北から敵の大勢力が襲来する一方で、南からの増援は減ってきている――NIGOUはそう言っていたけれど、面影くんとたった二人で戦わなければならない以上、いくら敵が減っていたとしても、さっきまでと同等、或いはそれ以上に厳しい戦いを強いられるのは予想できていた。
怪我を治療できる希ちゃんが傍にいなかったのも、苦戦の大きな原因だったと思う。面影くんが広範囲の敵に対応できるとは言え、こちらは敵の数に対して圧倒的に手が足りなかった。倒しきれなかった侵校生の攻撃を全て避けることは到底できず、負う傷は目に見えて増えていった。突き刺され、殴られ、切り裂かれ、どうして自分がまだ立っているのか不思議なくらいだった。手足がふわふわして、自分の薄皮一枚隔てた先に見えない膜があるような。面影くんに「ちゃん、あまり私から離れないで」って呼びかけられて、それで自分が突出していたことも分からないくらいに朦朧としていたことに気がつく。
私が立っている場所には血の痕がいくつもいくつも落ちていた。視界はぼやけて、自分の呼吸音だけがやけに耳についた。思考は霞みがかったように曖昧で、機械的に手足を動かしているようなものだった。面影くんに、一体何度助けられたか分からない。敵の攻撃を受ける直前で、彼はその背をまとめて切り裂いてくれた。私は間違いなく彼の足を引っ張っていた。手数という意味では私の存在はマイナスにはならなかったけれど、もしも南に残ったのが私じゃなければ、或いは私がもこちゃんくらいに強ければ、面影くんはもっと楽に戦えたはずだった。そんな風に、怪我を負う必要もなかった。
前線はじりじりと下げられて、何体かの侵校生が私達の攻撃を掻い潜ってバリアを生成する防衛装置に特攻していった。だけどこちらだけじゃなく校舎の北側でも苦戦を強いられているのは、音声を繋げなくても分かる。こちらの敵が防衛装置に自爆をしかけていない間も、校舎を覆うバリアに影響が出ていたのが目に見えてわかったから。
じじ、じじ、と、不安定な音を響かせながら、バリアに罅が入っていく。これ以上攻撃を受ければ、バリアは持たない。
「殺れ殺れ……向こうも手一杯ってことか……。あんまりのんびりしていられる状況じゃないみたいだね……」
喉の奥に流れた血で咽せて、面影くんの言葉に返事ができなかった。足に力が入らなくて、血が足りていないのがなんとなくだけど分かった。初めての感覚だった。十七年間、私はずっと守ってもらってばかりいたから。学校に通って、妹とくだらないことで喧嘩して、友達と買い物に行って、テストの点数に一喜一憂して――なんて幸せな人生だったんだろう。そんなことを、どうして今思うのだろう。
霞む視界の奥に、新たな侵校生の群れが見える。まだあんなに増援が残っているんだと思うと、気が遠くなる。この局面を乗り越えて生き残る自信なんか、ほとんどなかった。気力だけでなんとか立っていただけだったから。保健室の蘇生マシーンは、本当に使えるんだろうか。いや、使えたとして、今私が死んだら、戦線復帰するまでの三分間、バリアは破壊されずにいられるのだろうか。今この状況で誰か一人でも戦線離脱をすることがあれば、きっとその間に全部終わってしまう。
「バリアの耐久率が落ち始めている! みんな、お願い、頑張って……!」
作戦室に残って私達にそう訴えるNIGOUが直後「え……!?」と息を飲むような声をあげたとき、その不穏な空気に呼吸を止めて、目を瞑った。本当は、耳を塞ぎたかった。これ以上絶望的な状況に置かれることに、堪えられる気がしなかったのだ。
「レーダーに反応あり! 北に大型の……あれは……」
――あれは、部隊長だ。
中身をくりぬかれたような体積のないNIGOUの声が、耳に張り付いて離れない。
北が私達の想像しうる範囲で最悪の状況に陥っているらしいということは、直接その光景を目にしていなくても分かった。
NIGOUは酷く狼狽えていたし、通信機器でもこちゃん達に連絡を取ろうにも、向こうにいる皆は私の声に答える余裕もないようだった。皆が混乱する様子だけが耳から入ってきて、面影くんは「ちゃん、今は戦いに集中するんだ!」って私を叱ったけれど、それでも、皆の名前を呼ぶのを止められなかった。くららちゃん、希ちゃん、狂死香ちゃん、もこちゃん、って。誰も応えてくれなかった。私の声は、宙に浮いて落ちて行くだけだった。どうしよう、どうしよう、って、そればかりが浮かんでいた。
酷い戦いだったんだと思う。
「部隊長」とやらが、信じられないほどの大群を引き連れて現れた。大量の侵校生は飲み込むように北側にいた皆に襲いかかり、そして恐らく、皆の防衛戦が突破された。南にいる私達には、それしか分からなかった。
向こうのバリア装置が完全に破壊された、って分かったのは、校舎を守るそれが呆気なく砕け散ったからだ。バラバラと崩れ、消えて行く破片たちに息を飲んだ。「……あ」って、すかすかの声が漏れた。思考が完全に停止して、身体が動かなくなった。私達の前にもまだ敵はいるって、全てを倒したわけじゃないって、分かっていたのに。バリアが壊されても、私達は戦わなくちゃいけなかったのに。
「――ちゃん!」
だから、全部私のせいなのだ。
気がついたときには、彼はもう私の手を掴んでいた。手袋越しに爪が食い込むくらいの力で、面影くんは私を力任せに引っ張った。
足がもつれて地面に倒れ込んだのと、鈍い、骨が折れるような音が聞こえたのはほとんど同時だ。
砂にまみれながら顔を上げる。目で追えないほどの回転が加わった赤と青の弾が面影くんのお腹から地面に落ちたのを見たとき、声にならない悲鳴が喉から漏れた。身体を折り曲げ咳き込む面影くんの口から、血が溢れる。「お、面影く」反射的に涙が滲んで、声が掠れた。起き上がって駆け寄りたいのに、身体が動かない。
面影くんの学生鎧を、滲み出た赤黒い血が汚していく。「あはぁ……」掠れた吐息混じりの、面影くんの笑い声。歪んだ口元を拭った手の甲の白が、赤く染まる。
「……成る程ね、確かにこれは殺っかいだ……」
当たり所によっては、本当に穴が開いちゃうね? 彼はそう続けた。なんてことないわけないくせに、いつもの、平然とした彼の口調で。
それが酷い衝撃と痛みを伴っていることを、私は知っている。面影くんだって、ここに至るまでに怪我を負っていた。立っているのが、やっとだったかもしれなかった。なのに彼は私を庇ったのだ。もこちゃん達を心配して狼狽えて、こっちの戦いに集中できずにいた私が悪かったのに。私がそれを受けるべきだったのに。
「…………なんで」
みっともなく滲んで掠れたその声を、面影くんは拾ってくれたらしかった。血の気の失せた青ざめた顔で、彼は私を見る。彼は私を責めなかった。ただ私のことをじっと見て、「私のエゴかな……」って言った。
「……ちゃんが死ぬのを、私が見たくなかったんだ」
それに目を見開いた瞬間、ドン、と身体を揺さぶるほどの大きな音がして、思わず息を飲む。バリアが消滅したことを受けて、敵の狙いが私達から学園そのものへと移ったのだ。敵の攻撃は校舎へと集中する。集中的に狙われた三階の外壁は崩れ、内部が剥き出しになる。黒煙をあげながら、内臓を曝け出すように口を開けたそれに、私は今度こそ言葉を失った。
だって、そこが保健室だって、分かってしまったから。
NIGOUの悲鳴が、耳を貫く。「保健室が、保健室がーっ!」その叫びとほとんど同時にくららちゃんの悲鳴が聞こえたとき、まって、って、思ったのだ。だって、もしも今死んでしまったら。「くららちゃん!」希ちゃんの引き攣れるような叫び声に、背筋が凍る。
まって。まって、お願いだから。頭がざわざわする。手の平をついて立ち上がろうとするのに、身体に上手く力が入らないのだ。嫌だ。まだ戦わなきゃいけないのに、守らないといけないのに、そうしないと全部終わっちゃうのに、身体が言うことをきかない。
目の前を侵校生が駆け抜けていく。校舎に侵入しようとしている。「まって」漏れた声が、侵校生の鳴き声に潰される。繋がったままの通信機から、狂死香ちゃんの呻き声が聞こえた。私の嗚咽が彼女の呼吸が消えて行くのをかき消した。嫌だ、嫌だ、なんでこんなことに? 剥き出しになった保健室は眠ったように静まっていて、死体を回収するドローンは動き出す気配もない。破壊されてしまったのだ。きっと、さっきの攻撃で。
生き返ることも、私達はもうできない。
「く、くららちゃん、狂死香ちゃん……!」
希ちゃんのすすり泣く声だけが、微かに聞こえていた。「ごめんね、守れなかった……!」それはこちらへの通信だったのか、懺悔だったのか、私には分からない。それでも彼女は、学園を守ろうとしていた。絶対にここは通さない、って、彼女は言った。もこちゃんだって、諦めてはいなかったのだ。私もそうしなくちゃいけなかった。特防隊の一員として。だけど、どうしたらこの身体は動くんだろう。くららちゃんと狂死香ちゃんが死んでしまったこと、ここから学園を守り切る術が浮かばないこと、恐らく私も面影くんも、このままここで侵校生に嬲り殺されるだろうこと。そして、そうなればきっともう生き返ることもできないこと。人類が、負けること。考えただけで視界が狭まって、呼吸が浅くなる。思考がまとまらない。どうしたらいいのか、わからない。
「…………でも、こっちの増援はもうないみたいだよ」
――不意に面影くんが呟いた言葉に、顔を上げた。
目の前の敵に必死すぎて気がつかなかった。確かに面影くんの言う通り、校舎の周辺に群がる侵校生を除けばもう他に敵はいなかった。
「今校舎に群がる侵校生を殺っちゃえば、少なくともこっちからの侵入は防げるはずだ……」
「…………で、でも、どうやって……!」
「……そうだねぇ……」
選択肢は、限られていた。
視界に映る面影くんの足は微かに震えていたし、私はナイフに手を伸ばすのがやっとで、もうトドメを刺しにきた侵校生と刺し違えるくらいしか一矢報いることはできそうになかった。握りしめたナイフに力を入れて、どうにか上半身を起こす。手袋越しに砂を掻いて無理に身体を支えたら、爪が割れたような感触があった。ぎゅう、と目を閉じて、息を止めて、どうにかその姿勢から立ち上がろうとしたときだ。面影くんに、制されるように肩に触れられたのは。
「だぁめ」
防衛バリアの消えた第二防衛学園は、黒煙をあげて沈黙していた。
酷い戦いだった。敵の数は膨大で、その上私達の戦力を分断する形で戦略的に追い詰められた。校庭は誰のものか判然としない血で塗れ、侵校生の死体で埋め尽くされていた。
面影くんのお腹からは、今も血が止まることなく溢れ続けている。ぼたぼたと、地面に染みを作り続けている。私が負わせた。私が傷つけた。私のせいであなたは死ぬ。自然と目から零れた涙を、面影くんは指先で拭う。光が滲んで、面影くんの顔だけが、はっきりと見えた。眼帯で隠された下の、細められた目。彼の前髪が作る、庇のような影。
「私はタダでは死にたくないんだ」
言い聞かせるような響きを持った声は私の隙間に入り込んで、空いた穴を埋めるように優しい。「面影くん」名前を呼びたいのに、声が出ない。
「だから、どうせ死ぬんだったら、ちゃんを守らせて死なせてよ」
やめて。
確かに口にしたはずだったのに、面影くんは彼の学生兵器である一対の短剣を構えると、そのまま校舎へと向かって大きく踏み出した。やだ、やだ、やめて、まって。言いたいことはたくさんあった。保健室が壊れたの、見たでしょう。くららちゃんも、狂死香ちゃんも、ドローンが救い出してはくれなかったでしょう。面影くんまでいかないで。だって、そんなの、酷い。ありがとうも言えてない。ごめんなさいも。
私だって面影くんが死ぬところなんか、見たくなかった。
だったらかわりに、私が死ぬから。
「――待って! やだ! 面影くん!!」
やっと吐き出せたその声は、聞けたものじゃないくらいしゃがれて、酷く醜い音だった。面影くんが校舎への侵入を試みようと扉の前に固まっていた侵校生目掛けて、最期の力を振り絞るようにその腕を伸ばしたのを、私は確かに見たはずなのに、全ての敵を薙ぎ払い殲滅させた彼が糸が切れたように地面に倒れたその瞬間だけは、世界が灼けるように白んで、どこまでも曖昧だ。