面影くんの薬が効いたらしく、翌日には熱はすっかり下がっていた。
身体の調子はすこぶる良かった。この間の戦いで負った怪我は私が眠っている間に希ちゃんが治療してくれていて、あの時死にかけていたのが嘘みたいだった(お見舞いに来てくれたNIGOU曰く、我駆力が持つ再生能力によるものでもあるらしい。「さんの我駆力は特に回復力に特化しているのかもしれないね」って言われてあまりピンとこなかったけれど、最初の戦いでできた膝の傷がすぐに治ったことを思い出して、自分の身体のことながら感心してしまった。いっそ戦闘中に回復してくれるくらいなら便利なのに、どうもそこまでではないらしいというのが実に私らしい)。
丸三日寝込んでいたことで鈍くなっていた頭も徐々に覚醒し始めていて、そうなるといつまでも横になっているわけにもいかなくなる。だって次にいつ侵校生が攻め込んでくるのか、分からないのだ。
私は強くならなくちゃいけなかった。皆とのトレーニングに復帰して、肉体面でも精神面でも自分を鍛え上げて、誰の足も引っ張らないようになりたかった。もう二度と侵校生との戦いであんな失態を演じることがないように。誰かに尻拭いをされたり、守ってもらわなくて済むように、頑張るしかなかった。
部隊長に連れ去られたもこちゃんを取り戻すために。
第二防衛学園にいないもこちゃんが私を訪ねてくることはないって分かっているはずなのに、私は部屋の外で物音がする度に、そこにもこちゃんがいるんじゃないかと思って、いつもそちらに目線をやってしまう。
十五日目の早朝、洗濯をするために早起きをした私が屋上で出会ったのは、くららちゃんと狂死香ちゃんだった。狂死香ちゃんの部屋の前で、二人が何か話し込んでいたところに偶々出くわしたのだ。
すっかり溜め込んでしまっていた洗濯物を両手に抱えた私は二人に「二人ともおはよう、こんな早くに起きてるなんてめずらしいねえ」と声をかける。朝陽が昇りかけた空は薄くグラデーションがかっていて、未だ薄らと星が瞬いていた。振り向いたくららちゃんのトマト頭は、私をみとめるとその目のあたりを僅かに歪めた。
「! アンタこそなんでこんな早く起きてるのよ。病み上がりでしょ? ちゃんと寝てなさいよ!」
「心配してくれてありがとう~。でももう怪我も良くなったし、熱もだいぶ下がったんだよ。いつまでも休んでるわけにもいかないし、それに、そろそろ洗濯もしたくて」
「あ、ああ、そういえば殿はいつも早朝に洗濯をしていたんだったでござるな!」
「そうなの、いっぱいあるからいい加減洗わないと。そろそろ身体も動かさないとだし。……それで、二人はこんな時間に何をしてたの? 早起きだねぇ」
私の疑問に、何故か恥じらったように顔を赤くして小さくなったのは狂死香ちゃんだ。一方でくららちゃんは、よくぞ聞いてくれたとでも言わんばかりに胸を張ってその腕を組む。
「苦情の申し立てよ」
まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかったから、つい首を傾げてしまった。
「くじょう?」
「そう、ここの犬小屋もどき、壁が薄いでしょう? 生活音が丸聞こえなのよ。生活音だけならまだしも、今日なんか朝っぱらからあの声まで聞かされて、流石にもう我慢ならないわ……!」
「あの声……?」
「狂死香が自分の股間に刀を押し付けてよがっている声よ! アンタの部屋にも聞こえない!? 毎日毎日煩いったらないわ!」
「嘘ッ! 拙者、毎日はしてないよ!?」
「今はしてたでしょうが! 全部筒抜けなのよ!! 朝っぱらから聞きたくもない声聞かされて起こされたこっちの身にもなりなさいよね!」
そこでようやくくららちゃんの言う「あの声」の正体が分かって、ぎょっとした。――なんてところに出くわしてしまったんだろう。いくらなんでも、友達のそういう話は気まずいどころの騒ぎじゃない。
「だ、だって、今日は変な時間に目が覚めちゃったんでござるよ~……!」
「、アンタも訴えがあるなら今のうちに言っときなさい。どうせアンタ貧乏人だろうし、東京団地に戻ったら慰謝料の請求もした方が良いわよ」
「わ、私の部屋までは聞こえてないよ! 安心してね、狂死香ちゃん……」
居たたまれなくて、「洗濯してきます……!」と言い残すと、私はそのまま校舎へと続く扉の方へと駆け出した。
くららちゃんはまだ狂死香ちゃんに怒っていたけれど、実際くららちゃんの部屋を挟んだ私の部屋まではその声は聞こえていなかった。だからただ、とんでもないことを聞かされてしまったな、ってドキドキしてしまう。くららちゃんも面影くんも生活音があまりしないから、隣の部屋から音が丸聞こえ、とか、意識したことがなかった。私も気を付けないと、と気を引き締める。
でも確かにお友達のそういう声……とか音……とか聞こえてきたら、ちょっと困ってしまうかもしれない。どんな顔で接したらいいか、わからなくなるもん。
もこちゃんとか希ちゃんはそういう問題とか、ないのかな。でもあの二人は大丈夫か。そんなことを考えながら、校舎に続く階段に程近い二人の部屋を見て――それで、ちょっとだけ頬を張られたような気になった。
ああ、そうだ。もこちゃんはいないんだって、不意に思い出したから。
フェンスの網が作る影の伸びる屋上で、もこちゃんの部屋はひっそりと静まりかえっていた。早朝だからとかそういうのではなくて、そこには二人の部屋と並ぶ空き部屋と同じ無人の気配が漂っていた。
五日前の朝、私はここでもこちゃんと、警報の音にじっと息をひそめて身を硬くしていた希ちゃんと出会った。よっぽどあの音が苦手だったんだろう。希ちゃんの顔色は酷く青白くて、微かに震えてすらいた。そんな希ちゃんを、もこちゃんは背負って作戦室まで駆け出したのだ。世紀末破壊天女、喪白もこに任せなさい、って、そう言って。
あの日三人で駆け抜けた扉を捻って、身体で押して開ける。並ぶ洗濯機は、四台。もこちゃん不在の今、もう私がこんな時間に洗濯をする必要はないのかもしれない。洗濯機が混み合って誰かが使えないなんてことも、もうきっとない。
食堂に行っても、もこちゃんはいない。くららちゃんと模擬戦をする姿を見ることもできないし、武勇伝や美容の話を聞かせてくれることもない。「アタイがみんなを守ってあげる」の言葉通り、もこちゃんは私達を守って、身代わりになってくれたから。
あの日から五日間部屋から出なかった私は、これから先、もこちゃんがこの学園にいないことを改めて自覚して、その一つ一つに追い詰められるのだろう。お肉を食べてはもこちゃんを思い出して、光の粒子にその影を探す。もこちゃんだったらこう言うだろうな、笑うだろうな、って考えて、その度にきっと胸をしめつけられるのだ。
「…………死んじゃったわけじゃないのに」
考えるより先に、ほとんど自分自身に言い聞かせるように呟いた言葉が、誰もいない部屋に沈んでいく。
もこちゃんは、死んでない。だって最後までもこちゃんと一緒に居た希ちゃんが、そう言ったのだ。もこちゃんは部隊長に連れて行かれただけだって。部隊長が一体どういう方法を使ったのかは定かではないけれど、もこちゃんは自分の足で歩いてどこかへ消えてしまった、って。その場で殺されなかったってことは、何か利用するだけの価値を見出された、ってことだ。だったらもこちゃんは今も生きている。今も元気でいる。あのもこちゃんが、そう簡単に死んでしまうはずがない――。
数日分の洗濯物で洗濯機はぱんぱんになってしまって、それでも蓋を閉めて、いつもの手順で洗濯機を回した。置いてある付箋に名前を書こうと手を伸ばしたとき、近くにあったゴミ箱に入ったそれに、私はどうして気がついてしまったんだろう。
もこ。
大きな丸い字で書かれたその付箋は、恐らくもこちゃんが自身で捨てたものなのだろう。いろんなゴミに紛れたそれは、だけど窓からの光を受けて、それだけがキラキラ光り輝いているみたいだった。それがあまりにも優しくて、息が詰まって、どこにも引っかからない涙がするりと落ちたのだ。
洗濯機がごうごうと音を立てている。耳を澄ませば、扉の外では微かにくららちゃんの怒鳴り声がする。それらの全てに紛れるよう、膝を折ってその場に蹲った。私がもっと強かったら、もこちゃん一人に全てを負わせずにすんだはずだった。
私が部屋には戻らずに階段の方へと向かったのは、まだ揉めているらしいくららちゃんと狂死香ちゃんに泣き顔を見られたくなかったからだ。先日彼女らの目の前で泣いてしまってはいるけれど、この間みたいな「二人が無事だったことに安堵する涙」と、今の「もこちゃんを思って泣く涙」では、湿度が違う。気を遣わせて、変な空気にしたくなかった。
鼻を啜りながら校舎へと続く扉を開ける。朝陽の細く差し込んだ階段に、五日前を思い出す。もこちゃんと希ちゃんと三人、普通の学校に通う同級生みたいに、私達はこの階段を駆け下りた。あの日ここで見た全てがスローモーションに見えていた。指の動き、髪の一房、光に閃いて点滅していた塵のひとつひとつすら。脳に焼き付けるみたいに。
私はもこちゃんが好きだった。硝子玉みたいな綺麗な目をした女の子。たとえ大輪の向日葵畑にいても、私はもこちゃんを見つける自信があった。それくらいもこちゃんは光り輝いていたのだ。
もこちゃんがいなくなってしまうなんて、考えもしていなかったのに。
一段一段確かめるように階段を下りていたその時だ。遠くから微かに聞こえる人の足音に気がついたのは。
屋上の方からではない。下からだ。ぺたぺたとした足音は一定のリズムを刻みながら、こちら側にまで近づいてくるそれは、明らかに人のものだった。
NIGOUではないし、勿論、屋上にいるくららちゃんや狂死香ちゃんのものでもないだろう。可能性を考えるなら、この時間姿を見ていない希ちゃんか面影くんということになるけれど、これまで二人がこの時間に起きて校内を彷徨いているところは見たことがないし、この音なら、多分裸足だ――。
「……もこちゃん?」
思いつくよりも先に口にした瞬間、そうとしか考えられなくなった。
そうだ、きっともこちゃんが帰ってきたんだ。部隊長から逃げ出して、第二防衛学園に戻って来たんだ。だってあんなに強いもこちゃんが、敵に囚われたままでいるはずがない。体温が上がって、跳ねるような鼓動に一瞬聴覚を支配された。目に映るものが色を変えた。階段を下りる足が震えて、もつれて転びそうになる。その足音はもうすぐそこにある。階段を半分ほど下りた足を止めて「もこちゃん」と言いかけたとき、だけど私は信じられないものを見たのだ。
「――ちゃん?」
その声は、もこちゃんのものではなかった。低くて、艶めいて、少し掠れた男の人の声。第二防衛学園にいる男の人なんて、彼しかいない。
作戦室のある方とは反対側の廊下から歩いて来た面影くんは、目が合った私に、何食わぬ顔で笑った。
「殺あ……随分早起きなんだね?」
彼が普段通りの彼であれば、私だってきっといつも通り、「おはよう」って反射的な笑みを浮かべたんだと思う。びっくりした、もこちゃんだと思った、帰ってきたのかと思って、ドキドキしちゃったよ、って、「もこちゃん」って呼んでしまったことへの照れ隠しにたくさんの言葉を彼に差し出した。
だけど、彼は服を着ていなかったのだ。
文字通り一糸まとわぬ姿でそこにいた。廊下の窓から差し込む光がその素肌を白く照らしていた。細身の身体に、必要なだけついた筋肉。隠す気すらないらしい足の間には、私にはないものがしっかりあって――。
あんまりにも平然としていたものだから、私の頭がおかしくなったのかと思った。
「キャアアアアア!?」
こんなにお腹から声を出したのは、初めてだったかもしれない。
悲鳴をあげた瞬間、動揺を自覚したせいで足が階段を踏み外した。足の裏の滑る感覚と、視界に映った天井を見て、どこか冷静な頭で「一番上にいなくてよかった」って考える。だって上から落ちたんだとしたら、また余計な怪我をして回復に時間がかかってしまっただろうから。
階段を転がり落ちながら、私の悲鳴を聞いて様子を見にきてくれたらしいくららちゃんと狂死香ちゃんの声と慌てたような足音を聞く。ほとんど横になる形で階段から落ちた先で、面影くんが「ちゃん!?」って私を心配してしゃがみこんだ気配があったけれど、目を開ける力はなかった。……というか、多分目を開けていたらそれが目の前にぶらさがっていたことになったと思うから、開けられなくて、良かった。それとほとんど同時に、屋上から続く扉が音を立てて開く。
「!? 一体何が……っ!?」
「殿が階段で転んで……死んだ!?」
「死ぬわけないでしょ! ていうか面影!? なんでアンタ全裸なのよ!?」
「なんでって……私は早朝の校内を全裸で散歩していただけだけど?」
「何当然みたいな声で言ってんのよ、全裸散歩とか変態すぎるわよ! 狂死香、コイツを刎ねなさい! コイツのせいでが死んだんだから……!」
「えっ、あの立派な面影殿の面影殿を刎ねるんでござるか……!? それは流石に勿体ないんじゃ……」
「首の方に決まってんでしょ!?」
頭上でなされるやりとりに、「う、うぅ……」って呻き声を漏らしてしまう。死んでないって言いたいのに、声にならない。段々意識が遠くなっていったのは、多分、直前に見た面影くんの面影くんが衝撃的すぎたからだ。血とか怪我に興奮する彼に、まだこんな性癖があったなんて。面影くんはもう、なんでもありなのかもしれない。こっちが慣れるしか、ないのかもしれない。
もこちゃんがもしこの場にいたら、「セクハラよー!?」って叫んだんだろうな。プロレス技を決めて、ちゃんと怒ったんだろうな。
もこちゃんがいなくても連綿と続いていく日常を、こんなみんなのことを、それでも愛おしく思ってしまう。だから、もこちゃんが帰ってくるその日まで、守らなくちゃいけないのだ。きっと。
この騒ぎで目を覚ましたのだろう。私の名前を呼ぶ希ちゃんの声を、薄れ行く意識の中で聞いた気がした。