その男の子は昏々と眠り続けていた。第二防衛学園までの移動の際、私がうっかり瓦礫に足を引っかけて彼の身体を大きく傾けさせてしまっても、面影くんがその顔を覗き込んで、「殺あ、だけどすごくカワイイ子だなあ。……これだけぐっすり眠っているなら、指の一本や二本くらい切り落としても起きないんじゃないの?」と危ないことを口にして希ちゃんに窘められても、その瞼をぴくりとも動かすことがなかった。
 きっと、よっぽど大変な目に遭ったんだろう。だってこんな状況でも全く目を覚ます様子がないんだから。第二防衛学園までの道中は、瓦礫や砂ばかりで、酷く足場が悪かった。気絶した人間を運ぶっていうこと自体が困難な中でそれでもどうにか学園への帰還を果たしたとき、空には紫とオレンジの層ができていて、弱い光を放つ星があちこちに散らばりはじめていた。
 彼には空き部屋――ポリタンクなどの荷物ですっかり塞がれてしまった通路と、今は無人のもこちゃんの部屋との間にある空き室だ――を使ってもらうことにした。ほとんどの教室が閉鎖された校舎には、彼を休ませる部屋がなかったのだ。
 彼を担架に乗せたまま階段を上るのは困難を極めたけれど、どうにか屋上まで運ぶことができた。私と希ちゃんとで担架を駐車場に片付けて(希ちゃんとは、折りたたんでケースに収納したそれを半分ずつ持った。女子二人で運ぶ分には、そっちの方が楽だった)、それから食堂に立ち寄りくららちゃんに事情を説明して、改めて三人で彼の眠る部屋に戻ったときには、陽はすっかり、屋上のフェンスの向こう、廃墟の奥に沈んでしまっていた。



「くららちゃんも連れてきたよ~……」



 ノックの後、小声で言いながら部屋に入る。ベッドの中で寝息を立てる男の子は、担架を片付けるために私達が部屋を出たときからその様子に変化がない。彼の傍らには、容態をチェックしていた面影くんとNIGOU、それから狂死香ちゃんの姿があって、私は邪魔にならないよう、ローテーブルのあたりにその身を収めた。



「はあ……こんだけ揃うとやっぱり狭っ苦しいわね。狂死香、アンタ脱ぎなさいよ。服の分くらい体積を減らしなさい」

「えっ!? な、なんで拙者がぁ!?」



 文句を言いながらもベッドに近づいたくららちゃんは彼の顔をじろじろと見下ろして、「どんなヤツかと思ったけど……とんでもない貧乏人面じゃない。これがアタシ達と同じ特防隊の人間なわけ?」と分かりやすく悪態づいた。くららちゃんの素顔に比べたら、そりゃあ誰だって貧乏人面になっちゃうと思う。マスクの下のくららちゃんはなかなかお目にかかれないレベルの愛らしさだから。
 二十五日間、誰も使用していなかった部屋だ。埃っぽさはどうしても残っていて、狂死香ちゃんが開けておいてくれたらしい窓の隙間から頼りない風が吹き込む度、部屋の電球から伸びる光の筋に塵がちらちらと瞬いていた。行き着く先に、彼の伏せられた瞼と、影を作る睫毛があった。血色の悪い頬。薄い唇。前髪の下に見え隠れする、形の良い眉。
 ――人だ。
 それ以外の何者でもないのに、噛みしめるように思ってしまう。私達六人以外の、人。それだけで、なんだかドキドキして落ち着かない。
 希ちゃんが、彼を覗き込むように軽く膝を曲げ、彼の身体を看ていた面影くんに尋ねる。



「――それで、面影くん。彼の容態はどうなの? 大丈夫そう……?」

「そうだね……。頭をぶつけた……というか、殴られたような痕跡はあるけれど、侵校生にでも殺られちゃったのかな? 衰弱はしているけれど他に外傷もなさそうだし、頭の怪我自体も大したことはない。いずれにせよ、そのうち目を覚ますと思うよ」

「うわー、よかった! それなら本官も一安心だよ」



 半透明に透けたハートの部分を撫で下ろしながら言うNIGOUは、「だけど最終防衛学園からここまでは随分遠いはずなのに、一体彼はどうしてあんなところで倒れていたんだろう……」と不思議そうに続けたから、ほとんど独り言を拾ってしまうような形で、「最終防衛学園?」と聞き返してしまった。



「あれ? 言ってなかったっけ?」



 驚いたような声をあげるNIGOUに、私達は目だけで返事をする。



「ええっと、もう一つの学園の名前だよ。――最終防衛学園。彼はそこから、この第二防衛学園までやって来たんだ」



 途方もなく長い道のりを、恐らく、歩いてね。
 本来ならば緻密な連絡を取り合うことになっていたという最終防衛学園とは、恐らく通信機器の故障のせいでずっと不通になっていた。連絡がないのは元気な証拠、ってNIGOUは言っていたけれど、もしかしたら最終防衛学園では、何か大きな問題が起きていたのかもしれない。彼はそれを伝えるために、歩いて第二防衛学園までやって来て、それであんなところで力尽きたのかもしれない――そんなことをぐるぐる考えたけれど、彼が目を覚まさない以上、確かめる術はどこにもなかった。








 次の日も、その次の日も、彼は目を覚まさなかった。
 夜と朝はNIGOUが、昼間は私達の誰かが交代で彼の傍に付き添ったけれど、彼はいつ会いに行っても、昏々と眠り続けていた。



「――あれだけ目を覚まさないってコトは、アイツはもう手遅れね。間違いなく、肉離れ、っていう名前の奇病よ。身体中から肉がどんどん落ちて行って、最後は骨だけになってしまうの……」

「! な、なんと……! そんな恐ろしい病気が現代に……!?」

「ええ……山に籠もっていたアンタは知らないかもしれないけれど、東京団地でも年間数百人は発症する、謎の病気なのよ……。幸運にも感染症ではないから、アタシ達にはうつらないでしょうけど……」

「そんな……じゃああやつは、もう……ブルックになるしかないんでござるか……!」

「ええ……残念だけど……」

「なんと哀れな……!」



 恐らく彼が目を覚まさない状況に飽きてしまったのだろう。くららちゃんが狂死香ちゃんに吐いていたとんでもない嘘を食堂で耳にしたときはぎょっとしたけれど、目があったくららちゃんに緩く、けれど念を押されるように首を振られたため、狂死香ちゃんには申し訳ないけれど口を挟むようなことはしなかった。どのみち、彼の目が覚めたら狂死香ちゃんもそれが嘘だったと気がつくはずだ。堪えきれずに「キシシシ……」と笑うくららちゃんに気がつかない狂死香ちゃんに心の中で謝って、屋上の彼の部屋へと向かった。
 ――彼の眠る部屋は、世界から切り離されたように静かだ。
 ベッドとソファ、ローテーブルにデスク。私の暮らす部屋と全く同じ配置で家具が置かれているのに、使う人間が眠り続けているというだけで、生活感が希薄になる。
 前髪の一部分だけが青い色をした、不思議な髪。薄い唇はきちんと閉じられていて、瞼が微かに動いたところすら私は見たことがなかった。首元までかかった布団のせいで上下しているはずの胸の動きが判然とせず、ちゃんと呼吸をしているのか不安になって、こっそり顔の前に手を添えて確かめてしまったのも、一度や二度では済まない。



「……今日も起きないねえ」



 私と彼しかいない部屋で、小さく呟く。起きてほしいって思っているくせに、自分の耳にもまともに届かないくらいの声量で口にするのは、我ながら矛盾している。
 面影くんは「いずれ目を覚ますよ」って言っていたけれど、本当にそうなのかな。段々不安になってくる。名前も知らないし、声も聞いたことがなければ瞳の色すら知らない男の子だけど、彼が私達と同じ特防隊の人間で、最終防衛学園というところで侵校生を相手に戦っていた――というのは疑いようのない事実だったから、私はそれだけで彼のことを仲間同然に思っていた。
 一体どうしてあんなところで倒れていたのかを聞きたかったし、他にもいるであろう彼の仲間のことや、最終防衛学園とやらがどうなっているのかも知りたかった。侵校生との戦いについても話したかったし、協力しあえることがあるならしたかった。だって同じ目的を持った仲間なんだから。だけどそれにはやっぱり、目を覚ましてもらわないことにはどうしようもないのだ。
 部屋のロールカーテンを少しだけ開けて、外の光を部屋に取り込む。光の筋は彼の投げ出された手を白く染めて、青い血管を浮き上がらせる。
 私達が東京団地から連れ出されて、二十七日目。世界死に抗うため、侵校生と戦う覚悟はとうにできていて、ここでの生活にもいつの間にか慣れてしまった。私達は、のこりの七十日余りをここで戦う。だからこそ私は、この男の子の口から、「最終防衛学園」の話を聞きたい。私達と同じように藻掻き苦しんで、それでも東京団地のみんなのために侵校生を戦う、名前も顔も知らない仲間たちの話を聞かせてもらえたら、もっと頑張れる気がしたから。
 眠り続ける男の子の顔をじっと見る。面影くんが「カワイイ子」と言った彼は、今も目を覚ます気配がない。








 私達の一度目の転機がもこちゃんを奪われた十日目のあの戦いだったとするなら、二度目は間違いなく、彼が意識を取り戻した二十八日目のことだったと思う。
 その日、日課のトレーニングをしていた私とくららちゃん、狂死香ちゃん、それから面影くんのところに、NIGOUは現れた。希ちゃんは早く目が覚めてしまったからともこちゃんの手がかりを探すために探索に出ていて、私達は四人でトレーニングを始めていたのだ。
 NIGOUの軽い足取りといつにも増して朗らかな表情に、あれ、と思ったのは、よく覚えている。あれ、もしかして、って。
 私達四人を体育館の真ん中に集めたNIGOUが「みんな! 報告があるんだ。あのね、実はあの子が――」と言いかけたときだ。体育館の扉が、音を立てて開いたのは。
 空気の流れが変わった。何か、私達のいる瓶の中に小さなビーズが放り込まれていて、今それに気がついたとでもいうような感覚があった。私達は揃ってそちらを見た。そこにいた男の子のことを。柔らかな赤い髪に、闇に染まりきる前の空のような瞳。白いパーカーの上に薄手の上着を羽織った彼は一瞬で私達を観察するように素早く目を走らせると、さしたる逡巡も見せることなく、体育館へとその足を踏み入れた。


PREV BACK NEXT