あれから丸一日以上が経っても、面影くんは生物薬品室に閉じこもったまま出てくることはなかった。――今馬くんの人体改造手術は、まだ続いているのだ。
 食堂に来る前、心配で様子を見に行ったと言う蒼月くんは、「まともな人間が見るにはショッキングすぎる光景だから」と、面影くんに追い返されたらしい。
 それを聞いた過子ちゃんの表情がはっきりと曇ったのに気がついて、反射みたいに、「大丈夫だよ、過子ちゃん」と口にした。過子ちゃんの瞳が、揺れるようにこちらを向いた。ハムカツに生クリームを挟んだサンドイッチが、一口だけかじられた状態で、お皿に倒れていた。私の心みたいだ。小さく欠けたそのてっぺんを見つめながら、言い聞かせるみたいに続ける。



「きっと、大丈夫」



 私は面影くんのことを信じていた。まだ深く刺さったままの「大丈夫」を、信じていた。
 弱々しく頷く過子ちゃんの顔は青白い。
 だけど、生きている人間の青さだった。








 過子ちゃんが明るい表情で食堂に飛び込んできたのは、それからさらに一日が経った、八十一日目の朝のことだった。



「ねぇ、聞いて! 今馬、無事に助かるって!」



 私達はその言葉に揃って顔を上げたけれど、過子ちゃんは、未だ籠もりきりの面影くんから直接話を聞いたわけではないらしい。「予知だよ!」と、両手の拳を握りしめて、興奮を隠しきれないまま、笑みを唇に乗せる。



「昨日の夜、寝てたらね、未来予知で見たの! 見たっていうか……今馬の声を聞いた、のほうが近いかな。『ただいま、過子。心配かけてごめんな。見ての通り自分は無事だよ』って、今馬がそう言ってたんだ!」



 私達の間に広がったなんとも言えない沈黙を針でつくように「いや……それ、夢だろーが」と呟いた丸子くんに、過子ちゃんは「夢じゃないよ! 未来予知だもん! もうすぐ今馬は戻ってくるんだよ! ……たぶん今日にでも!」と声を張り上げる。



「当たるよ、絶対に! 今馬はもうすぐ帰ってくるんだよ!」



 予知。
 過子ちゃんはたまに、その言葉を口にする。
 そういう摩訶不思議なものを信じるかどうかは人それぞれだと思うけど――私は過子ちゃんの言う「未来予知」に関しては、本当にあるんじゃないかと思っていた。だって以前、希ちゃんの体調不良を言い当てたことがあったから。



先輩は信じてくれるよね!?」



 視線がぶつかったせいか過子ちゃんに尋ねられ、「うん、信じるよ」と頷く。「そうだね……過子ちゃんの未来予知は今までも当たってるし、今回だって希望は持てるんじゃないかな?」と蒼月くんが同意してくれたのは、心強かった。狂死香ちゃんや希ちゃんも、それを後押ししてくれる。――くららちゃんや厄師寺くんは、人体改造って言葉の強さを考えたら、相応の覚悟も必要だって言っていたけれど。
 過子ちゃん自身、本当は自分に言い聞かせていただけだったのかもしれない。前向きな言葉を並べながらも、かつての空元気の影が、その表情にちらついていた。



「自分、安心したらお腹減っちゃったー! チョコレート海鮮丼でも食べよーっと!」



 鼻歌まじりに調理マシーンへと向かう過子ちゃんの背を見送りながら、小さく息を吐く。
 ――大丈夫。
 今度は大丈夫。
 一昨日から心の裡で繰り返し続けた面影くんの言葉を、おまじないみたいに唱えている。脳裏にこびりつく過去の記憶を流すみたいに、グラスの水を飲んだ。








 今馬くんの手術が終わったらしいと希ちゃんに声をかけられ、生物薬品室に向かったのは、その日の昼過ぎのことだった。
 駆け込んだ生物薬品室は、いつもよりも消毒液の匂いが濃い気がした。その中に紛れる微かな鉄臭さに、思わず息を止める。
 面影くんは奥の小部屋にいるのか席を外していて、一昨日今馬くんが横たえられていた手術台の上には、何の痕跡も残されていなかった。血の痕も。何かを示すような、決定的なものも。
 ――手術は、どうなったのだろう。先に来ていた蒼月くんと目が合う。眼鏡の奥の理知的な瞳が何か言いたげに私を見るけれど、私も同じように無言で返すほかない。
 「今馬、とうとうロボコップになったん~?」と飴宮さんが笑えない冗談を言いながらやって来たのを皮切りに、銀崎くんや丸子くん、狂死香ちゃん達が集まってきた。飴宮さん以外は、全員酷い顔色をしていた。川奈さんなんか、今にもしゃがみこんでしまいそうなくらいふらふらだ。よく分からない機械類や薬品でいっぱいの生物薬品室は、みんなの不安を吸い込んで、ますます部屋の四隅を重くしていた。
 面影くんが奥の小部屋から姿を現したのは、過子ちゃんが生物薬品室に到着した直後のことだった。



「殺ぁ、カワイイみんなが勢揃いだね。なんだか久しぶりだな……」

「今馬はっ!? お兄ちゃんはどこっ!?」



 いつもの様子を崩さない面影くんに、過子ちゃんが必死の形相で詰め寄る。けれど面影くんは、「殺れ殺れ、先に冷えたコーラが欲しいんだけどなぁ」とどこまでもマイペースだ。目の下にクマもなければ、滲み出る疲労もない。
 痺れを切らした厄師寺くんが「んなもん後で溺れるくらい飲ませてやっから、早いトコ今馬がどうなったのか教えろや!」と声を荒げなければ、話し出す前に、本当にコーラを飲み始めたっておかしくなかった。ざわざわする心臓を押さえながら、唇を噛む。体中の血が固まったみたいに、指先が冷えていた。怖くて、怖くて、仕方なかった。
 面影くんは、そっと肩を竦める。一瞬、視線が絡む。「……わかったよ。じゃあ結論から言うけど……」その背の奥で、パソコンの液晶が青く揺れていた。誰もが息を潜めて彼の言葉を待っていた。過子ちゃんが戦慄く手を握りしめていた。本当はそれを両手で包み込んであげたかった。



「今馬君の処置は成功だよ。彼は助かった」



 面影くんがそう口にした瞬間、だけど、私は全身の力が抜けて、その場に頽れてしまいそうだったのだ。
 ――助かった。
 助かった。本当に?
 生気を失った白い肌を、ぴくりとも動かなかった指先を思い出す。呼びかけても、彼は何の反応も示さなかった。刻一刻と失われていく体温に、命が指の隙間から零れ落ちていく様を見ていた。十年前みたいに。なのに、あの状態の今馬くんを、面影くんは救った。――助けてくれたのだ。大丈夫、今度は大丈夫、っていう、あの言葉通り。
 温かい空気を身体が含んだ。口元を手で押さえなければ、声が漏れていたっておかしくなかった。いつの間にか滲んだ視界の片隅で、過子ちゃんの拳が解かれる。震える息がその口から漏れていた。



「ほ、ほらね……。自分は、信じてたよ……未来予知は……当たるって……!」



 泣き出す寸前の、水分を含んだ声。過子ちゃん。駆け寄って呼びかけたいのに、声にならない。
 だけど、くららちゃんは冷静だ。諸手を挙げて喜ぶでもなく、その先まで見てから判断しようとその目を細める。



「…………でも、原形を留められる保証はないって言ってたわよね? そこんトコはどうなの?」



 その問いかけに、面影くんは「うーん」と小さく首を傾げた。



「とりあえず五体満足だよ。手足もあるし、ちゃんと歩けるし、言葉も喋れるし……」

「じゃあ……今までと変わらないって事ですか?」



 銀崎くんの尤もな疑問に、彼は一度分かりやすい沈黙を挟んだ後、それから「まぁ、かわいらしい外見なのは変わらずだよ。その点は安心して良いよ」と続ける。――なんだか気になる物言いだ。胸を包んでいた熱が微かに冷えたような気になる。過子ちゃんが「今馬に会わせて! 今馬はどこ!?」と面影くんに言い迫るのも無理はない。
 面影くんが今馬くんに施したのは、人体改造手術だ。いくら助かったと言われても、直接自分の目で見るまでは、不安を完全に拭い去ることはできない。「焦らなくても大丈夫だよ。今は身だしなみを整えに行っただけだから」と過子ちゃんを宥める面影くんの表情からは、だけどもう、何も窺い知ることはできなかった。
 背後の生物薬品室の扉が音をたてて開いたのは、その直後のことだ。



「あっ! 皆さん、お久しぶりっすー!」



 重苦しい空気に不釣り合いな明るい声が響いた。
 その声も、話し方も、今馬くんのもので間違いなかった。反射で振り向く。だけど、そこに今馬くんの姿はない。あのさらさらの髪も、意地悪な目も。ただ廊下からの明かりが、薄暗い生物薬品室に遮られることなく伸びていた。「……え」と、ほとんど出入り口付近にいた澄野くんが足元を見て呟いたのにつられる。みんなの身体の隙間から、漂白されたような白い何かが動くのを、この目で見た。
 膝下くらいの丸いフォルムの生き物だった。
 つぶらな瞳に、黒い帽子。胸に赤い蝶ネクタイをつけたその身体は、NIGOUと同じで脳みそが薄ら透けている。「それ」は、短い手足で私達の足元を縫うように駆け出すと、手術台の上にぴょんと飛び乗った。
 ――毎日見てる。
 起床と就寝のアナウンスで、この姿が動いて喋るのを。



「……SIREIさん?」



 その生き物は私達の前で右手をぐっと掲げウインクをすると、「お待たせしたっすね!」と、モニターから流れるのとは違う、突き抜けるような明るい声で言った。



「九十九今馬のド復活っすー!」



 誰がどう聞いたって、今馬くんの声だった。


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