今馬くんは仰向けに倒れ目を閉じたまま、指先の一つも動かさなかった。
黒い髪が、細く描いた線の束みたいに地面に散らばっていて、それが彼を余計に作り物めいて見させた。
「今馬……しっかりして」
その傍らに、過子ちゃんは膝をつく。おずおずと、その胸に手を伸ばす。今馬くんは、それでも目を覚まさない。何の反応も、示しはしない。
血の気の失せたその顔に、動悸を覚える。今馬くん。心の中で呼んでも、唇は動かなかった。そのための神経に見えない粒が詰まって、滞らせているみたいだった。
だって、だって、私はこれを、知っていたのだ。瞬きもできずにいた眼球が、乾いて熱を持つ。
「もう大丈夫だよ? だから……目を覚ましてよ」
誰一人、動けずにいた。ただ、澄野くんが恐る恐る、「お、おい、今馬……?」と声をかけただけだった。
「ねぇ、今馬ってば……」
過子ちゃんの切迫した声が、乾いた地面に広がっていく。水分を吸って、重くなる。私はそれを、ただ見ていることしかできない。
――近づけなかったのだ。確かめるのが、怖くて。
助けたいのに。駆け寄って、名前を呼びたいのに。それが過子ちゃんの心を少しは軽くすることだって、知っていたのに。
胸の奥で、何かがどろりと音を立てた。葉擦れのざわめきに似たものが私の中で重なり合って、覆っていく。あの時と同じだ。同じになってしまった! 呼吸が浅くなるのを自覚して、胸を手で押さえる。過子ちゃんの長い髪が、瞬きの度短くなる。彼女の学生鎧が、ワンピースになる。ひんやりした石の床。「お兄ちゃん!」過子ちゃんの声が膜の向こうに遠ざかる。
「お願いだから、目を開けて! 目を覚ましてってばぁ!!」
ぐらりと頭が揺れたその時、狭まっていた視界の端に黒いブーツが動いたのを見た。
――面影くんだった。
意識を引き戻される。面影くんは過子ちゃんの傍らに膝をつくと、今馬くんの口元に手を翳し、それから手首を取った。それが、ぼやけた思考の中で、なんとなくわかった。「お、おい……どうなってんだよ? まさか、今馬はもう……!」と顔面を蒼白にして尋ねる丸子くんに、彼は、「いいや」と、低く言った。
「息はしているよ。心臓もちゃんと動いている……。とても弱くて……乱れているけど」
「…………え」
面影くんの言葉に、肩の力が抜ける。
生きている。――生きてるんだ。
じゃあ、助かるってこと? 今馬くんは眠っているだけってこと? 張り詰めていた心の糸が一瞬たわむ。呼吸が一度だけ、深くなる。
だけど面影くんの表情は、険しかった。「……どういう事? 今馬くんは大丈夫なんだよね?」と確かめる希ちゃんに、「これは私の推測でしかないけど……」と、その口を開く。その重々しさは、直接私にのしかかった。
面影くんが言うには、今馬くんの身体は部隊長と一体化してしまったらしい。DNAが、完全に混じり合ってしまったんだって。
専門的な話が散らばっていて、彼の話はうまく飲み込めなかった。けれど、毒や戦闘のダメージが彼の身体に残っていること、DNAが一致しない以上、保健室の蘇生マシーンも使えないこと、治すための薬も作れないこと――そういうことが、みんなの青ざめた顔や、震えた声から、嫌でも伝わってきた。
今馬くんは、このままだと助からないらしい。
――人体改造を施す以外には。
「知っての通り……ここの生物薬品室には常識を外れた悪魔的技術の数々が揃っている……。倫理観の観点から、研究が禁止されている技術さえもね……。それらを総動員して彼の『人体改造』を試みる事なら可能だよ。ただし……原形を留められる保証はないけど」
面影くんの声は、私の身体を流れて過ぎ去っていく。
人体改造。
受け入れるには、それはこれまでの私を取り巻く世界からは、遠くかけ離れた言葉だった。
面影くんは、真剣な顔で私達を見ていた。冗談ではないらしい。――ぞわりと背筋が粟立った。
宙に浮いたその単語を咀嚼しきれなかった。でも、みんなもそれは同じだったのだ。混乱と焦燥が混じり合って、増幅していく。人体改造。危うい響きを持ったそれが、火花みたいになって、私達の間に落ちていく。
助けたい。なんでもいいから、助けてほしい。お願い。そういう気持ちと、人体改造という言葉が持つ重い響きがぐちゃぐちゃに溶け合って、私を躊躇わせる。でも、だけど――あの時の自分だったら、どうしただろう? やっぱり、なんでもいいから、って、言ったんじゃないだろうか。なんでもいいから連れて行かないで、って。無意識に、手を握りしめていた。
「バカ言ってんじゃねーよ! 人体改造なんてメチャクチャな……」と、丸子くんが声を上げた時だ。
「……お願い。やって」
今馬くんの身体の前に膝をついた過子ちゃんが、静かに言ったのは。
顔を上げる。過子ちゃんの表情は、私の位置からでは、見えない。
「今馬が助かるなら……どんな形になったっていい……。どうせ、このまま死んじゃうなら、その人体改造ってヤツ……今馬にやってあげて」
凜とした、真っ直ぐな声だった。縋るでも、助けを求めるでもない。あの日の私とは、真反対の。
今馬くんの、臙脂の学生服に包まれた、動く気配のない二本の足を見た。皺の数を、数えた。影の色を、靴についた土汚れを、私を現実に繋ぎ止めるありとあらゆるものを。彼を、助けたかった。喉の奥に、何かが刺さるような痛みを覚える。
「……本当にいいんだね? どこまで今馬くんを再現できるかわからないよ? 最悪……失敗したら知性や言語能力を失った醜悪な化物になるかもしれない」
面影くんの言葉に、過子ちゃんの影が、縦に揺れる。
「それでも……いいよ……」
瞬間、耳の奥がキンと甲高い音を立てた。それに紛れるようにお兄ちゃんの声がする。「いいよ、」、まだ大人になりきれなかった手、「お兄ちゃんに任せていいよ」、まだ十二歳だったあの人に、押しつけていいものじゃなかったのにね。
動かなくなったあなたを見ていた。お兄ちゃん。お兄ちゃん。って。その身体を揺さぶった。今の過子ちゃんみたいに。あの時の、あなたの顔を、だけど私は、もう覚えていないのだ。
目の奥が熱を持った。呼吸が浅くなって、指先が痺れていた。「それでも……死ぬよりはマシだよ」、過子ちゃんのその言葉が棘になって、いくつも突き刺さった。
「死ぬより酷い事なんて……ないもん」
引きずり込まれてしまいそうだったのだ。あの日の血だまりに。
「もし、後で今馬がそれにショック受けて、死んだ方がマシだと思うんだったら」、過子ちゃんは、淡々と、続ける。狭まっていく視界の中で、彼女の背を見る。
「…………その時は、自分が今馬を殺してあげる」
妹として、責任を取る。
そう言い切った過子ちゃんの背中は、芯が通ったように、伸びていた。
それだけの覚悟を背負うには、その肩はあまりに細かった。
――足を動かしたのは、無意識だった。
私は、何の言葉もなく、過子ちゃんの隣に膝をついていた。過子ちゃんが息を飲んだ音を聞く。今馬くんの身体の向こう側にいた面影くんの視線がこちらに向いたのを視界の端でみとめながら、直視できずにいた、今馬くんの白い顔を見る。
生気のない、けれど、美しい相貌だった。
閉じられた唇はかさついていた。外傷はなかった。生きていないように見えた。それはやっぱり、私に、あの日の兄を思い起こさせた。
口を開いたら泣きそうだったから、名前も呼べなかった。助けてあげてとも、言えなかった。重い覚悟を抱いた過子ちゃんに、気の利いた言葉の一つを口にすることも。
彼を運ぶために、厄師寺くんが担架を取りにいくと言ったのを背中で聞いた。バタバタと忙しなく動き始める周囲をよそに、私はただ、過子ちゃんの手を、そっと取った。大丈夫、のかわりに、握った手に力を込めた。
そっと握り返されたそれに、本当は、少し泣きそうだった。
生物薬品室の奥にある手術台の上に、今馬くんの身体は横たえられた。
ネオンのけばけばしい光が落ちる室内は薄暗く、周囲には毒薬の生成に使ったと思われるよく分からない機械や、実験器具が転がっていた。
「面影……。お前が頼りだ。今馬を頼む……!」
「絶対に今馬を助けろよ……! そうじゃなかったら、ぶっ殺すからな……!」
面影くんは澄野くん達に「勿論。最善は尽くす……というよりも……最悪は尽くす、と言った方が正しいね」と微笑むと、奥にある小部屋へと向かって行った。手術のため、色々準備があるらしかった。どういう準備なのかは、誰にもわからなかったけれど。
手術台の今馬くんは相変わらず、目蓋の一つも動かさない。過子ちゃんはそんな彼の頬に手を触れて、「今馬、待ってるからね……」と呟くと、みんなの後に続いて生物薬品室を出て行った。私はそれでも、動けなかった。今馬くんの身体から、命がどんどん零れ落ちているような気がした。一瞬でも彼から目を離したら、全て、終わってしまう気がした。
――現実味がなかったのだ。
こんなことになっていることが、ずっと信じられなかった。過去の映像と今が混じり合って、足元がふわふわしていた。今馬くんの身体に、一歩だけ、近付く。「お兄ちゃん」、漏らした声が、遠ざかるみんなの足音に紛れて、消えていく。
あの日救急車の音はしなかった。お母さんの声だけがずっと聞こえていた。助けて。助けて。助けて。って、私はずっと祈っていた。ねえ、私のせいじゃないよねえ? いつまでも残るそれがもしも自分の声だったんだとしたら、どうして私は今も生きているんだろう?
「――ちゃん」
その時、不意に名前を呼ばれて、意識を引き戻された。
顔を上げる。手術着に着替え、小部屋からバケツを持って出て来た面影くんが、私を見ていた。
その目は非難めいた色はしていなかったのに、身体がびくりと跳ねる。みんなはもういないのだから、いつまでもここにいたら、手術の邪魔だ。「ご、ごめんなさい」、慌てて口にした言葉は裏返って、力なく掠れた。「出て行くね、あの、手術、がんばって……応援してるから、だから……」、考えるよりも先に口から漏れる言葉の最後に、とうとう零れたそれ。
「たすけて」
言った瞬間、ずっと堪えていた涙が目から落ちたのだ。
薄暗かったから、見られていないと思った。袖で拭って、慌ただしく踵を返す。ごちゃごちゃした生物薬品室の、スツール代わりのドラム缶に足を打つ。それでもなんとか扉に手をかけて、明るい廊下に足を一歩踏み出したときだ。「ちゃん」、って、もう一度名前を呼ばれたのは。
ホルマリン漬けのガラス瓶を背に、彼は立っていた。パソコンから漏れる光が、その輪郭を薄く彩っていた。
「大丈夫だよ」
面影くんは、その瞳をそっと細める。まるで全て、何もかもを見透かしているような目で、彼はいつも、笑う。
「――今度は、大丈夫」
言っていることが、よくわからなかった。
でも、それでも彼の言葉は、私の心の柔らかいところを、深く刺したのだ。
頷いてから、扉を閉めて、歩き出す。大丈夫。今度は、大丈夫。噛みしめるように、頭の中で繰り返す。一歩歩くごとに、涙が音を立てて落ちて、廊下に点々と痕を残していく。
廊下の角を曲がったところで、耐えきれなくて、膝を抱えて蹲った。胸の膿んだ傷が、何かに引き裂かれたみたいに痛くて、痛くて、堪らなかった。声を殺して泣く私は、あの頃より、十も年を重ねていた。