れた。学生鎧の下の、あいつに刻まれた刀傷からどんどん血が滲む。このままじゃ、ドローンのお世話になるのも時間の問題なのかもしれない。だけどあいつに侵入されてしまった以上、保健室だっていつまで無事かはわからない。勿論、防衛室だって――。
その時だった。パン、パン、って、数発の乾いた音がしたのは。
身体が薄い光の膜に包まれて、微かな熱を持った。刀傷は、浅いものから順々に癒えていく。覚えのある感覚に顔を上げると、思った通り、希ちゃんの人工学生兵器である銃から燻るような煙が出ていた。
彼女は私達全員の怪我を治した後、最後にその銃口を自分に向けると、唇と目をぎゅっと閉じてからその引き金を引く。傷を癒すその弾丸が薄い膜を張るのを見ながら、「希ちゃん」、と、その名前を呼ぶ。でも希ちゃんは、私の声なんか聞こえていないみたいだった。自分の怪我が治ったのを確認すると、すぐに、その震える足で立ちあがった。「止めないと……」と、震える声で呟きながら。
「あいつを止めないと……!」
希ちゃんのおかげで、私達の怪我は癒えた。追いかける足も、戦うための武器もあった。それでも私達は動けない。希ちゃん一人を除いて、皮膚から根が伸びたように、その場に蹲っている。
立ち上がり、破壊された玄関ホールへと向かおうとする希ちゃんを、「待て、無茶だ……!」って引き止めたのは、澄野くんだった。あんなやつに敵いっこない、それに、キミは死んでしまったら蘇生できないんだろ、って。
「でも、防衛室の中のものを奪われたら、人類が……!」
人類は、終わってしまう。
希ちゃんの言う通りだった。だけど、勝ち目のない相手にこれ以上どうしたら良いのか、私にはわからない。
「でも、だからってどうしたらいいの……?」
どうやったら、人類を守れるの。
弱々しい声が口の端から漏れる。例え蘇生を繰り返したところで、あいつに傷一つ負わせられないのでは意味が無い。あいつはいずれ、防衛室に辿り着く。
作戦室のNIGOUから「みんな、大丈夫!?」と通信が入ったのはその時だった。「なんとかにんとか……生きてはいるでござるが……」。狂死香ちゃんの声には、いつもの芯がないみたいだった。そう、私達は、なんとか生きている。だけど、戦えるか、って言われたら、答えに窮する。
勿論、戦わなくてはいけないのだ、選ばれた私達は。東京団地には、家族も、友達もいる。守らなければならなかった。みんなだって、きっとそうだ。だけどこの状況で、どうしたらいいのかわからない。このままでは防衛室に侵入されて、全てが終わる。
澄野くんが、何か方法はないのか、どうすればいいのか、NIGOUに尋ねるのを、黙って聞いていた。NIGOUが出してくれるかもしれない作戦が、NIGOUの隠し持っているかもしれない奥の手が、最後の希望だったから。
だけど、沈黙の後、NIGOUは言った。
「……逃げて」
って。
すぐには理解が出来なかった。たった三文字の言葉を聞き間違えたのかと思った。だけど、澄野くんの見開かれた目が、「……え?」って、空気の抜けたすかすかの声が、それを否定している。
――逃げて。
諦めろ、ってことなのだろうか。戦うのをやめて、人類を見捨てて、私達だけでも逃げろって? だけどNIGOUは続ける。そんなことできるわけない、人類を見捨てられない、って訴える希ちゃんを宥めるように。大丈夫だよ、って、言って。「だって、この防衛室の中には」。一つ一つ、確かめるように。
「…………何もないんだから」
NIGOUは、そう言った。
「バカ! そっちじゃないわよこっち! アンタ、金もなければ方向感覚もないの!?」
「ご、ごめん、外から駐車場、行ったことないから……!」
「喋ってる暇はないぞ! 急げ!!」
校庭から校舎脇を駆け抜ける。スクールバスの停められている駐車場に向かって、私達六人は必死で走る。
シャッターはNIGOUが遠隔で開けておいてくれたらしい。駐車場の灯りは点けっぱなしになっていて、さっき、私達が食糧をバスに詰め込んだときのまま、台車が放置されていた。奥の棚には、澄野くんを運んだ担架もある。思い出す。ここで起きたこと。重すぎて、一人じゃ運べなかった。面影くんがあれを代わりに持ってくれた。二人で持とうって提案は、却って持ちにくいって却下された。
時間はあまり残されていなかった。それ以上の感慨に耽る暇もなくバスに飛び込み、手近な椅子に、座るというよりもお尻を押し付ける。頬に張り付いた髪を払う余裕もなかった。息は切れていなかったのに、心臓が聞いた事もないくらい、酷い音を立てていた。
運転席には、誰も乗り込まない。そうじゃなくても、「勝手に動き出す」って、私達は知っていたから(NIGOUの話を理解できていなそうだった狂死香ちゃんを除いては)。
「NIGOU! 全員バスに乗った! 頼む!」
澄野くんの声に、作戦室のNIGOUはもう答えてはくれない。NIGOUの方からは、音声による通信を切ってあるのだ。それでも応じるようにバスは自動でエンジンがかかって、運転席は無人のまま、急発進した。身体を持って行かれそうになって、目を閉じる。駐車場を抜けて、シャッターを潜って、まっさらな空の下にバスは飛び出して行く。
私達は、NIGOUを置いて、第二防衛学園を捨てて、最終防衛学園へと向かう。
本官と第二防衛学園はここでお別れだと、NIGOUは言ったのだ。
みんな、どうか元気で、って。みんなならきっと、人類の平和を守れる、って。
最初からそういう作戦だった。私達の役割は囮で、第二防衛学園には守らなければならないものなんか何もなかった。私達も、第二防衛学園も、敵の戦力を分散させるために存在していただけだった。本当に守らなければならないものは最終防衛学園にあるんだって。それを聞いても誰も怒ったりしなかったのは、NIGOUがこんな状況なのに、あまりにも淡々と語っていたから。私達はそれを聞いていることしかできなかった。
この学園が陥落しかけたとき、私達を最終防衛学園に逃がすための手段。それがこのスクールバスだった。NIGOUが不在の場合に限り、第二防衛学園から最終防衛学園までのルートを自動運行するよう設定されていたスクールバス。それに乗って逃げろって、NIGOUは言った。自分は残って、囮としての役割を全うするから、って。
それを止める時間も、それ以外の手段がないことも、みんな、わかっていた。
内臓を揺さぶられるほどの爆発音が背中の方から聞こえたのは、その直後だ。
「……っ!」
人生において、経験したことのないような衝撃だった。爆音のライブ会場よりも、東京団地での花火大会よりも、ずっと大きな音の波。
前の席にくっついたシートグリップに、しこたま頭をぶつけてしまう。痛みに閉じられた私の瞼の裏を、いろんな思い出が蘇っていた。みんなで過ごした食堂、ごてごてした装飾の、趣味の悪い廊下、毎朝トレーニングをした。異種格闘技戦、って言葉を、私はここで初めて知った。陽の差し込む階段を、もこちゃんと、もこちゃんに背負われた希ちゃんと三人で駆け下りたこと。あのときの光。四台しかない洗濯機も、屋上から見える殺風景な光景も、雲の切れ端も、朝陽が照らしていた廃墟も、全部、全部、ちゃんと好きだった。
頭蓋骨も、心臓も、私を構成するありとあらゆるものが殴られたように痛くて、でも、悲鳴も泣き言も、言えるわけがなかった。窓の向こうは濁った煙に覆われて何も見えなかった。ただ、私達が傷一つつけることのできなかった部隊長ごと、NIGOUが第二防衛学園を爆破させたこと、私達がそこから遠ざかって、逃げ出したことだけは、確かだった。どれだけ身を捻って窓の外を見ても、もうもうと巻き起こる砂煙が全てを覆い尽くしている。誰かが鼻を啜った音がした。
泣いちゃだめだって思っていたのに、目の奥が熱くて、痛くて、たまらない。額をぶつけたグリップを両手で握って、手の甲に顔を押し付ける。皮膚はあっという間にべしょべしょになった。未だ続く轟音と、校舎が崩れる音、爆風に、私の嗚咽が全部飲み込まれてくれたら良かった。
三十日にも満たない日々だ。
十七年の人生において、たったそれだけ。
それでもNIGOUがあの日燃えさかる東京団地で私に我駆力刀をくれたから、いろんな話をしてくれたから、NIGOUの楽観的で明るいところに救われていたから、だからきっと、こんなおかしな状況でも笑っていられたのだ。
荒々しい自動運転のせいだろうか。NIGOUが、自分が運転するためにダッシュボードに準備していた地図が、気がついたら私の足元に落ちていた。警報に驚いて、悲鳴をあげながら運転席から転がり落ちたNIGOUを思い出していた。赤いベレー帽。黒豆みたいな目。ふっくらした唇。ちゅふふ、って笑う声。
私はあの子が好きだった。