澄野くんは体育館にやって来た希ちゃんの両手を何の逡巡もなく握って、「カルア」って呼んだ。無事だったんだな、なんでこんな所にいるんだよ、って、驚きに目を見開いている彼女に、必死に詰め寄るみたいに。
 何が起きているか、ちっとも分からなかった。だって、さっきまで、少なくとも私の目にはまともに映っていた男の子が突然初対面のはずの希ちゃんの手を取ったのだ。探索から戻って来て、目を覚ましていた澄野くんに気がついて「良かった。心配してたんだよ?」って優しく笑った希ちゃんの手を。縋り付くみたいに。それも、全然別の子の名前を口にして。
 もしかしたら二人は知り合いなのかもしれない。彼の表情があまりにも差し迫っていたために、状況を考えれば有り得ないとは思いつつも抱いてしまったそんな疑念も、希ちゃん自身が否定した。「いきなり……何するんですか?」って、他人を見るような目で彼女は言ったのだ。動揺しきった、他人行儀な声だった。振りほどいた手を自身の胸元に引き寄せた希ちゃんは、なおも彼女を「カルア」と呼ぶ澄野くんから距離を取るように、数歩後ずさる。



「そのカルアって……誰のことですか?」



 人違いだ、自分はカルアなんて名前じゃない。自分の名前は霧藤希だ、って。そう言って希ちゃんが説明しても、澄野くんは尚も食い下がる。「何言ってんだよ、どう見たってカルアじゃないか」って。声も一緒だ。自分がカルアを別の誰かと見間違えるはずがない。まるで希ちゃんではなく彼自身が追い詰められているような表情と、声で。
 ――どうしよう。
 第二防衛学園っていう、彼からしたら馴染みのない場所でも落ち着いて私達と話をしていた澄野くんだったからこそ、突然の変貌ぶりに動揺する。良い人そうだ、って思ったのは事実だけど、希ちゃんが困惑しきっている以上、今の澄野くんを庇うことはできない。希ちゃんか澄野くんか――そう言われれば、私は絶対に希ちゃんを選ぶのだから。
 ならば、私がすべきことは一つだ。
 勇気を出して「澄野くん、その子は本当にカルアさんって子じゃないよ」って助け船を出そうとした瞬間、けれど、「す」のあたりで傍にいた面影くんに制された。私自身怯えを全面に出していたつもりはなかったのに、面影くんにはそれが分かったって言うんだろうか。面影くんは何も言わなかった。ただ私を手で制したまま、じっと澄野くんの一挙手一投足を観察しているようだった。
 もしも狂死香ちゃんが自身の刀――聖十文字刀を彼の首元に突きつけなければ、強引に希ちゃんに詰め寄ったことに静かな怒りを湛えたくららちゃんが「やっちゃいなさい」と狂死香ちゃんを焚きつけなければ、混沌としかけたその状況をNIGOUが止めに入って、澄野くんに勘違いだと突きつけなければ、澄野くんは希ちゃんのことを、ずっと「カルア」だって譲らなかったかもしれない。



「…………っ!」



 澄野くんは、その眉根にぎゅっと力を寄せる。
 会ったことがあるだなんて言うのは悪徳スカウトの常套句だの、急に女の手を握るなんてその手に自分の汁をつけていたに違いないだの、くららちゃんに散々罵られ、NIGOUにも落ち着くよう説得された彼は、それでやっと引くことを選んだのだろう。長い沈黙の後、最終的には「……ごめん、ちょっとどうかしてた」と希ちゃんに向かって謝罪した。長い間気を失っていたのと、あんまりにも知り合いに似ていたものだから、って、素直に頭を下げて。
 あんなに取り乱すくらいだから、よっぽど希ちゃんと「カルアさん」って人は似ているらしい。顔だけじゃなく声まで同じだって言うなら、まだ本調子でない澄野くんが勘違いしてしまうのだってきっと仕方ない。彼にとって、よっぽど大事な女の子なのだ。その「カルアさん」っていう人は。そう思いながらも、こっそり胸を撫で下ろす。
 彼はもう希ちゃんに詰め寄るような真似はしなかったし、適切な距離をきちんと取っていた。くららちゃんと狂死香ちゃんがまだ澄野くんを警戒する中で、希ちゃんが「ビックリしたけど大丈夫、そんなに気にしないでいいよ」と微笑んだのに、だけど彼が苦しそうな顔をしていたのだけが、面影くんの背から見ていた私の目に焼き付いている。今も、ずっと。








 希ちゃんへの態度には驚かされたとは言え、事情が事情だ。それに、彼が「最終防衛学園」の特防隊員であることに間違いはない。
 NIGOUは澄野くんに、どうしてここに来たのか、最終防衛学園の方はどうなっているのかと尋ねた。NIGOUの上官であり、最終防衛学園の司令官を務めているSIREIさんとの間で取るはずだった定期連絡がずっと途絶えているせいで、私達は向こうがどうなっているのかを把握できていないのだ。
 だけど、どうして想像することができただろう。
 SIREIさんが学園生活の始まった三日目には行方不明になっていて、その後学園の外でバラバラになって見つかったこと。SIREIさんの不在を補うためにリーダーとなった雫原さんという女の子が、その後失踪してしまったこと。その上何故か食堂の巨大冷蔵庫が燃えて、ほとんど全ての食糧を消失したこと。そして澄野くんは食糧調達のために仲間と探索に出た際嵐に巻き込まれ意識を失い、今ここにいる――なんて、あまりにも壮絶すぎる。



「………………と、とんでもない目に遭ったんだね……」



 やっとの思いで絞り出した声は、掠れて私達の真ん中に落ちて行く。
 だって、そんなことあるだろうか? 踏んだり蹴ったりとか、散々とか、そういう言葉では彼の周囲で起きた惨状を表すには足りない。自分達をまとめてくれる存在が早々にいなくなって、仲間も行方不明(リーダーを引き受けてくれたっていうくらいだから、きっとその雫原さんっていう人も、もこちゃんみたいに頼りになる優しい女の子だったに違いない)。挙げ句の果てに食糧を全て失ったなんて。
 「君も殺っかいな修羅場をくぐってきたんだね……」と同情する面影くんに、澄野くんの仲間たちを「狂死香みたいに使えない貧民ばっかだったんでしょ」と貶すくららちゃん、引き合いに出されて「狂死香は使えるでござるよっ!」と慌てる狂死香ちゃん。「大変だったんだね。大丈夫?」と希ちゃんに心配されて、澄野くんはちょっと戸惑ったように目を逸らし、「ま、まぁ、なんとか」と頷いていた。そんな中で、言葉も発せずに固まっていたのはNIGOUだ。目を合わせるためにしゃがんで、NIGOUの顔の前で緩く手を振る。



「お、おーい、NIGOU、大丈夫……?」

「殺れ殺れ……ショックのあまりフリーズしちゃったかな?」

「起きなさいよ! このポンコツコロ助! リサイクルショップに売り捨てるわよっ!」



 ゴム鞠みたいにくららちゃんに乱暴に叩かれて、それでNIGOUは正気を取り戻した。「……そんな……SIREI閣下が、バラバラに……?」そう途切れ途切れに呟いて、ようやく脳に染みこんだのだろう。NIGOUはなんで、と叫ぶと、わあっと泣きだした。悲痛な声だった。私達にとっては知らない人でも、NIGOUからしたら、きっと尊敬していた上官だったのだろう。見ていられなくて、「……でも、ほんとになんで? 学園の外でバラバラになって見つかったってことは、SIREIさん、わざわざ外に出たってこと?」と、NIGOUの帽子のあたりを撫でながら尋ねる。



「いや、それはどうだろうね。学園の中だって、安全ってわけじゃないんじゃない?」

「えっ」

「うん……。学園内に、侵校生が忍び込んだんじゃないかな……」

「多分……。ていうか、それしか考えられない」

「そ、そんな……」



 冷静な面影くん、希ちゃん、それから澄野くんの言葉に、ぞわぞわと背筋が粟立つ。でも、そっか。そういうこともあり得るのか。作戦室にある学園の防衛システムと、周囲の監視をしてくれているNIGOUに全幅の信頼を寄せていたけれど、どんなシステムにもどこか穴はある。きっとSIREIさんは、その穴を突いて侵入した侵校生に連れ去られ、それでバラバラにされて捨てられてしまったのだ。そしてそれは、もしかしたら私達の第二防衛学園でも起こりえたことだったのかもしれない。
 何だか怖くなって、ついしゃがみこんだまま、今も泣き喚いているNIGOUを抱きかかえる。NIGOUが空飛ぶ侵校生に浚われかけたのを思い出してしまったのだ。あんまりにも落ち着かなかったから、「SIREI閣下―!」ってわあわあと泣くNIGOUに「いつまで泣いてんのよ、脳ミソ初期化するわよ!」と怒鳴りつける通常運転のくららちゃんに、心のどこかで救われたような気になった。
 澄野くん曰く、学園生活が始まって三日目にはSIREIさんは姿を現さなかったらしい。その時は、まさかSIREIさんが破壊されているなんて想像もしていなかったそうだ。私達で置き換えると、どうだったろう。確か、二日目に初めての防衛戦があって、私達はその後にNIGOUから「世界死」のことを聞かされていたはずだ。どうして私達が選ばれたのかまでは分からなかったけれど、私達が戦わなければ人類の未来がないって知って、それで、三日目の朝からトレーニングを始めた。
 もしもそのタイミングでNIGOUがいなくなっていたら。そう考えるとぞっとする。状況はある程度理解していた段階だったとは言え、それでも司令官の不在は私達を混乱に陥らせたに違いない。それに、もし保健室を直せるNIGOUがいなければ、もこちゃんが連れ去られてしまったあの戦いで、くららちゃんや狂死香ちゃん、面影くんは命を落としたままだった。
 血の気が引いてしまって、すすり泣きに変わったNIGOUを抱きしめる腕に力を込める。「うっ……、さん、苦しい……!」と言われ、「わ、ご、ごめん、つい……」って、慌ててNIGOUを床に下ろした。NIGOUの程よい重さが消えて、なんだか心許なかった。










 結論から言うと、澄野くんは「世界死」のことを知らなかった。SIREIさんは、最終防衛学園の皆に詳しい事情を話す前にいなくなってしまったのだ。
 だったらNIGOUが話してあげたらいいのに、と思ったけれど、NIGOUの上官であるSIREIさんが彼らに説明をしていない以上、代わりとしてNIGOUが情報を漏らすというのは御法度らしい。上官命令は絶対で、例え上官が命を落としていてもその効力は持続するんだって。つい最近まで一般人として生活していたから、そういう規則がどれだけ絶対的な力を持っているのか分からなくて、思うところはあっても口を挟めなかった。
 侵校生との戦いでもこちゃんが連れ去られ、今は五人でこの学園を守っていることを話せば、最終防衛学園には十人も特防隊員がいると澄野くんは教えてくれた。そんなにいっぱいいるんだ、ってびっくりする私の隣で、NIGOUは「それはそうだよ。だって向こうとこっちとでは……」って言いかけて、慌てて口を噤む。きっと失言しそうになったのだろう。世界死の件然り、澄野くんの前で、NIGOUはやたらと口を滑らせそうになっていた。私達からしたら良くある光景だったけれど、澄野くんは明らかに困惑気味だ。



「……要するに、こっちのみんなは精鋭揃いなんだ」



 言い直すNIGOUに違和感は抱いたけれど、それよりもその「精鋭」に間違いなく自分は入らないだろうことに、情けなくも申し訳ない気持ちになる。
 NIGOU曰く、最終防衛学園には、こっちと違って「消えない炎の壁」っていうものがあるらしい。校舎の周辺をぐるりと囲う永遠に消えない炎で、侵校生の侵入を阻害するんだって。何だかイメージすることが難しいけれど、そんなのがあって尚こちらの倍の人数が配置されているってことは、最終防衛学園の戦いはきっとこちらよりも大変なのだろう。――そうであるならば、澄野くんをいつまでもここに留めておくわけにはいかなかった。
 澄野くんは明日の朝、駐車場にあるスクールバス(この間担架を出すときにも見た、アレだ)で最終防衛学園まで送り届けることに決まった。NIGOUが最終防衛学園までの道中を運転するらしい。勿論、この学園にある食糧も詰め込んで、だ。くららちゃんは悪態吐いていたけれど、それが本心でないことを私は知っていた。
 恐らくまだ本調子ではないだろう澄野くんに昼食を持たせ部屋に帰ってもらった後、私と狂死香ちゃんはNIGOUに呼び止められた。



「二人とも、申し訳ないんだけど、もし時間があるなら今のうちに食糧をバスに運んでおいてもらってもいいかな? 本官は最終防衛学園までの地図を準備しなくちゃいけないから……」

「うん、私は大丈夫だよ。やっておくね」

「無論、拙者も力添えするでござる。聖十文字刀も人助けは必要だと申しておる」

「よかった~! 助かるよ! ありがとう!」



 元々、どう考えたって百日分以上の食糧が詰め込まれていた冷蔵庫だ。最終防衛学園の人達に分け与えるくらいで、こちらの食糧が足りなくなる、なんてことはなさそうだった。
 きっと学園に残されている澄野くんの仲間達は、今もお腹を空かせていることだろう。バスでも一日かかる、って話だったから、最終防衛学園にいる彼らに今すぐ届けることは難しいけれど、それでも顔も知らない仲間たちに食の面でくらいは安心してもらいたくて、めいっぱいの食糧を積み込んだ。「百日目まで一緒に頑張ろうね」って、手紙というには短すぎるメッセージを書いた紙も添えて。お肉やお魚といった冷蔵品は巨大なクーラーボックスに詰め込んで、荷台に積み上げて、食堂と駐車場とを何度も往復した。面影くんも途中から手伝ってくれたおかげで、思ったよりもスムーズに済んだ。
 この時はまさか自分達もこのバスに乗って最終防衛学園に向かうことになるなんて、誰も想像していなかったのだ。


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