君からはいつも薄ら死の匂いがした。
希死念慮の類いを感じ取っていたわけではない。君は自殺志願者ではなかったし、こんな特殊な状況下に突然置かれることになっても、決して自暴自棄にはならず、武器を取って戦うことを選んだからね。
身体機能が高く、感情表現が豊かで協調性に優れている。繊細なところがあるけれど、極めて悲観的というわけでもない。君は普通の女の子だった。東京団地にいたら、同じ制服を着た人間の波に紛れて、あっという間に見失ってしまいそうなくらいの。
その見方は今も変わっていない。私を前に「聞いてほしいことがある」と言った君は、どこからどう見たって、ただの、一人の女の子だった。ただ、君からは、土と血と灰の混ざった、独特な匂いがしていた。それは私の肌や髪を、いつもひっそり絡め取った。
君の足元から伸びた影を見ていた。人よりも薄暗い色をした、濃い影を。
死のこびりついた影だった。
だから君を見ていた。
「どこから話したらいいのかなあ」
コーラの残ったビーカーに手を添えたまま、ちゃんは言う。
「面影くんに聞いてもらいたいなって思ってたのに、どう話すか、ちゃんと考えてなかったの。頑張って話すけど、話があっちこっちにいって、めちゃくちゃになっちゃったらごめんね」
眉尻を下げて話す彼女の声はいつもに比べたら芯がなかった。
「構わないよ。何でも話して? 時間なら、いくらでもあるしさ」
そう言ったら、ちゃんは初めて、ほっとしたように笑った。「やさしいなあ、面影くんて。――お父さんみたい」、緊張が解けたように、その眦を細めていた。
「ふふ、ちゃんのお父さん? 私、似てるんだ?」
「見た目とかじゃないよ? ……お父さんも、私の話、なんでも聞くよって言ってくれたの。土曜日の夜とか、お菓子と飲み物、こんな風にテーブルに広げてね。明日は休みだから何時まででも聞いてやる、時間ならいくらでもあるから、って。……うれしかったぁ」
「へぇ……随分仲良し親子だったんだね」
「うん、仲良しだった。……ていうか、気を遣ってくれてたんだと思う」
軽くなった言葉の最後に、紛れるというには不安定な形で置かれたそれ。
「家族の中で私だけ、血、繋がってなかったから」
ちゃんは言い終わっても、ずっと、口の端に笑みをのせていた。どこか作り物めいた、ぎこちないものだった。ビーカーを持つ手に、僅かに力がこもったようだった。彼女の足から伸びた影が、微かに動いた気がした。
ちゃんが彼女の伯母夫妻に引き取られ「」になったのは、彼女がまだ七歳の頃だったという。
覚えているのは、殺風景な部屋で知らない大人に囲まれていたこと。駆けつけた、会ったこともない二人の男女に、「一緒に行こう」と言われたこと。家までの道を、手を繋いで歩いてもらったこと。飾り気のない二人の指先が優しかったこと。夢と現実のあわいにいた頭で、もしかしたら売り飛ばされるのかもしれないと思った。親戚の存在なんて、それまで知らなかったから。けれどもう、それでもいいと思っていた。
広くはなかったけれど、宝物をあちこちから集めて積み上げたような家だった。三人でカレーを作った。庭に小さな家庭菜園があった。シールの痕が残る古いガラスのテーブルも、洗濯のしすぎで端がほつれたレースのカーテンも、光を取り込む大きな窓も、持ち手の部分に鳥がついたスプーンも、知らなかった。「よかったら、うちの子になってくれる?」と、甘すぎたカレーを食べ終わった頃に、言われた。目の前に垂れた蜘蛛の糸だった。
静かで平穏な日々だった。毛布にくるまって嵐が過ぎるのを待つことがなくなった。引き攣るような声はもうどこにもなかった。眠れない夜は、川の字で眠らせてもらえた。ぎゅうぎゅうのベッドは温かかった。やってみたら? とピアノを習わせてもらえたのに、先生の甲高い声が怖くて、すぐにやめてしまったこと。しかたないねえと笑われた。怒られなかった。浴衣を着せてもらって、三人でお祭りに行った。あの日の花火、今でも夢に見るの。お姉ちゃんにしてもらえた。本当の姉妹みたいに分け隔てなく育ててくれた。――幸せだった。申し訳なくなるくらいに。
そういうとりとめのないことを一つ一つ、確かめるように、ちゃんは口にして並べていった。その言葉の最後に、それは置かれた。
「私だけ幸せになんて、ほんとはなっちゃいけないのに」
口にしてから、その響きが重く響いたことに気がついたのだろう。ぱっと目を見開いた後、彼女はそこに申し訳なさそうな色を浮かべて私を見る。
続けてと、目だけで促した。意図を汲んだらしいちゃんが、言葉を探すように視線を落とす。彼女の手にあったビーカーの中身が、揺蕩うように揺れていた。氷はほとんど、溶けていた。どれくらいの沈黙が流れただろう。空調の音と、躊躇うような彼女の呼吸音だけが、私達の間に落ちている。
――死は雨に濡れた土の匂いに似ている。
過去に囚われているほど、その匂いはいつまでも纏わり付いて離れない。渾然一体となって、染みついている。彼女はいつもそれを連れて笑っていた。自ら望んで死を選ぶようなことはなくとも、ふとしたきっかけで、向こう側へ渡ってもおかしくなかった。
君を初めて見た時から、それに気付いていたんだ。
「私ね」、ちゃんが、小さく言う。
「お兄ちゃんがいたんだ」
わざと感情を極限まで削ぎ落としたような、薄い声だった。
浅い呼吸を吐いたちゃんは、手にしていたコーラを呷るように飲む。半分程度残っていたそれを飲み干してテーブルに置いた瞬間、ビーカーの中で傾いた氷がからんと音を立てて崩れた。――それが合図だった。
「お父さんとお母さんに引き取られる前、七歳までは、本当のお母さんとお兄ちゃんと暮らしてたの。お父さん、って呼んでた人とは、たまにしか会わなかった。場所も高いレストランとか、そういうとこでだけ。今振り返ってみればどういうことだったのかはなんとなく想像がつくんだけど、あんまり普通の暮らしじゃなかったな。お金だけはたくさんあって、お母さんはお兄ちゃんに理想とか期待、全部押しつけてた。は女の子だからばかなくらいが可愛いの、って言われて可愛がられて育って、お兄ちゃんが苦しんでるのを、私はただ見てただけだった」
懺悔するように、彼女は言う。
「お兄さんとは何歳離れていたの?」そう尋ねれば、彼女は手のひらを開いてそのままこちらに見せた。――五つか。色濃くなる過去の風景に、七歳のちゃんが溶けこんでいく。
仲の良い兄妹だったらしい。ちゃんのお兄さんは、母親から彼女を庇いこそすれ、恨みをぶつけたりはしなかった。模試の結果が振るわなくても、母親に頬を張られても、大丈夫と言った。
大丈夫。は部屋にいな。兄に守られて毛布を被っていれば、引き攣るような母親の声は半分に減った。
「でも」、淡々と言葉を重ねていたちゃんの指が、スカートを握りしめる。
「全部、終わっちゃって」
直前になって食事の約束がキャンセルされた日だった。毎月あったはずの「食事会」の間隔がいつからか開きはじめていたのは分かっていた。その度母親が、嵐のように荒れるのも。その時もだから、彼女は部屋に避難しようとしたのだ。いつものように、扉を閉じて毛布を被ってやり過ごそうとした。だけど背中でその声を拾った。
もうやめようよ。お母さん。もう何をしたってあの人は俺達を見てくれないよ。
感情の抜けた薄い膜のような声だった。
一瞬だったのかもしれない。数秒の間が空いていたのかもしれない。だけどちゃんは、この瞬間だけは曖昧なのだと言った。ただ覚えているのは、高いところから煉瓦を落としたみたいな音がしたこと。肩をふるわせた母親の手から、「お父さん」がくれたイルカの像が落ちたこと。その足元に、兄の身体があったこと。その傍に駆け寄って膝をついたときの、床の冷たさ。止まらなかった血と、ぐったりと動かない身体。お兄ちゃん。お兄ちゃん。何度も呼びかけた声に、もう応えてくれなかった。救急車を呼ばなければと立ち上がったとき、「ねぇ」、毒林檎みたいな色をした爪が、自分の腕をきつく握った。
「私悪くないよねぇ?」
その後の記憶が、彼女からはごっそり抜け落ちている。
ちゃんは震える拳を膝の上で握りしめる。か細い声で、続ける。
「今のお父さんとお母さんに引き取られて、幸せだって思うの。家の中で誰も、誰かを殴ったりしない。好きな洋服を着せてもらえて、勉強でわかんないとこ、一緒に考えてもらえて、息を潜める必要なんかなくて、妹と喧嘩だってできる。家族って、本来こうなんだって思った。……幸せだった」
「それを知らないまま死んでしまったお兄さんは、だから、不幸だって?」
口にした言葉に、隣のちゃんは驚いたように私を見る。
結露でぐっしょりと湿ったビーカーから小さな雫が垂れたとき、ちゃんは、笑いたいのか泣きたいのかよく分からない表情を浮かべた。「そうじゃないならなんだって言うの」、絞り出すように、彼女は言った。
ねじれがある。
長く日焼けの痕のついた、固まったねじれだ。
ちゃんはそれを私に見せている。どうにかしてくれと訴えているのではない。ただ、自分自身で整理をつけるために、私を傍に置いている。
――ちゃんからは、いつも薄ら死の匂いがしていた。
過去のぬかるみに足を取られ、死を恐れながら、それでもどこかで死に場所を探している人間の匂いだ。
ある種の職業病なのかな。そういう人を見ると、つい目で追ってしまうんだ。ああ、あの子、なんだか危ないなあって、視界に入れてしまう。ちゃんもそうだった。いつも、風景に溶けるような彼女を見ていた。消えそうに笑う子だった。
私に向けられた心を、どうして雑に扱えるだろう。
その手に、自分の手を重ねた瞬間、ちゃんの水分を含んだ瞳が、大きく揺れたのを見た。「ちゃん」、呼んだ声が、掠れる。
「――苦しかったね」
私は殺し屋であって、霊媒師ではない。彼女のお兄さんの本心は、推し量ることしかできないし、それが正しいかどうか、確かめる術だってない。この子を飲み込む泥濘から連れ出すことはできないし、過去をなかったことにもしてあげられない。それでもこうして、傍にいてあげることはできる。
テーブルに落ちたビーカーの雫、片付けるのを忘れたままのポリバケツ。視界の端にちらつく液晶の光が、ちゃんの頬を青白くさせる。その白さに「殺して」と私に訴えたあの子を思い出す。無意識に、重ねた手に力を込めた。「ちゃん」、君に笑っていてほしかった。
「お兄さんのことを忘れられないのと、ちゃんが幸せでいるのは、別のことだよ」
瞬間、ちゃんの手がそうとわからないくらい、小さく動いた。
浮かんだ涙が、瞬きの直後、ぼろりと零れ落ちる。引き攣るような呼吸音が、数秒の沈黙の後、深くなる。
「助けてあげたかったの」
震える声だった。「面影くんが今馬くんを助けたみたいに」、懺悔のように、コップの縁から溢れるそれを、彼女は抱きしめるような優しい声で言う。
「本当はお兄ちゃんと、ずっと一緒にいたかったの」
ちゃんが俯いた瞬間、彼女の手を包んでいた手の甲に、ぬるい涙が落ちた。
彼女がしゃくり上げる度、足元から伸びるその影が薄くなる。土と血と、灰の混ざった匂いに、湿ったものが混ざる。
何かを口にする代わりに、その髪に手を伸ばした。震える頭蓋は小さく、ただ、確かに仄かな熱を放っていた。