駐車場に入ってすぐのところに担架があるから、それを持って正門に来てもらえないかな――NIGOUにそう声をかけられたのは、私が食堂でおやつを食べていた、とある昼下がりのことだった。
「たんか?」
「そう! 急で悪いんだけど、お願いしてもいい? 本官は誰かもう何人か手が空いていそうな子をさがしてくるから……」
「わかった、担架だね! 持っていくよ!」
「わー! 助かるよ! 申し訳ないんだけど、お願いね、さん!」
嵐のように去って行ったNIGOUを見送って、お皿に残っていたクッキーを口に詰め込む。いきなり「担架」だなんて、何が何だかわからないけれど、のっぴきならない事情があるみたいだ。
早く行かなくちゃと高速で咀嚼する私の耳に、「今の何?」って、鈴みたいな可愛らしい声が届く。急いでいたようだからNIGOUは気がつかなかったみたいだけど、食堂の奥にあるキッチンでは、くららちゃんがカレーの材料を煮込んでいたのだ。温くなった紅茶でクッキーを流し込んで、ごちそうさまでした、と手を合わせ、くららちゃんの方を見る。
「ていうか、担架がなんで必要なわけ?」
「確かに……。……あ! ひょっとして、誰か怪我でもしちゃったのかな……!?」
「いや、担架が必要って相当よ? そもそも今日はみんな学園から出ないって言ってたし、誰かが怪我でもしたっていうならあのポンコツコロ助もそう言うでしょ」
「うーん、そうだよねぇ……」
そうなってくると、担架が必要な理由が益々わからない。
なんだか薄ら不安になってしまって、駄目元で「くららちゃん、一緒に……」と言いかけたら、くららちゃんはそのマスクの表情だけで私を黙らせた。今、手が空いているように見える? ってことなんだと思う。全く、その通りだ。カレーと向き合っているときのくららちゃんは、一時の集中も切らすことができない。祈りを捧げる聖職者のように、今も厳かにお玉を握っている。
「お皿だけ片付けといてあげるから、行ってきなさいよ」
「わ、いいの? ありがとう!」
「アイツもなんだか急いでるみたいだったしね。さっさと行ってやんなさい」
アンタも気をつけるのよ、と言ってくれるくららちゃんに手を振って、私は椅子から立ち上がった。
駐車場、って言うけれど、実際あれは巨大な車庫だ。食堂と同じ階、ほとんど対角線上の端っこにあって、物凄く広い。扉を開けてちらっと中を確かめたことはあるけれど、動くのか動かないのかも判然としない一台のバスと、タイヤや整備道具らしきものが雑然と散らばっていて、どうにも近寄りがたい雰囲気の場所だった。こんな風に用事を言いつけられなければ、きっとそのまま足を踏み入れることはなかっただろう。
小走りで駐車場に向かうと、そのまま扉を押し開ける。薄暗がりの中手探りで灯りをつければ、そこはバスが一台あってもなお充分な広さを持つ空間が広がっている。
「担架、担架……」
薄らとしたガソリンの臭い。高い天井は私の独り言や足音すらも反響させた。
入ってすぐのところにあるってNIGOUは言ったけれど、担架を探し出すのは少し手間取った。コンパクトに折りたたまれたそれは、積み上げられた交換用のタイヤと脚立の間に、あんまりにも行儀良く収まっていたから。――そのケースに「担架」って太い字で書かれていなければ、私は多分、もう少し見つけるのに時間がかかっていたはずだった。
まさか折りたたまれて、その上ケースに入っているとは思わなかった。担架というものを私は実際には使ったことがなかったから、形状も重さも、きちんと分かっていなかったのだ。
隙間から引っ張りだそうと腕に力を込めた瞬間、それが思った以上の重量であることに驚いて、思わず「えっ」って上擦った声をあげてしまう。ケースに収まったそれは持ち運び用の取っ手もついているのに、びくともしない。
すっごく重いんだ、これ。
一度手を放して、息をつく。何度か挑戦してもちっとも動かないそれに、僅かに赤くなった手の平に視線を落として、つい独りごちた。
「絶対三十キロはある……!」
「いや、せいぜい十キロくらいじゃない?」
「ワッ!?」
一体、いつの間にそこにいたんだろう。
わざと気配を消していたのか、それとも私が鈍感すぎたのか――びっくりしすぎて飛び跳ねた私の身体の横から、面影くんはその手を伸ばした。太い指輪の嵌められた右手が、なんてことない様子で担架の入ったケースを引っ張り出す。私が同じ事をしたときはびくともしなかったのに、担架はまるで重さを変えたみたいに、軽々と面影くんの手に収まるから、思わず目を丸くしてしまった。
「え! すご~い……! それ、重くないの……?」
「うーん……これくらいなら平気かな」
「え~そっかぁ、すごいなぁ……。私もトレーニングしてるはずなのに、筋力はなかなかつかないんだよねぇ……ちょっとトレーニングの内容変えてみようかなぁ……。……あっ! じゃなくて面影くん、なんでこんなところに……!?」
「うふふ……殺っぱり面白いね、ちゃんって」
感心しきっていた上に反省までしていたせいで尋ねるのが遅れてしまった私に、面影くんはその眦を細める。心臓が跳ねたのは、二人っきりだ、って気がついてしまったからだ。面影くんが部屋まで来て……その、全裸で歩いていたために私が階段から落ちてしまった、っていうのを謝りにきてくれた日以来。そう思ったら、急に緊張してしまった。
「もしかしたら担架を探すのに手こずっているのかもってNIGOUに言われてね。手伝いにきたんだよ。ちゃんのこと」
「う、そっかぁ……」
「まさか動かせないとは思わなかったけど……」
「その、思ったより重くて……あの……面影くんに来てもらえて助かりました……」
「ふふ……どういたしまして? お礼だったら、ちょっとちゃんを解剖させてくれたらそれでいいし……」
「よくないかも……」
冗談なのか本気なのか分からない彼の言葉に、熱くなっている顔を自覚しながら首を振る。
担架の入ったケースの寸法は、横が一メートルほどだろうか。せめて少しでも力になれたらと思って、駐車場を出る寸前、面影くんに「こっち側持とうか……!」と片側を指差して言ったら、「いや、却って持ちにくいからいいよ」って断られてしまって、ちょっとだけ胸が痛んだ。
面影くんは自室にいたところをNIGOUに呼ばれたのだと話してくれた。狂死香ちゃんと希ちゃんも同じように自分の部屋にいて、三人はそこから一階へ向かうまでの道中でもう少し詳しい事情をNIGOUから聞かされたのだと言う。
数時間前、防衛システムのレーダーに見慣れない反応があったこと、反応のパターンからそれが侵校生である可能性は低く、移動の様子も見られなかったこと。
この時、希ちゃんは「ひょっとして、それってもこちゃんなんじゃ……」とNIGOUに尋ねたそうなのだ。だけどNIGOUは首を振った。「あらゆる可能性を考慮して、実は、本官だけで確認に行っていたんだ。……残念だけど、もこさんではなかったよ」と言い添えて。
考えたくないことではあるけれど、もしもそれがもこちゃんだったとして、彼女自身が無事であるかどうかが分からない以上、私達に精神的な負担を与えるような真似はするわけにはいかないとNIGOUは考えたのだろう。極論、そこにもしももこちゃんの……もう動かない身体が横たわっていたとしたら、私達は間違いなく動揺した。万が一のことを考慮して、NIGOUは単身でレーダーが示した地点へと向かったのだ。
そしてそこでもこちゃんではない――そこにいるはずのない人間を見つけることになった。
学生鎧を身につけた男の子。
私達以外の、どこか遠い別の場所で、私達と同じように学園の中にある大切なものを守り続けている特防隊の子。
NIGOUはその子に息があるのを確認すると、侵校生に見つかりにくい建物の影に彼を引き摺って、すぐに第二防衛学園へ帰還した。彼をこの学園へ連れてくるために、NIGOUは私達を頼らなくてはいけなかったから。担架を準備させて、人手を集めて――そして今に至るのだと言う。
「でも、なんでそんな子がこのあたりで倒れてるの……? もう一つの学園って、すごく遠いって話だったよね……?」
「さぁ……そればっかりは本人に確かめてみないと分からないけれど……」
「SIREIさん? と連絡が取れないっていうのとも関係してるのかな……でも、兎に角急がなくちゃね……」
意識のないところを侵校生にでも見つかったら、きっと大変なことになってしまう。
重たいものを持ってもらっている面影くんには申し訳なかったけれど、校門で待っているというNIGOUと希ちゃん、狂死香ちゃんと合流するため、足を速めた。
奇妙な絵の描かれた襖が敷き詰められた一階の校舎の壁は光らしい光が届かない分、いつも深遠な気配に包まれていて、顔も名前も知らない男の子を案じて無意識に吐き出した長い呼吸も、不安も、だけど丸ごと飲み込んでもらえるような気がしている。
NIGOUに連れられて向かった廃墟の片隅に横たわっていたのは、赤い髪をした男の子だった。
彼の瞼は海の底の貝のように閉ざされていた。学生鎧は僅かに湿っていたけれど、身体にはっきりとした怪我があるようには見えなかったし、血のにおいもしなかった。
本当に、人間だった。私は私達以外の人間を、東京団地の外に出てから初めて見た。すっきりとした頬のライン、綺麗な鼻筋。背はさほど高くなくて、身体のラインは細身で骨張っている。呼吸は落ち着いていたし熱もないようだったけれど、衰弱しているのがその顔色で分かった。
「もしかしたら雨に降られちゃったのかも……。昨日、向こうの方角は空がすごく暗かったし、それで方向が分からなくなったのかもしれない……」
希ちゃんの言葉に、私は曖昧に頷きながら、あめ、と口の中だけで繰り返した。「雨」は単純に言うと空から水が降ってくる現象で、別に珍しいものではないんだって。乾燥した第二防衛学園の周辺が、これまで偶々晴れ続きだったっていうだけで(「アラバスタで三年降らなかったというアレでござるな」と狂死香ちゃんが神妙な面持ちで頷いていたけれど、多分漫画の話だろう)。
広げた担架に四人で彼を持ち上げて横たわらせると、砂を払ってその身体を固定する。担架単体でも持てなかった私が役に立つだろうかと不安だったけれど、スチール部分の持ち手を四人で一つずつ持てば、重さは上手く分散された。
面影くんには「大丈夫? ちゃん」と薄い笑みを浮かべて尋ねられてしまったけれど、「大丈夫……!」と頷いた。ぎゅっと力を込めて、持ち手を握り直す。
「みんな、頑張ってー! フレー! フレー! みんな!」
殿を務めるNIGOUの声援を背に、私達は第二防衛学園へひた歩く。
彼と出会ったこの日を境に、私達を取り巻く環境が大きく変わろうとしていることを、この時の私達は誰一人知らなかった。