面影くんは、人の目を引く。
 もしも東京団地の街中ですれ違っても、だからきっと私は意識的に視線を外す。「今の人、すごかったね」って友達の囁き声に頷いて、振り向いて、こっそりその背を窺って、目に焼き付けるくらい。もしかしたら綺麗な人だったねって言うくらいはしたかもしれないけれど、彼は絶対に私を振り向かないし、きっとそれだけだった。
 彼は独特な雰囲気を持っていた。ざんばらな青い髪に、耳だけじゃなく唇の下や目元にまで開いたピアス。ごてごてしたアクセサリーに眼帯をしていて、和装が妙に似合っていて、口調は穏やかで同い年とは思えない色気がある。口にはしなかったけれど、彼が目を伏せて笑う度、私、ちょっとドキドキしていたのだ。酷く綺麗な人だったから。
 何か大切なものを口にでもするみたいに「ちゃん」って呼んでくれるのが好きだった。男の子にそんな風に呼んでもらったのは、初めてだった。性癖が少し特殊みたいで、他人の怪我とか血とかに興奮するっていうことに関してだけはちょっとどうしたらいいのかわからなかったけれど、それでも面影くんが皆を気遣ってくれる優しい人だってことは知っていた。だから、好きだった。
 細められた目。膝に触れる細い指。首に押し付けられたペットボトル。私の耳元で彼が冗談交じりに囁いた言葉。
 フラッシュバックして、消えてくれないのだ。
 ぜんぶ。








 立ち上がる力がどこにもなくて、私は這いつくばりながら、倒れた彼の元へと懸命に進んでいく。手袋の中で割れた爪から血が滲んでも、構わずに。
 血溜まりの中に彼はいた。周囲には侵校生だった無数の残骸が転がっていて、彼は指の一本も動かさず、私は祈るような気持ちでいるのに、別の部分ではっきりと絶望している。
 こちら側の敵は面影くんが自分の命と引き換えに全て倒してくれていた。私一人が残されていた。破壊された防衛装置と、穿たれた校舎。北ではもこちゃんと希ちゃんが侵校生の校舎への侵入を阻止しているのだろう。くららちゃんと狂死香ちゃんは、反応がないまま。北の空からやってきた侵校生が校舎南の、大きく穴を空けた部分に吸い込まれていくのが見えたけれど、それが一体どういう意味を持つのかを考える余裕が、私にはない。
 彼の身体の傍までどうにか辿り着いたとき、血の染みこんだ地面に手をついて、どうにか上半身を持ち上げた。震える腕で身体を支えて、足を崩したままそこに座る。「……面影くん」名前を呼んでも応えはない。「面影くん」面影くんの右目は、開いているのに、何も映していないみたいに空虚だった。「ねえ、面影くん」腕を揺さぶっても、反応がなかった。鉛のように重かった。私のせいでできたお腹の傷は、今も生々しくへこんだまま。
 そこにいるのに、彼はもうどこにもいない。
 ――私のせいだ。
 私があの時、しっかりしていなかったから。戦いに集中していなかったから。耳から入ってくる北の状況に意識を持って行かれて、バリアが破壊されたことに動揺してしまった。だからあの侵校生がいることにも気がつかなかった。私は一度あれと同じ侵校生と遭遇していたのに。その攻撃を警戒することくらいはできたはずだったのに。そうしたら彼は致命傷を負うことなく、きっと今も生きてここにいた。



「…………面影くん」



 惨めに掠れた涙声は、際限なく落ちる涙と一緒に、私達の周囲を埋めていくだけだ。
 視界は徐々に狭まって、私と彼がたった二人、世界から切り取られたようだった。混ざり合った血に指を沈めて、彼の身体に触れた。嗚咽が漏れて、頭がぐちゃぐちゃに掻き回されたようで、後悔と自責に苛まれ、けれど彼はもう戻らない。私のせい。私のせい。私のせい。そればかりで埋め尽くされて、どこにも隙間はなくなって、息が上手くできない。血で汚れた手袋でこめかみに触れる。私のものではないみたいに、ただ、熱い。
 彼が救えるんだったら私の命なんかあげるのに。
 ――だから、もしもこの時甲高いNIGOUの悲鳴が耳に飛び込んでこなければ。さっき校舎に侵入した侵校生がNIGOUを連れ去って北へと飛び立っていくのを見ていなければ、私はずっと面影くんの亡骸の傍を離れられなかったはずだった。
 NIGOUの声が、真っ直ぐ響く。



「やめてーっ! 本官は急いでるんだってばー! 早く保健室を直さなきゃ、皆が、皆がーっ!」



 NIGOUが敵に捕まりながらも暴れているせいで、空飛ぶ侵校生の軌道は酷く不安定だった。それを認識した瞬間、ぐらぐらの足に力を入れて立ち上がっていた。「助けてーっ!」どこにそんな力が残っていたのか、間違いなく私の足はもう使い物にならなかったのに、その一瞬だけは痛みも感じなかった。
 私の学生兵器は近距離向けで、投擲には向かない型のナイフなのは分かっていた。空を飛ぶ侵校生を打ち落とせる可能性なんか、ほとんどないってことも。だけどNIGOUを助けなくちゃと思ったのだ。NIGOUが保健室を直せるのなら、くららちゃんも、狂死香ちゃんも、面影くんだって生き返るはずだったから。――例え時間があまり残されていなかったとしても。
 だけど空に向かってナイフを投げる寸前、踏み込んだ足から突然力が抜けた。狙いを定めていたはずのナイフは逸れて、侵校生の影を掠めるだけだった。バランスが崩れ、侵校生の死体に身体を受け止められた。潰れた声が喉から漏れる。全身から血の気が引く。NIGOUが、連れ去られてしまう。
 まって。
 喘ぐような声が零れた。待って、行かないで。NIGOUを返して。連れて行かないで。



「――やだ」



 どうして私ってこんなに何もできないんだろう。足を引っ張って、面影くんを死なせて、折角のチャンスだってこうしてふいにしてしまう。
 泣いている時間なんかないのに、視界がぼやけた。お腹から何かがせり上がってくるような感覚があって、嗚咽が漏れた。どす黒い血まで一緒に吐いてしまって、もうどうしようもなかった。私には、何もできなかった。視界が段々狭まっていく。薄い闇に包まれる。
 ――誰か助けて。
 ずっと頭にこびりついていたそれを実際に口にしていたのかどうかは、自分では分からない。
 だけどその声は、確かに私のそれに応えるようにイヤフォンの向こうから届いた。私にはもう何も見えないのに、あの子の笑顔は確かにそこにあった。「ちゃん、安心して」って。彼女はそう言った。「プロレスラーはどんなにコンディションが悪くても、リングに立たなきゃ始まらない――」いつもみたいに。疲労も恐怖も、一切感じさせない声で。



「NIGOUちゃんはアタイが取り戻すわ!」



 もこちゃんはいつも燦然と光り輝いていた。
 私達を導く灯台のよう。戦うための強さも、包容力も、場を明るくする力も、もこちゃんはすべてを持っていたから、私達はきっともこちゃんに頼りきっていたね。並び立てるくらいになりたかった。今すぐじゃなくて、いつかでいいから。もこちゃんが安心して背中を預けてくれるくらいの人になりたかった。



「――世紀末破壊天女、喪白もこにまかせなさい!!」



 その言葉にどれだけ救われたか。
 私の目はもう何も映していなかったけれど――そうじゃなくても、南側で倒れていた私はもこちゃん達の姿なんて、見えるわけがなかったけれど、もこちゃんがどれだけ力を尽くしてくれたのか、ボロボロになりながらも戦ってくれたのかくらい、わかる。吸った酸素が、喉に張り付いた。ひ、って音がした。もこちゃん、って、祈るように思っていた。
 これは、だから、あとで希ちゃんに聞いた話だ。
 もこちゃんは北に残っていた侵校生を一人で一掃してしまうと、NIGOUを捕まえた侵校生を追った。北にある陣営にNIGOUは連れ去られようとしていたらしく、そこには姿を見せてから動こうとはしていなかった「部隊長」もいた。
 逡巡もなく敵地に単身突撃するもこちゃんは鬼神のようだった、って、希ちゃんは教えてくれた。学生兵器も、自分の身体も、その辺に落ちていた瓦礫ですら。彼女はありとあらゆるものを使って戦った、って。拳から血が出ても。どれだけの攻撃をその身に受けても。もこちゃんは決して倒れなかった。そしてNIGOUを捕まえていた侵校生が低空にまで下りてきたところを叩き落として奪い返すと、もこちゃんは自身を追いかけてきた希ちゃんに、「NIGOUちゃんをお願い」と、笑った。
 私達が零したものを、もこちゃんは全て掬い上げる。



「みんなを助けてあげて」



 希ちゃんは、本当は一緒に戦いたかったのだ。
 希ちゃんを安心させるために微笑んだもこちゃんの背には、奇妙な形をした、浮遊する部隊長の姿があった。厚い雲に太陽が覆われて、もこちゃんは薄い翳りの中にいた。彼女は一人で部隊長と対峙しようとしていた。NIGOUを抱きしめた希ちゃんに続けるもこちゃんの、柔らかな声。



「――お願い、希ちゃん」



 私の意識は遠のいていく。すべてが途切れ途切れになって、寄せては返す波のように、時折意識が点滅する。引き戻されて、覚醒しかけて、また消える。希ちゃんの走る音、喘ぐような呼吸音、NIGOUのすすり泣く声、その中に紛れるように響く何かの言語らしき音の羅列。聞き慣れないそれは、空気に溶けるように滲んで消える。「――え?」っていう、もこちゃんの息を飲む音。甲高い、耳鳴り。
 もう少し意識を保っていられていたら、この時何が起きたのかを正確に把握することはできたのだろうか。だけど、叶うはずなかった。私の五感の全ては、遮断されようとしていた。「もこちゃん」呟いた声に、もこちゃんが応えてくれることは、もうない。








 NIGOUを校舎に送り届けた希ちゃんが引き返した先で見た物を、私達は後に、作戦室のモニターで確認することになる。だけどもこちゃんの身に一体何が起きたのか、今も私達は分からないままだ。
 この日学園を襲った侵校生は全て倒され、「部隊長」は撤退した。だから私達は、最終的には学園を守り切ったことになる。NIGOUが修復した保健室の蘇生マシーンにより、くららちゃんも狂死香ちゃんも、面影くんも、無事に生き返った。壊された校舎も、防衛装置も、その修繕を終えた。けれどもこちゃんは行ってしまった。まるで身体を乗っ取られでもしたかのように、もこちゃんは浮遊する「部隊長」に寄り添って、自分の足でこの学園を去った。
 彼女に何が起きたのか、どこに行ってしまったのか、知っている人はどこにもいない。だけど私達の隣に、もうもこちゃんはいなかった。
 それだけは確かだった。


PREV BACK NEXT