その警報は、朝のアナウンスが鳴った直後に学園中に響き渡った。
これと全く同じ警告音を聞きながら、流れ作業のように東京団地の地下シェルターに身を潜め、漫然と時間が過ぎるのを待っていただけだった過去の私は、一体どれだけお気楽な人間だったのだろう。あの頃はどうしてそんな警報が鳴るのか、自分達が一体何から隠れているのかも分からなかった。それが日常だったから。長い螺旋階段の続く頑丈なシェルターの底に並んだパイプ椅子に座って、一切の恐怖を感じることもなく、ドラマの話とか、友達の彼氏の話を聞いて笑っていたのだ。「早く外に出たいね」とすら、口にしあって。
日常の中に当たり前のように横たわるそれは、私達の思考を停止させていた。人類の敵が存在するなんて、誰も知らなかった。
「敵勢力侵入。敵勢力侵入。当区域に敵勢力からの攻撃を感知。ただちに、防衛モードを展開します。至急、防衛戦の準備に取り掛かってください――」
この学園のありとあらゆる場所に設置されたスピーカーとモニターから、耳障りな警告音が流れ続けている。部屋のモニターは赤く点滅して異常を知らせ、一瞬の思考停止に陥った私を急き立てる。
十日目の朝だった。いつも通り早起きして洗濯を終えて、トレーニングの時間までと部屋でのんびりしていた私は、その音に弾かれたように顔を上げ、微動だにできずにいた。
二日目以降敵の侵攻はなかったとは言え覚悟はきちんとしていたはずだったのに、実際にこうして侵校生の襲撃を知らされると、萎縮してしまう。心臓は警報音がかき消えてしまいそうなくらいに煩く鳴って、視界がぐるぐるして、手が震える。――だけど、ここでこうしてじっとしているわけにはいかない。私は特防隊だから。
「……い、いかなきゃ……!」
鳴り響く警報音の中、両頬を軽く叩いてからどうにか立ち上がって、部屋の扉を開けた。
目を凝らしてみればついさっき私が干した洗濯物のはためくフェンスの向こう、遥か遠くに、侵校生の群れが見えた。隊列らしき隊列もないまま、ほとんど特攻でもするようにこちらに向かってくるその大群に、背筋が粟立つ。急がなきゃ、と思った。防衛戦の準備をしなければ。あれらがここに到達する前に。
校舎の階段を慌ただしく下りていく数人の足音に気がついて、私もつられるように駆け出して――だけど走りながら、あ、と声を漏らした。
階段へと続く扉の壁に、希ちゃんがその半身を預けるように寄り掛かっているのが視界に入ったのだ。
もこちゃんに支えられるようにしながらぐったりと項垂れる希ちゃんの顔は、ここからでは良く見えない。
「の、希ちゃん、どうしたの!?」
何か大変なことがあったのかもしれない。お腹が痛いとか、熱があるとか。慌てて傍に駆け寄ると、希ちゃんは酷く青ざめた顔をしていた。「ちゃん」掠れた声が私を呼ぶ。いつもの希ちゃんのものよりずっと弱々しいそれに、動揺してしまう。
「ごめんね……。わたしのことは気にしなくていいから……ちゃんも、くららちゃん達と先に行ってて……」
「行っててって言われても……! ねぇ、もこちゃん……! 希ちゃん、体調でも悪いの……?」
彼女の背中を摩るもこちゃんに尋ねると、もこちゃんはうーんと唸って、それから口を開いた。
「……それがね、希ちゃん、この音が苦手なんですって」
「音…………?」
さっきから鳴り続ける警告音を示すように、もこちゃんはすぐそこにあるモニターを指差した。液晶は未だ赤い点滅を続け、私達に異常を知らせている。ファーン、ファーン、って、身体に響く音を吐き出し続けている。――これが苦手、ってことなのだろうか。
希ちゃんは眉尻を下げて、力なく笑った。
「情けないよね、ごめん……。ちょっとドキドキしちゃうだけなんだ。……音が止まったら落ち着くから……大丈夫だよ……」
「って希ちゃんは言ってるけど、そう言われても心配よねえ? ちゃん」
「うん、心配だよ……!」
そう言えば、二日目に敵の侵攻があったときも、警報音を聞いた希ちゃんは酷い顔色で身を竦めていた。あの時も、彼女はこの音に一人で堪えていたんだろう。それに気がつけなかったことが申し訳なくて、無意識に唇を噛む。
じっと堪えるように目を伏せている希ちゃんの肩をもこちゃんと一緒に撫でているうち、だけど、その音は徐々にフェードアウトして、消え入るようになくなった。呆気なかったけれど、希ちゃんからしたら、耐えがたい数分間だっただろう。だって私からしたら金属同士を擦り合わせるような音とか、黒板に爪を立てたりする音をずっと聞かされているのと一緒ってことだから。…………ちょっと違うかな。そういう感覚っていうのは、理解した気になっているだけ、ってことも往々にしてあるから。本当の辛さは多分、希ちゃん本人にしかわからない。
だけどその音が消えてようやく、張り詰めていた緊張感が希ちゃんの中で切れたらしい。細く長い息を、希ちゃんはゆっくり吐き出す。
「はぁ……ごめんね、二人とも……。もう大丈夫そう……」
「めちゃくちゃ青白い顔してるじゃない! 希ちゃん! アタイらに嘘は通用しないわよ!」
「そうだよ……嫌いな音を聞かされるの、結構ダメージだよ……!」
その時、もこちゃんが希ちゃんの前に急に腰を落とした。背中を向けて、両腕を広げて、「乗って!」って、もこちゃんは言う。
「え……」
「こんな生まれたてのバンビみたいに足が震えた希ちゃんを急がせるのは危ないわ。階段から落ちちゃっても困るしね! アタイがおんぶで作戦室に連れて行ってあげる!」
「え、だ、大丈夫だよ、もこちゃん、そんなことしてもらわなくても……!」
「この世紀末破壊天女喪白もこにまっかせなさーい! 作戦室まで、快適な旅を約束するわよー!」
助けを求めるように希ちゃんは私を見たけれど、こうなったもこちゃんは無理矢理にでも希ちゃんをおんぶするってこと、私は経験上知っている。だって、五日前だってそうだった。私達が三人で学園の外に出たあの日。歩けるよ、って言っても、もこちゃんは絶対に私を下ろしてくれなかった。
希ちゃんだってきっと、それを思い出していたのだ。
希ちゃんの視線に首を傾げて笑う私に、希ちゃんはとうとう、観念したように息を吐いた。
「もう……。作戦室なんて、すごく近いのになぁ……」
いつもの彼女のものより少しだけ子供っぽく響いたその声。
希ちゃんは、そうっともこちゃんの背中に身体を預ける。彼女に全幅の信頼を寄せるように。フェンスの向こうには、侵校生の大群が近づいてきていた。この学園を、攻め込もうとしていた。出遅れてしまった私達は弾かれるように屋上を飛び出して、空っぽの洗濯機の横をすり抜けて、それから急いで階段を駆け下りる。希ちゃんがもこちゃんにしがみついて、「きゃ」って小さく悲鳴をあげる。でも、もこちゃんは決しておぶった人を振り落としたりしない。例え誰かにぶつかっても、絶対に。
磨りガラスから階段に伸びた光は、こんな時なのに、確かに私を満たしていた。空気中の塵を反射させるそれの、なんという美しさ。最後の三段を、ジャンプで飛び降りる。希ちゃんを背負ったもこちゃんも。爪先に伝わる床板の感触に、その時靡いた二人の髪に、どうして泣きたくなったのだろう。全部スローモーションに見えた。そこにある全てのものを一滴も残さず脳が掬い上げでもするように。
「あの警報音、いっそもっと別の音にならないかNIGOUに相談してみましょうよ!」
作戦室へと続く廊下を曲がりながら、もこちゃんは言う。
「わ、いいねそれ。敵がきたよーってのが分かればいいんだもんね! 何か別の音楽とかじゃ駄目なのかなあ? 緊張感が欲しいなら、メタルとかでもいいし……」
「ふふ、それだったらわたしもドキドキしなくて済むかも」
「アタイは勿論肉を焼く音……と言いたいところだけど、入場曲が良いわ! 数々の伝説の試合を思い出して、滾っちゃうもの!」
「えー! 私それ聞いてみたい!」
「もし音源がこの学園になかったら、アタイが歌っちゃう! 侵校生へ捧げる鎮魂歌よー!」
――予感があったわけじゃない。
何かを意識してこんな話をしたわけじゃなかった。戦いに赴く私達を高揚が包み込んでいて、そして私自身は意図してそこに身を投げ恐怖から目を逸らしていたっていうのは、きっと間違いではないと思うけれど。
でも好きな音楽の話とか、ご飯の話、苦手だった教科、普段の会話に挟み込まれる細やかなそれらと、一体何が違ったっていうのだろう。どうして私達はこの時、もこちゃんとこんな話をしたのだろう。戦いが終わった後の話なんて。
作戦室に飛び込んだ私達を、くららちゃんは「おっそいわよアンタ達!」って叱った。狂死香ちゃんが「二人の我駆力刀でござる!」って私ともこちゃんの分の我駆力刀を手渡してくれて、面影くんは「うふふ……仲良しだよね、三人とも」って薄く笑っていた。「はやくはやく! もう大分危ないところまで攻め込まれちゃってるよー!」って慌てるNIGOUに謝って、私は我駆力刀を握り直す。
モニターには、二日目よりもずっと大量の侵校生が映っていた。思わず身体を硬くする私に、希ちゃんを床に下ろしたもこちゃんが言う。
「大丈ブイよ、ちゃん! 皆も!」
もこちゃんは私のヒーロー。
「何があっても、アタイがぜーったい守ってあげる!」
もこちゃんと過ごした十日間は瓶詰めされて、私達はいつまでもそれに囚われたままだ。