「アンタ達それ……どうしたのよ!?」
「殿! 怪我でもしたでござるか!?」
扉が開いて、一歩学園内に踏み込むか踏みこまないか――そういうタイミングで響いたその声に、思わずもこちゃんの背中の上で肩を跳ねさせてしまった。玄関ホールには、大鈴木さんと凶鳥さんがいたのだ。
私がもこちゃんに背負われていることに、二人はよっぽど驚いたのだろう。私達に駆け寄る大鈴木さんのトマト頭に浮かぶ表情は明らかな狼狽を見せていて、何だか申し訳なくなってしまう。
「二人とも、待っててくれたの?」
「はぁ!? 別に待ってないわよ、偶然通りかかっただけに決まってんでしょ!?」
「え、でもくらら殿、そろそろ三人が帰ってくるはずだからって、拙者達、一時間も前からここにいたよね……!?」
「うるっさいわね! そんなことより怪我してんじゃないかって聞いてるでしょ!? 質問に質問で返すんじゃないわよ! ほんっとアンタって愚民ね!」
「ぐみん……」
天井の高い玄関ホールは大鈴木さんの声を吸収せず、めいっぱい響かせる。「落ち着いて、くららちゃん」って言ったのは、もこちゃんだった。
「大丈夫よ。ちゃんに怪我はないから! アタイが好きでおんぶしてるだけ!」
「はぁ? どういうことよ。無傷なのにもこにおんぶさせてるわけ?………………、アンタまさか、顔に似合わずそういう気質の女だったってこと?」
「なんと……!? 殿は女王様だったでござるか……!? 屈服させるのが趣味の……!?」
「ち、ちがうよ!? 怪我はしたの! でろでろのぐちゃぐちゃになるような怪我はちゃんとしてたの! 骨まで見えちゃってたの! ね、希ちゃん!」
「うん……。それに、さっきまでちゃん、ずっと意識がなかったんだ。だから……」
「……へぇ?」
突如として会話に混ざった低い声に、びくりと背を伸ばす。
いつの間にそこにいたんだろう。いや、いつの間に、っていうか、多分最初からいたんだ。私達が気がつかなかっただけで。
面影くんは私達の背後に立っていた。手を顎のあたりに添えて、眼帯のしていない方の目を軽く細めて、もこちゃんにおぶわれている私の背をじっと見ていた。その視線に、心臓が妙な跳ね方をする。思わずもこちゃんに回した腕に力を込めて、身を硬くしてしまう。
面影くんはそんな私に構わず、左の肩口、学生鎧が破けたそこをまじまじ見て、それから小さく首を傾げた。
「ちゃんの骨かぁ……いいなぁ、私も見たかったなぁ……。血と肉も混じって、すごくエッ…………セクシーだったんだろうな……」
ちゃんって、骨格も綺麗だし――恍惚とした彼の声と表情に、「おわ……」と声が漏れる。
もこちゃんが「ちょっと男子―! セクハラよー!」と叫んで私を守るように面影くんに向き直ってくれたけれど、あまりの勢いに遠心力で吹っ飛ばされそうになって、悲鳴をあげた。
だから、誰が悪いとかはないんだと思う。ぶつかってしまった私が言うことではきっとないんだろうけれど。もこちゃんの身体ごと大きく回転した私のお尻は、丁度何かに勢いよくぶつかってしまった。痛くはなかったのだ。ただ、ぶつかられた方がとんでもない衝撃だっただろう、ってだけで。
「ぶっ」
その声を聞いたとき、血の気が引いた。
もこちゃんの背中にしっかりおぶわれたまま、私は身を捻って背後を確認する。玄関ホールの硬い床、そこに倒れる人影に、「ごめん、お尻当たっちゃった!! 大丈夫!?」って声をかけた。私のお尻に運悪くぶつかって吹っ飛んでしまった、恐らく、本当に恐らく、大鈴木さんと思われる人に。
すぐさま断言できなかったのは、トレードマークのトマトマスクが彼女の頭になかったからだ。視線だけを彷徨わせて、緑のトマト頭がごろごろと音を立てながら床を転がっていくのを見る。緩く回転する巨大なトマトは、やがて靴箱にぶつかって停止した。
誰も口を開かなかった。皆、どうしたらいいかわからずにいた。うつ伏せになって倒れたその女の子が呻き声をあげながら身体を起こしても、尚。
「う、うぅ……」
その子は、間違いなく大鈴木さんだった。だって彼女以外は全員立っていたし、そうじゃなくてもその華奢な体格は、彼女以外になかったから。
大鈴木さんなのだろう少女は、誰に視線を合わせることもなくふらふらと宙に彷徨わせると、やがてその丸くて大きな瞳を潤ませ、「うっ……ふ、ふえぇ……」と可憐な声で泣いたのだ。
「アタシの、マスク、どこぉ……!?」
あの傲岸不遜なトマト頭の下から、気弱そうな、儚い面立ちをした金髪の美少女が現れるなんて、きっと誰も予想していなかった。
「へぇ……。それでちゃんは怪我をしてしまったわけか。殺っかいな侵校生もいたもんだね……」
食堂の真ん中にあるだだっ広いテーブルに座った私は、隣の面影くんの言葉に小さく頷く。
「その侵校生ともね、結構距離があったんだよ。あんなところから攻撃されるんだーってくらい。こういう丸い……野球ボールくらいのやつを投げられちゃったみたいなんだけど、すっごい衝撃だった……。身体に穴が開いたかと思ったもん……」
喜ばせようと思って言ったわけじゃないのに、面影くんがそれを聞いて「うふふ……穴かぁ……。イイねぇそれ……」って言うから、反応に困った。さっきの骨の件と言い、面影くんは時々変なところで興奮する。
当初の予定通り、廃墟付近を彷徨いていた侵校生の群れを襲撃し、一帯にいた敵は殲滅させたこと。だけど離れたところに居た新型の侵校生からの攻撃で私が負傷してしまったこと。もこちゃんがそれを倒したこと。希ちゃんの人工学生兵器により、怪我の治療に関しては無事に済んでいること――バタバタしていたものだから皆が望んでいたものを探してくる余裕はなかったことを伝えると、凶鳥さんは露骨に残念がりながらも、「いや、ジャンプがないのはまことに残念でござるが……三人が無事に帰ってきてくれたことだけで充分でござる! ね、聖十文字刀?」と腰にさした刀を愛おしそうに撫でた。
「だけど、希ちゃんが私達の怪我を治療する術を持っている……っていうのは、今後の防衛戦でも有利に事が運べそうだよね」
「そうよね! アタイもこれで安心して敵に突っ込めるわー!」
「あはは……でもあんまり無茶しないでね、もこちゃん……。今日だって当たり所が良かったから治せただけで、そうじゃなかったらちゃんも危なかったんだから……」
「そうだよもこちゃん……! それに怪我だってすっごい痛いんだよ……!? 希ちゃんのおかげでなんとかなったけど……」
「もちのろん! 状況の把握はプロレスでも大事なことだもの! 攻めるときは攻める、守るときは守る! アタイのパワーで侵校生を押し潰すわよー!」
「――押し潰すのは良いけど、さっきみたいに味方まで吹っ飛ばすのはもう勘弁してよね」
不意に背後から声をかけられて振り向くと、そこにはさっきまでキッチンの方にいた大鈴木さんが湯気の立ち上るお皿を持って、呆れたように私達を見下ろしていた。勿論、さっき外れてしまったマスクは既に彼女の頭にある。見慣れた大鈴木さんの姿に、ついほっとしてしまった(しかし、慣れって恐ろしい。「なんでトマト?」ってうっかり口にして大鈴木さんを不快にさせたのは、つい最近のことのはずなのに、今の私はもう大鈴木さんがトマトを被っていないと、逆に落ち着かないのだ)。
「やーん! さっきは本当にごめんね、くららちゃん! 怪我がなくて良かったわ!」
「フン、いいわよ、別に。済んだことだし。……それよりアンタ達、お腹空いてんでしょ?」
「え、すっごい空いてる!」
「わたし達、結局お昼ご飯は食べてないもんね……」
「そうだろうと思ったわ。アンタ達には特別に、進化の帰結たる究極の大鈴木カレーを食べさせてあげるわ。喜びに打ち震え、感謝に噎び泣き、ゲロを吐いて崇め奉りなさい!」
「進化の帰結たる究極の大鈴木カレー……!?」
「ええと……大鈴木さんが作ってくれたの?」
希ちゃんの言葉に、大鈴木さんは「当たり前でしょ」と頷くと、彼女は私ともこちゃん、希ちゃんの前に、カレーの入ったお皿とスプーンをならべてくれた。「アタシが給仕してあげることなんか、十年に一回もないんだからね」って言いながら。
食堂に入ったときからずっとカレーの良い香りがしていると思ったけれど、どうやらこれは自動調理マシーンによるものじゃなくて、大鈴木さん本人が作ったものだそうなのだ。何でも大鈴木家に伝わる一子相伝のカレーレシピがあるんだとか。昨日の夜から丹精込めて大切に育てあげ、繊細な火加減で丁寧に煮込んで、冷蔵庫で一晩優しく寝かしつけて完成した、大鈴木さんの愛の結晶――大鈴木さんはそう説明してくれた。
フルーティーなルーに混じる深いスパイスの香りに、無意識に涎がわく。
「そ、そんな大切な我が子みたいなカレー、いただいていいの……!?」
「ちょっと、アンタカレーに涎垂らすんじゃないわよ!? あのね、これはアンタ達に食べさせてやるために作ったの! 良いからさっさと食べなさいよ!」
「うふふ……私と狂死香ちゃんはさっきいただいたよ」
「うむ! とんでもなく美味だったでござる。あまりの感動で拙者、服が弾け飛ぶところだったでござる……」
「当たり前でしょ! 服どころか内臓まで弾け飛ばしなさいよ!」
「内臓まで!?」
お皿に盛られたカレーは、お米の部分とルーの部分が綺麗に別れていた。ゴロゴロのお肉と野菜は断面まで綺麗でピカピカしていて、まるで作り物みたいに綺麗なのに、食欲をそそる香りが空腹中枢を刺激する。
もこちゃんと希ちゃんと顔を見合わせて、それから三人で「いただきます!」って手を合わせた。スプーンを片手に、ご飯とルーが重なったところをそっと掬う。ツヤツヤのニンジンと、真っ白なお米、それからルーのコントラストが、息を飲むほどに綺麗。
――大鈴木さんは、マスクを外したさっきの気弱な姿こそが本来の自分なのだと、食堂までの道中で私達に話してくれた。
大鈴木家の嫡女として周囲から期待され続けるプレッシャーに、元々の気弱な彼女は堪えられなかったそうなのだ。それでも彼女は逃げるわけにはいかなかった。トマトのマスクを被り、別人格の――自分の思う理想の大鈴木くららを演じていた。財力でも腕力でも魅力でも、常に頂点に立たなければいけなかったから。大鈴木家の人間に求められるありとあらゆるものを、彼女はその手に持たなければならなかったから。
「本当のアタシは気弱で泣き虫で人見知り。嫌なことから逃げてばっかりで、言い訳を並べたてて……そういうどうしようもない性格だった。どうにかして自分を変えたかったの。……でも、マスクがないとやっぱりダメね。我ながら情けないわ」
苦虫を噛み潰すような顔でそう吐き出した大鈴木さんに、だけど私は初めて親近感を覚えていたのだ。
この子も私と同じなんだ、って。
本当は自信がなくて、怖がりで、だけど強くあろうと努力している。苦悩を抱えて、虚勢を張って、迷いながら進もうとしている。生い立ちは違っても、目指す場所も違っても、それでも私には、大鈴木さんの気持ちがよく分かる。
スプーンで掬ったカレーを口に入れたその瞬間、大鈴木さんへの思いとか、今日一日の疲労とか、恐怖とか安堵、そう言ったものがカレーに混じり合って、うっかり泣いてしまいそうだった。口の中に広がる深みのある味わい。野菜が口の中で柔らかくほどけて、鼻を通り抜ける香りに舌が熱を持った。世界の端まで、キラキラ輝いて見えた。
もこちゃんと希ちゃんが、口を押さえて声にならない声をあげる。おいしい、って、その目が言っている。私だってそう、こんなカレー、食べたことない。
目を大きく瞬かせて、思わず天井を仰ぐ私に、大鈴木さんは笑う。
「服でも内臓でも弾け飛ばしても良いわよ?」
「そうそう! 服が弾け飛んでもご都合の光が大事な部分は隠してくれるから、安心するでござるよ、殿!」
二人の言葉は、どうしてか私の隙間に入り込むみたいで、泣いたら良いのか笑ったら良いのかも分からない。少し変わっているけれど、面白い人達だと思う。好きだ、とも。
口に含みっぱなしだったカレーを丁寧に咀嚼してから飲み込んで、「すっごくおいしい、何かお返ししなくちゃって思うくらい」って笑ったら、大鈴木さんは「フン」って鼻を鳴らす。庶民からのお返しなんかいらないけど、って前置いて、それから彼女は私と希ちゃんを交互に見て、「じゃあ一個だけ」って言った。
「――アンタ達、いい加減アタシ達のことも名前で呼んで良いんじゃないの?」
アンタらだっていつの間にかお互いに名前で呼びあってるみたいだし。
そう続けられて、希ちゃんと二人顔を見合わせた。
大鈴木さんと、凶鳥さん。私と希ちゃんは、これまで二人のことをそう呼んでいたのだ。希ちゃんと合わせていた視線を、二人に向ける。面影くんにも。私達のことを心配して、一時間も前から玄関ホールで待っていてくれた人達。この百日を一緒に戦う、大切な仲間。
「……くららちゃん、狂死香ちゃん」
偶然揃った私と希ちゃんの声に、狂死香ちゃんは照れたように咳払いをして、くららちゃんは初めて、満足そうに笑った。どうしてかもこちゃんが泣きながら小さく拍手していて、面影くんはそんな私達を見て、静かに笑っていた。
胸がいっぱいになって、喉とか鼻とか、目の奥が一気に熱を持った気がした。わけもわからないまま連れてこられて、わけもわからないまま、東京団地の人達のために戦うことを強要された。我駆力だなんていう力を与えられて、侵校生なんていう得体の知れない怪物と戦わされて、大切なものを守れなんて言われて、意味がわからなかった。――でも、ここには皆がいる。一人じゃない。
こっそり下を向いて鼻を啜る。隣の面影くんは、そんな私の様子に気がついていたのだろうか。私の耳のあたりにそっとその口を寄せると、内緒話でもするみたいに手を添えて、「折角だし、私のことも歪くんって呼ぶ?」って言うから、思わず「えっ」って声をあげてしまった。冗談かと思ってその顔を見たけれど、曖昧に笑う彼の表情からは本気なのか冗談なのかも読み取れない。
「え、えっと……」
言葉を詰まらせている間に、頬とか首とか耳のあたりが熱を持つ。テーブルに肘をついてその手の平に顎を乗せ、私を窺うようににこにこ笑う面影くん。睫毛が長くて、鼻筋が通っていて、こうしてみると、びっくりするくらい綺麗な顔をしているのだ。……だいぶ変な人だけど。
困っていたら、「ちょっとちょっと、アタイの目が黒いうちはセクハラ禁止よー!」ってもこちゃんが叫んでくれて、助かった。「くらら殿、拙者もカレーのおかわりをしていいでござるか……?」と狂死香ちゃんがくららちゃんに尋ねて、「良いけど、その代わりちゃんと服は脱ぎなさいよね」って、くららちゃんがとんでもないことを言う。希ちゃんはその様子を見て控えめに笑っていて、「わ! 賑やかだと思ったら三人とも帰ってきてたんだ! おかえりなさい! どうだった!?」って、食堂の入り口からNIGOUが現れる。賑やかな、第二防衛学園で過ごす五日目の夕方。
先の見えない生活だったとしても、なんてきらきらしていたんだろう。
私はそれが、永遠に続くと思っていた。