状況を、すぐには飲み込めなかった。
夢かと思ったくらいだ。敵に浚われ破壊されたはずのSIREIさんが、目の前にいたから。彼は私達を見回し、「ん? どうしたんすか? 大事な仲間の復活なのにリアクション薄いっすね」と、今馬くんの声で、訝しげに言う。
「SIREI!? ど、どうして!?」
「外見はSIREIだけど、中身は今馬なんすよ。SIREIのボディで復活したんす」
顔面蒼白の蒼月くんの言葉にも、SIREIさん――もとい今馬くんは飄々と答えるだけだ。それでも信じられなくて、こっそり二の腕の肉を摘まんだら、「んなことしなくても現実っすよ、先輩」と、名指しされた。
「信じられないんなら、証拠に先輩が前に書いたあの手紙、持ってきましょーか? 部屋にとってあるっすよ?」
口元に手を当てて意地悪げに言うその仕草は、記憶の中の今馬くんそのものだ。いろんな意味で血の気が引いて、「いらないっ……」と絞り出す。今馬くんはSIREIさんの姿で、楽しげに笑う。
信じられない。信じられないけれど、このSIREIさんは本当に、本物の今馬くんらしい。
過子ちゃんは言葉を失ったまま、じっと今馬くんの姿を見つめている。狼狽える丸子くんや川奈さんの隣で、くららちゃんが「お、面影! これはどういう事!? ちゃんと説明しなさいよ!」と面影くんに水を向けても、過子ちゃんはその拳を緩く握りしめている。
面影くん曰く、今馬くんの身体は、脳以外の心臓をはじめとした臓器がことごとくダメになっていたらしい。
面影くんは唯一損傷を免れていた脳を大急ぎでサルベージすると、保管してあった、修復済みのSIREIさんのボディに移植したのだと言う。
「我ながら最良の選択だったと思うよ? 人工血液入りカプセルに脳ミソだけ入れる方法も考えたんだけど……今馬君が脳ミソだけになっちゃうと、みんなもリアクションに困るでしょ?」
多分それだと、困るどころの騒ぎじゃない。「これでも十分リアクションに困ってます……」と漏らした銀崎くんに、面影くんが「ふふ……カワイイなぁ……」とその目を細めた。川奈さんなんかは、吐き気を想像したのか口元を押さえて顔を背けていたけれど。
「いやー、成功して良かったすよー。マジサンキューっす、面影先輩」と随分軽い調子でハイタッチを要求する今馬くんに、面影くんは指先だけで応える。
今馬くん。――今馬くんなのか。目蓋にこびりつく彼の横たわった身体は、もう、動かない。それが心に沈んで染みこみきる前だった。視界の端で、過子ちゃんの小さな靴が一歩、動いたのを見た。
それに気付いた希ちゃんが、蒼月くんが、彼女に道を譲る。彼女と今馬くんの間に、ネオンのライトが二人を裂くように落ちている。
「……今馬なの?」
確かめるような、小さな声だった。
「本当に……お兄ちゃんなの?」
瞬間、手術台の上にいた今馬くんが纏った空気が、その目が、ふっと変わった。
あ、と思った。
――今馬くんだって。
容れ物がこんなにもちがうのに、過子ちゃんを見る瞳の柔らかさが、彼そのものだったから。
「うん、そうだよ」今馬くんが言う。ぴょんと手術台の上から飛び降りて、出迎えるみたいに、その両手を過子ちゃんに向けて広げる。「ただいま、過子」って、続ける。
「――心配かけてごめんな。見ての通り自分は無事だよ」
過子ちゃんが見た予知の内容と一言一句違わなかったことを、一体ここにいる何人が気付いただろう。
「お、お兄ちゃん……」過子ちゃんの声が震える。瞳の輪郭が滲んでいく。今まで彼女が必死で保っていたものが、流されるみたいに。過子ちゃんが「妹」になる。
気がついた瞬間、息が止まった。私がほしかったもの。ずっと夢に見ていたもの。
「も、もう二度と……会えないんじゃないかって……ずっと心配してたの……!」
その場にへたりこんだ過子ちゃんの太腿の上に、今馬くんはひょいと飛び乗った。短い手をめいっぱい伸ばして、包み込むように抱きしめる。慈しむような彼の声。
「……バカだなぁ、過子は。そんな訳ないじゃないか。でも……心配かけてごめんな。もう大丈夫だからな」
――私が手に入れられなかったもの。
泣きじゃくる過子ちゃんの背を、今馬くんはその小さな手で懸命に撫で続けていた。大切な妹を守れてよかった、これくらいかすり傷だ、って、優しく言い聞かせていた。
そっと息を吐く。
消毒液の匂いに満ちていた。遠いどこかで、長いこと、それに包まれていたような気がした。
「どうぞ」と差し出されたビーカーの内側で、炭酸の泡が弾けては消えていく。
「あ、ありがとう……」
お礼を言って受け取って、少し迷ってからビーカーに口をつけた直後、面影くんはテーブルの向かい側ではなく隣に座ったから、心臓が小さく跳ねた。スツール代わりのドラム缶に座り直す私に、面影くんがそうとわからないくらいの微笑を浮かべる。彼の手の中のビーカーは、既にもう、ほとんど空っぽだ。
――生物薬品室を出て行くみんなの背を見送りながら、面影くんに声をかけたのは私だった。
丸二日に及ぶ手術の後で疲れているだろうに、彼は話がしたいと言った私を無碍に扱ったりしなかった。「私もちゃんと話がしたかったんだ」と、嘘なのか本当なのか分からないことを口にして、首を傾げてくれた。
氷が崩れる音がする。さっきまでみんながいた生物薬品室はいつもの静けさを取り戻して、じっとりと薄暗い。いつもはテーブル代わりにしていた手術台から離れた作業台に座らせてくれたのは、彼なりの配慮だったのかもしれない。
「そういえば、大丈夫だった?」
不意にそう問いかけられて、「えっ」と上擦った声を出してしまった。この間みたいに、薄い紙をいくつも折り重ねて隠した部分に直接触れられたような気がしたのだ。――だけど、そうではなかった。面影くんの目は、この間の戦いで過子ちゃんを庇って負傷した、足のあたりに落ちていたから。
「ああ……。怪我かあ。大丈夫だよ、もう治っちゃったもん」
患部が見やすいように、面影くんの方に足を折り曲げて見せる。薄い痕の残ったふくらはぎの傷は、今までの怪我と同じように、その日のうちに塞がっていた。面影くんがそれに顔を寄せて、しげしげと眺める。つい、息を止める。
「本当だ。相変わらずの体質なんだね。……殺っぱり不思議だなあ。ちょっとだけ解剖してみてもいい? それか、細胞とか血とかもらえたりしないかな?」
「だめっ……」
身の危険を感じて足を引っ込める。だいぶ前――それこそ私達がまだ第二防衛学園にいた頃、彼に膝の怪我を見られたときのことを思い出してしまった。あの時も、面影くんは私の奇妙な体質に興味を示していたっけ。あんな大きな手術をしたばかりだっていうのに、「相変わらず」なのは彼の方なんじゃないだろうか。面影くんが残念そうに肩を竦める。普段通りのその仕草に、私を覆っていた気負いのようなものが、緩く解けていく。
思えば最初から、不思議な人だった。
だから、心が動いたのかもしれなかった。
「ありがとう」
口をついて出た言葉に、面影くんが微かに目を見開く。
一足飛びの思考から生まれた言葉だ。だって、この流れでお礼なんて、そんなのおかしい。だけど面影くんは全て分かっていて、両手で受け取るみたいに抱えてくれる。短く、「うん」と言う。まるでそこに続きがあることを最初から分かっているみたいに。
あの日から、ずっと心の端で考えていた。
彼に向かって、「助けて」と口走ってしまったあの時から。今度は大丈夫と、そう言ってもらえた時から。
泣きじゃくりながら今馬くんを抱きしめていた、過子ちゃんの白い首筋を思い出した。そんな彼女を支える今馬くんの手も。面影くんの言う通り、あれは最良だった。たとえ人間の身体を失っても、だって、助かったのだ。生きて二人は再会できた。彼は本当に、助けてくれた。
手術台の前に落ちたネオンは人工的な色をしていた。ホルマリン漬けにされた眼球も、面影くんが書いたものと思われるメモの切れ端も、やけに現実味がない。ありとあらゆるものが乖離していく。
足の裏から伝わる、固い床の感触だけが似ていた。聞こえるはずのない救急車の音がした気がした。消毒液に混じった拭いきれない生臭さが、記憶を呼び起こす。「私悪くないよねぇ?」近い血のにおいがする声だった。私が封じ込めた箱の中。
「面影くん」
呼びかけた声が掠れる。膝に乗せた両手を握りしめる。
私に残った深い深い傷。優しい人達に手を引かれたこと。自分よりも一回りも二回りも大きな大人の手がどれだけ温かかったか。香水の香りが苦手だったのを、光の差し込む部屋で知った。愛を教わったこと。選択を尊重されたこと。幸福に浸された私のそばに、だけどもう兄はいなかったこと。
打ち明けたかった。助けてほしかった。助けてほしかった。
あなたが線を引くのが上手で、他人の重責を肩代わりする人じゃないことを知っていたから。
「……聞いてほしいことがあるんだぁ」
私の言葉に面影くんが、その目を細める。
私と面影くんの間には、目に見えない膜が薄く薄く伸びている。