私の身体は、やっぱりちょっと他の人より回復が早いらしい。
階段から落ちたときに脛を擦りむいたような感覚があったけれど、目を覚まして確認すれば、そこには傷一つないつるりとした皮膚があるだけだった。足を捻ってもいなければ、どこかが痣になっているようなこともない。ベッドの上で足を振っても痛みも違和感もなかったから、よかった、ってほっと息を吐いた。これでまた怪我でもしようものなら、復帰が益々遅れて皆に負担がかかってしまうところだったから。
様子を見に来てくれた希ちゃん曰く、面影くんはあの後もくららちゃんにこっぴどく叱られていたけれど、実際に首を刎ね落とされたりまではしなかったらしい。「次からはもう少し時間を選ぶことにするよ」と、一応の反省を見せたことで情状酌量がなされたそうなのだ。
「わ、よかったぁ……。面影くん、大丈夫だったか気になってたんだ……」
「うん……。こう言うのもなんだけど、ちゃんがそう言う風に言ってくれてるのが一番だと思う……」
同情するように言ってくれる希ちゃんの言葉に、面影くんの足の間にあったものを思い出しそうになって、「わ、私は全然」って嘯きながら、こっそり俯いた。全然びっくりしてないよ、なんて、嘘でも言えないのに。
部屋には狂死香ちゃんが抱きかかえて運んでくれたらしい。あとでお礼を言いにいかなくちゃ、って言ったら、希ちゃんは優しい顔で「そうしたら狂死香ちゃんも安心してくれると思うよ」って小さく頷いてくれた。彼女の瞳は今も隣に居るはずの誰かを探しているように揺れていて、そこには細やかな寂しさが潜んでいる。
面影くんはその日の夜わざわざ私の部屋まで謝罪に来てくれた。鳴らされたインターフォンに部屋の扉を開けた私に、「殺あ、ちゃん。今、少し良いかな」って、まるで良識的な人間であるかのような顔で微笑むから、私の方がまともに目を合わせられなかったのだ。
陽の落ちた空は薄暗く、空には星と、月という名前の丸い天体が白々と輝いていた。薄闇の中に輪郭を滲ませながら立つ面影くんに、どぎまぎする。綺麗な人だから。あんな形で助けてもらったから。……しっかり裸を見てしまったから。理由はたくさんあって、そのどれかか、或いはもしかしたらその全てが私を息苦しくさせているのかもしれなかった。そわそわと落ち着きなくいる私に、面影くんは「今日はごめんね」って、低く言った。何の抵抗もなく耳にすっと入る、柔らかな声だった。
「階段から落ちちゃうくらいびっくりさせてしまうなんて、悪かったな……。受け止めてあげられたら良かったんだけど」
「う、ううん。怪我してないし、私がびっくりして足を滑らせちゃっただけだし……。それにあの状況で受け止められてたらそれはそれでちょっと良くなかった気がするし……大丈夫……」
「うふふ……。そうかな?」
「そうだよ……! お気持ちだけ受け取っておきます……!」
「まあ、だけど元はと言えば私が気を抜いて歩いていたのが悪かったわけだしね。大きな怪我にならなくて良かったよ。――次からは気を付けるね」
目を伏せて薄く微笑みながら言ってくれる面影くんに、私は曖昧に頷くことしかできない。
こんな思慮深い様子の彼が言う「気を付ける」が全裸散歩の時間帯に関してだなんて、一体誰が信じるだろう。とんでもない性癖だ。裸になって歩くなんて、絶対誰もいない場所だから大丈夫だよって言われていてもできそうにない。何かの罰ゲームだとしても、どうにかして他のものに変えてもらうと思う。なのに面影くんはそれをやってのける。スリルを楽しんでいるのか、解放感に浸っているのかは、私にはわからないけれど。
先の光景をありありと思い出してしまいそうになって、つい唇を引き結んで彼から目を逸らした私に、面影くんはふ、って、小さく笑った。だから思わず、顔を上げたのだ。
面影くんの細められた目。口元を隠すように添えられた手の甲は骨張っていて、私のものとは全然違った。なのに指は細くて、爪の先まで綺麗。神さまが特別に力をいれて彼を作ったと言ったら、私はそれを信じるだろう。
彼の瞳は、私を捉えていた。一体何がどうしてそうなったのか、微かに滲んだ欲がそこにあった。面影くんの右目に映る私はただ目を丸くして彼を見返しているだけで、細められたその瞳の中で、ひしゃげて歪む。「ちゃん」不意に名前を呼ばれて右手を伸ばされて、びくりと肩を竦めた。形の良い、長い爪。触れられる。耳に、頬に。私の中身を抱くように。
けれど彼の指は、頬に張り付いていたらしい私の髪を優しく払っただけだった。
「――じゃあ、おやすみ」
キスされるかと思った、なんて。
そんなありえない、バカみたいなことを考えてしまった自分が恥ずかしくて、頬が熱を持つ。行き場のない手で落ちた髪を耳にひっかけながら、「お、おやすみなさい……!」と目も合わせずに口にして、なるべく急いだ様子にならないよう、部屋の扉を閉めた。
なんで、どうして今、私はこんなにドキドキしているんだろう。あの目に見つめられると、射すくめられたようで動けなくなる。皮膚とか血管とか骨、全部を透かして、その奥にあるものを見透かされているような気になる。それで、全部差し出したくなってしまうのだ。彼に。
面影くんの気配が遠ざかっていくのを感じて、はぁ、と息を吐いたのに、ややあってから隣の、面影くんの部屋の扉が開いた音を耳が拾って、びっくりして、本当はわあって声をあげてしまいそうだった。
心臓がバクバク音を立てて苦しい。面影くんの声とか目とか指先とか、素肌の色までもが色濃く残るこんな夜に、この部屋の壁の薄さを実感したくはなかった。
もこちゃんのいない日々は私達の周囲に堆く積み上がっていく。
トレーニングは大事を取って、もう一日休んでから再開した。希ちゃんと一緒に走って、狂死香ちゃんの隣で正拳突きをした。くららちゃんのカレーを食べて、あまりの美味しさに感極まって泣きそうになって、面影くんが薬の材料を探しに行きたいって言うのに付き合った。もこちゃんの痕跡がどこかにないかな、って辺りを探す私に、面影くんは何も言いはしなかった。
十九日目。二十日目。二十一日目。一日一日は呆気なく私達の横を通り過ぎて、過去のものになる。希ちゃんが一人、誰かを誘うこともなく、もこちゃんを探すために学園を出て行くことが増えていく。
二十二日目。NIGOUが「やっぱり連絡が取れないなあ」ってぼやくのを聞いて、つい、「SIREIさん?」って尋ねた。もう一つの学園にいる「SIREI」の指示によって私達第二防衛学園の作戦方針が決まるらしいと聞くと、この状況はあまり芳しいものではないような気がするけれど、それでもNIGOUは楽観的だ。
「うん……。心配だなぁ……。あっ、でも連絡がないってことは元気な証拠ってことだよね! 向こうの特防隊の人達も、きっと今頃すっごく頑張ってくれてると思うんだ! みんなみたいに!」
でも、私もNIGOUと同じようなものだったのかもしれない。顔も知らない人達が同じように戦っているって思うだけで、だって、どんなに怖くても、頑張れそうって思えたんだから。この広い地球のどこかにいる彼らもまた同じ気持ちでいるんだって、信じ切っていた。勝手にそう思っていた。
二十三日目。警報が鳴った。希ちゃんがじっと堪えた様子でいたけれど、足を止めた私に彼女はすぐに向かうから先に行っていていいよと力なく口にした。くららちゃん達と作戦室に向かうこともできたけれど、警報が鳴り終わるまで希ちゃんの隣にいることを選んだのは、やっぱり彼女のことが心配だったからだ。
希ちゃんは、ずっと張り詰めたような空気を纏っていた。もこちゃんがいなくなってから、私以上に訓練に励んでいた。時間があれば探索に出て、もこちゃんにかかわる手がかりがないかを必死で探していた。切迫めいたものを、彼女はずっと抱いていた。
「……もこちゃんみたいに、おんぶで連れて行ってあげられなくてごめんね」
青ざめた希ちゃんにそう言ったら、けれど希ちゃんはややあってから、声をあげて笑ったのだ。
「……もう、ちゃんはわたしより背が低いんだから、おんぶは流石に無理だよ」
あの日の記憶を共有し合う者同士だったからなのかもしれない。あの時のもこちゃんを、私達だけが知っていたから。私達を繋ぐ糸、それでも希ちゃんを覆っていた薄い膜が溶けたのが、手に取るように分かった。
そんなことないよ、階段は無理でも、おんぶだけならできるかもしれないよって言ったのに、希ちゃんは笑いながら首を振る。希ちゃんがそうして笑うのは、もこちゃんがいなくなってから、初めてのことだった。私はそれが、酷く嬉しかったのだ。
あからさまにほっとした顔をしてしまったみたいで、希ちゃんはその日、作戦室までの道中、私に「気を遣わせちゃってて、ごめんね」って言った。希ちゃんが謝る必要なんか一つもなかったのに。だけど希ちゃんは首を振った私の隣でその両頬を勢いよく叩いて、「もう大丈夫。もこちゃんを取り戻すために、頑張ろうね! ちゃん!」って、笑ったのだ。その睫毛に乗った光に、彼女の輪郭の柔らかさに、本当は少し泣きたかった。
このとき私には希ちゃんが、もこちゃんと重なって見えてしまった。
この間のように無尽蔵に侵校生が投入されることがあったら、きっと厳しい戦いになる。そうじゃなくても「部隊長」がいたら、それが今度こそこちらを攻撃するために動いたとしたら、私達は学園を守り切るために、多大な犠牲を払う必要があるのかもしれない。――そんな心配は、けれど杞憂に終わった。NIGOUの予測通り、この日の防衛戦は随分細やかなものだったから。やって来た侵校生は数えるほどで、前回面影くんのお腹をぐちゃぐちゃにしたあの侵校生も、NIGOUを浚った空飛ぶ侵校生もいなかった。
もしかしたら、今回の敵の目的は斥候だったのではないだろうか。特防隊や学園の防衛力を測って、次こそ確実にこちらを叩き潰すつもりなのではないだろうか――皆も同じような事を考えていたらしかった。その日は次の戦いに向けて、本格的な話し合いをすることになった。
もこちゃんがいなくなって時間だけが過ぎて、気がつけばもこちゃんと過ごした以上の日々が私達の横をすり抜けていた。もこちゃんの安否を知るための手がかりすらなく、私が想像したように、もこちゃんが一人で敵の手から逃げ出してくるようなこともなかった。もこちゃんの話をすることが少しずつ減って、洗濯機のある部屋のゴミ箱からももこちゃんの名前の書かれた付箋は消えていた。もこちゃんの痕跡が少しずつ消えて行く。どれだけ手に力を入れても、指の隙間からもこちゃんの残滓は零れ落ちていってしまう。
彼女を救えないまま十日余りが過ぎたという事実を、一体どう受け止めれば良かったのだろう。
以前くららちゃんが「こんなに時間が経っちゃったんじゃ、もしかしたらもこはもう」って零したことがあった。私より先に「そんなことない!」って叫んだのは、希ちゃんだった。あんなに強いもこちゃんが死ぬはずない、もこちゃんは捕まって身動きが取れないだけ、わたし達が助けなくちゃ、信じて待たなくちゃ。わたし達が信じないで、一体誰が信じるの――涙ぐんだ希ちゃんの言葉を、誰も否定しなかった。後で振り返ってみれば、この時くららちゃんや狂死香ちゃん、面影くんはもしかしたら、ただ否定の言葉を口にせずにいただけだったのかもしれなかった。もこちゃんの帰りを本気で待っていた希ちゃんと私を、無駄に傷つけることがないように。
みんな優しい人たちだったから。
「次にあの部隊長と遭遇したときがチャンスだと思う。それがきっと、わたし達がもこちゃんを助ける手がかりになると思うんだ。だから……その時は取り逃がしたくないの」
この時も三人は、希ちゃんの言葉に疑問を差し挟もことをせずにいてくれた。ただ静かに頷いただけだった。この時の光景を、私はきっと、ずっと忘れない。
もこちゃんを救うためにも、私達はもう一度あの部隊長と対峙する必要があった。次の防衛戦、もしもあの時の部隊長の姿がそこにあれば――もこちゃんを連れ去ったあの部隊長から何か情報を得ることができれば、きっと状況は変わるはずだと、私はそう信じていた。
第二防衛学園の外、かろうじてレーダーに引っかかる廃墟の一角で倒れていた「彼」をNIGOUが見つけたのは、二十五日目。南の空にずっしりとした重たい色の雲が広く垂れ込めていた、翌日のことだった。