部隊長へと駆け出した希ちゃんの背が、遠ざかっていく。
私達の着ている学生鎧とは違う、人工学生鎧の真っ白なスカートが砂埃の中で翻っていた。上下するその背を、固唾を飲んで見つめていた。握った拳に力がこもる。
希ちゃん。祈るように、心の中で名前を呼ぶ。
「みんなを……返してっ!」
けれど感情を吸い込んで揺れた希ちゃんの声に、炎の壁の向こうを窺うようにこちらに背を向けていた部隊長の身体が反応した。
その半身が僅かに捻られた。希ちゃんの足元の土がぼこりと崩れ、そこから触手が伸びたのを見たのは、希ちゃんの身体が部隊長まであとほんの十数歩の距離にあったときだ。希ちゃんが息を飲むように、小さく悲鳴をあげる。その身体が、ぐらりとバランスを崩す。
心臓が、嫌な音を立てた。
「希ちゃん!」
希ちゃんの右足に絡みついた触手は希ちゃんがいくら振り払おうとしても、巻き付いて離れない。太い触手が地面を貫き、逃げられずにいる彼女に伸びる。身動ぎして逃れようとする希ちゃんの身体の自由をそれは完全に奪い、そのまま彼女を地中へと引きずり込む――。
「きゃあああっ!?」
希ちゃんの悲鳴が、穴の中に吸い込まれた。狂死香ちゃんと、厄師寺くんのときと、一緒だ。叫ぼうとした声が喉に張り付く。内臓が冷えて、足が竦む。
「き、霧藤っ!」
血相を変えた澄野くんが叫んだのが聞こえた気がした。――でも、確かじゃない。視覚以外の感覚に膜が張られたみたいだった。呼吸が浅くなる。どうしよう。足の裏の地面の感触が、綿のようにやわくなる。待って、と思った。待って、希ちゃん。瞬きをしたときの目蓋の裏に、彼女がいる。強く吹いた風に、咄嗟に腕で顔を覆った。風が止む頃、そっと顔を上げる。すべては永遠にも思えた。
砂煙の立ち上る中、果たして希ちゃんは、狂死香ちゃん達と同じように、部隊長の頭蓋へとその身体を飲み込まれていた。
一瞬、すべての音が遠ざかって、高い耳鳴りだけが残った気がした。だって、私はその意味を知っていたのだ。
「何やってんだ! あっさりやれてんじゃねーか!」と声をあげる丸子くんを、くららちゃんが押しのける。
「希―っ!!」
取り乱したその声に、私の皮膚の薄い部分を突かれた。部隊長に飛びかかろうとするくららちゃんの肩を澄野くんが掴んだのも、蒼月くんが「そんな……! 希さんまで……!」と青ざめているのも、飴宮さんが「詰んだねこれ!」と、こんな時なのに明るい声で言ったのも、全部認識しているのに、言葉が出てこない。
ぐったりと身体の軸を失った希ちゃんは、他の三人同様、意識もないみたいだった。なんの反応も、示さなかった。
――どうしよう。
もう、あの四人ごと、部隊長を殺すしかないのだろうか。
蘇生マシーンが使える可能性にかけて? そう考えて、その選択の先にある刃物に傷付いた。だって他のみんなには希望があったとしても、蘇生マシーンを使えない希ちゃんだけは、生き返らせることができない。くららちゃんもそれを分かっているから、あんなに動揺しているのだ。手のひらがびっしょりと汗で濡れていた。スカートの裾で拭おうとしても、手が震えて、うまくいかない。
広げた紙の上に並べた思考が、ぐちゃぐちゃに丸められる。どうしよう。どうしよう。そればかりが丸まった紙をぐるぐる転がす。インクが足跡みたいに痕になる。全員が助かる道を、それでも探してしまう。澄野くんの腕の中で暴れるくららちゃんのマスクが浮き上がる。どうしたらいいの? 面影くんの顔は、私の位置からでは見えない。
どうしたらいいのか、分からなかった。私達の周囲は断崖絶壁で、どこにも道がない気がした。恐ろしくなって、視線を逸らす。逸らした先に、過子ちゃんの姿がある。青ざめた顔をして震えている、子供みたいな、過子ちゃん。
今馬くんを助けたかった。
過子ちゃんの恐怖を取り除いてあげたかった。
なのに、現実はどうだろう。気概だけを抱えた私は、今馬くんを助けるどころか、希ちゃんまで危険に晒してしまっている。希ちゃんではなく、自分が行くと言えば良かった。「きっとわたしにしかできないことだから」と希ちゃんが言い出すよりも先に、私が手を挙げたら良かった。失敗がそのまま死に繋がってしまう彼女に、背負わせるべきじゃなかった。身軽な私だったら、もしかしたら、あの触手から逃れられたかもしれなかった。たとえ失敗しても、蘇生マシーンに賭けるという手が少なくとも残されていたのだから。そんなもしも話に今更価値はないってことだって、知っていたけれど。
でも、今からでも、どうにかなる?
不意に浮かんだその思考に縋るみたいに、腰のナイフに手を伸ばした、その時だった。「…………いや、ちょっと待て」と、澄野くんが零したのは。
「……何か様子がおかしいぞ」
地面に落ちていた部隊長の濃い影が、不自然に揺れていた。
顔を上げる。その光景に、吸った息が音を立てる。
部隊長は藻掻くように、頭を激しく振っていた。何かから逃れようとするかのように。いやいやをする子供みたいに。――苦しんでいる? ナイフを握りかけていた手から、力が抜ける。のたうちまわる部隊長は、直後、空に向かって真っ直ぐにその身体をぴんと伸ばしきると、一瞬の硬直の後、隆起した皮膚の隙間から白い煙を吐き出す。そして、糸が切れたように地面へと落ちていった。
鈍い音だった。その半身が地面へと強くたたきつけられた反動で、一帯を濃い土煙が覆った。
「な、何!? どうなってるの!?」
くららちゃんの困惑した声を、不明瞭な視界の中で聞く。
何が起きたのか、私にも分からない。だけど希ちゃんの言葉や、浮かべた表情が、私の脳裏にいくつもいくつも明滅していた。不安と混乱が混じり合って、心臓がばくばくと音を立てていた。身体中から汗が噴き出て、口の中に苦いものがこみ上げた――。
舞い上がる土埃が晴れゆくとき、そこにいくつかの影を見た。
瞬間、強ばっていた身体から、はっきりと力が抜けたのだ。
地面に伏した部隊長の身体の傍に、三人の姿はあった。狂死香ちゃんと厄師寺くん。それから、希ちゃん。感情が追いつくよりも先に駆け寄ろうとしたとき、腕を誰かに掴まれた。地面にその身体をたたきつけた後、ぴくりともしなかった部隊長の触覚が微かに反応し、再びその身をゆっくりと起き上がらせたのは、その直後のことだった。希ちゃん達はその足元で、その身体を横たえたまま。
「みんなを……吐き出した……?」
川奈さんの言葉に、私の腕を掴んだままの誰かが、背後で浅く息を吐いた。「きっと、希ちゃんは敵に取り込まれる前に、自らあの薬を摂取しておいたんだ……」続けられたその声に、それが面影くんだったと知る。咄嗟に振り返った瞬間、彼は私の手を、そっと離した。
摂取?
目だけで尋ねた私に、面影くんは小さく頷く。
「……自分自身を毒とする為にね」
低く掠れた声だった。
希ちゃんの身体の横には、透明な瓶が転がっていた。
その中にあったはずの大量の薬は、一粒たりとも、残されていなかった。