目を覚ますと、部屋の入り口近くにある洗面台で軽く身だしなみを整える。顔を洗って、髪を梳いて、それから前日のうちにまとめておいた汚れ物を両手に抱え、部屋の外に出る。
昇りはじめたばかりの陽は雲の切れ間から端々をやわく照らし、フェンスはその繊細な網模様の影を、地面にひっそりと落としていた。歩く私の足にまで、切り絵のようにそれは伸びていた。
東京団地の早朝と違うのは、空気に人間の営みが作り出す匂いが混じっていないことだ。ご飯の匂いとか、車の排気ガスとか、そういうものがない。死にかけの地上にはきっともう私達と、どこか遠い場所にいるらしい私達とは別の特防隊の人達しか人類がいないのだ。だからこんなにも、音がない。
こっそり息を吸う。この付近は一帯が砂っぽく、めいっぱい空気を吸い込んでしまうと咽せてしまうけれど、芳醇な土の匂いは五感を冴え渡らせてくれた。皆がいる賑やかな学園も好きだけど、この清かな空気も同じくらい好きだった。上手い具合にこの環境に馴染んでいるってことなんだと思う。それは決して、悪いことではない。
皆を起こさないように、足音を立てないようにしながら屋上を歩く。階段に続く扉を空けて身を滑り込ませると、校舎の薄暗さに目を慣らすため、軽く目を閉じた。朝の五時。皆が起きてくるまで、あと二時間はある。
四台ある洗濯機がこの時間に動いているところは、今のところ見たことがなかった(誰かの洗濯物が忘れられたまま放置されているようなこともないのは、個々人のきっちりとした性格故だと思う。私はうっかり干すのを忘れていて、トレーニングの後にくららちゃんに「ちょっと! アンタ洗濯したの忘れてんでしょ! パンツカピカピになるわよ!」って皆の前でどやされたことがあるけれど。あの時は面影くんにも聞かれてしまって、ちょっと本当にどうしようかと思った)。
今日も案の定、全ての洗濯機が静まりかえっていた。特に理由もないまま毎回使っている左から二番目のそれにぽいぽいと洗濯物を投げ込んで、両手で閉める。備え付けの洗剤と柔軟剤を規定量入れて、セットする。これから洗濯を始めますよっていう合図の、有名なソナタのメロディが、空間に浮かんで消えるように流れていく。たーん、たんたんたーん、たたたーん。誰も居ないから、小さな声で一緒に歌う。
洗濯中は貼っておくことって皆と約束してある付箋を、私は毎回捨てずに洗剤の棚にこっそり紛れ込ませていた。書き直すのが面倒で使い回しているそれはもう粘着力がほとんどなくて、扉部分に貼っては何回か落下させてしまう。それで仕方なく、新しい付箋を書き直した。名前だけで良かったのに、ぼんやりしていたせいかフルネームで書いてしまった。。私になじんだその名前。
それを認識した瞬間、泡が浮かんで弾けるように、脳内にいろんなものが閃いては消えて行った。お父さんの日焼けした手。先生が怖くてすぐやめてしまったピアノ。窓硝子に反射した陽の光が、足元に滲むような円を作っていた。シールの痕が残るテーブルの足。光の粒が浮かぶ透明な花瓶。テーブルに広げたままの化粧品。レースのカーテン。もう妹だって見向きもしないお人形。傷んだ本の背表紙。キッチンカウンターに引っかけられたお母さんのエプロン。あの日「またね」って手を振った友達のリュックサックについていた、犬のぬいぐるみ。お母さんの声。
――皆は元気にしてるかな。
あの惨事を、ちゃんと生き延びられたかな。
最後に見た東京団地の映像が、瞼の裏を容赦なく駆け巡る。普段意識的に考えないようにしていた疑問と恐怖が頭をもたげて、そのままそれに支配されそうになって、咄嗟に洗濯機に手をついた。
「わ~……」
微弱な振動に紛れるよう、小さく声を漏らす。大丈夫。大丈夫。ドキドキと鳴り続ける心臓を落ち着かせるよう、そう言い聞かせる。
NIGOUが東京団地は大丈夫だと言ったのだから、皆だってそれを信じているのだから、私もそうと思い込むしかないのだ。信じて、今は侵校生と戦うしかない。今の私がすべきことは、第二防衛学園を守ること。世界死を止めること。東京団地のみんなが、生き延びられるように。例え目を塞いでいるだけだったとしても。
皆は無事だって。今まで通りの生活を送れているって。この百日が終わったらまた会えるって。そう信じていないと、私も、皆も、きっと戦えない。
ここでの暮らしも、もう九日目だ。
この第二防衛学園に侵校生が攻め込んできたのは、二日目の朝だけ。五日目にもこちゃんと希ちゃんと一緒に外に探索に出て侵校生と戦って以来、私達が我駆力刀を使わなければいけないような事態にはならなかった。実に平穏な日々だった。
日課のトレーニングは相変わらず続いていて、皆は日に日に力をつけている。面影くんと狂死香ちゃんは頻繁に手合わせをして互いの動きを学ぼうとしているし(狂死香ちゃんが面影くんの「ゴムゴム」を間近で見たいだけ……っていうのは、彼女の興奮した声からもちょっと否定できなかったけれど)、希ちゃんは体力作りに余念が無くて、私と一緒に外を走ったり、ストレッチにつきあってくれる。くららちゃんは一日に一回はもこちゃんに模擬戦を申し込んでリベンジを果たそうとしていて、まだ勝ち星をあげられないまでも、「やるわねくららちゃん! パンチが最初の頃よりずっと速いし重いわ……!」ともこちゃんに言わしめるほどだった。
誰かがサボって空気を悪くするようなこともない。変わった人が多いけれど、どうしてか上手く噛み合っているみたいで、喧嘩をしたり険悪なムードになったりすることもない。……多分、皆大人なんだと思う。こんな特異な集団生活でも、折り合いをつけることが、きっと、上手だった。
だけど多分それは、皆の中に共通意識があったからだ。戦わなくてはいけないっていう、意思のようなもの。私達は皆侵校生との戦いを受け入れていて、誰かがこの戦いに疑問を呈するようなこともなかった。勿論全てを理解していたわけではない。ただ分からないことは考えたって仕方がないから、今は戦うための力を蓄えるしかないと、全員が思っていた。考えて時間を無駄にするくらいだったら、今は戦いに備えるべき――そういう考えがほとんど暗黙の了解として、私達には浸透していたのだ。
そんな中でも一つ懸念があるとするならば、例の「SIREI」と未だに連絡がつかないらしいことだろう。
NIGOUはその件については早い段階で私以外の皆にも伝えていて、あれ以来どうにも進展がないことも、きちんと共有してくれていた。心配は心配だけど、どこにあるかもわからないもう一つの学園の様子を見に行くわけにもいかない。「万が一作戦の行く末を左右するような致命的な問題が向こうで起きていた場合は流石に何らかの連絡があるはずだから、とりあえず様子を見ようと思っているけど……恐らく向こうの通信機器の調子が悪いんだろうね!」と笑うNIGOUは楽観的なようにも思えたけれど、実際待つ以外の選択肢を思いつかなかったから、どうしようもなかった。
いつ侵校生が来ても大丈夫、なんてことは私には言えなかったけれど、でも、日々のトレーニングやこの間の戦闘を経て、自信がついたことは間違いない。もこちゃんの言う通り、私に必要だったのはやっぱり経験だったのだろう。
もこちゃんは、ムードメーカー。
私達を満遍なく照らしてくれる、お日様みたいな存在。強くてかっこよくて、可愛くて、いつもニコニコしている。周りを良く見て、気遣ってくれて、正しい方に導いてくれる。
「肉は完全食よ! ちゃんももっと食べなきゃ! 身体を絞る時でも増やす時でも、いつ何時誰の肉でも食べるのよー!」
もこちゃんは私のお皿にお肉を入れてくれたり、「昨日の夜、ちょっと寝付けなかったんだ」って話していた希ちゃんに、「そういうときはコレね! 寝る前に舐めると熟睡できるわよ! お肌にも良いしね!」って蜂蜜を勧めたりしていた。後で希ちゃんに聞いた話だけど、その日の夜、もこちゃんは希ちゃんの部屋にやって来て、希ちゃんが眠りにつくまで隣でプロレス談義をしてくれていたらしい。びっくりするくらいすんなり眠れちゃった、あんなに熟睡できたの、久しぶりだったよ、もこちゃんのおかげ。そう言って笑う希ちゃんも、もこちゃんが大好きだった。
希ちゃんだけじゃない。いつも模擬戦をせがむくららちゃんも、もこちゃんの武勇伝を聞いて感動の涙を流す狂死香ちゃんも、きわどい話をしては怒られる面影くんも、勿論私だって、皆もこちゃんが好きだったのだ。
もこちゃんは私達の太陽。
十日目の朝に侵校生の侵入を報せる警報が鳴り響いた時も、もこちゃんがいなくなってしまうなんて、思っていなかった。