私の手に触れたそれが、沈んだ私を掬い上げる手のひらのように見えた。
「ふぅ、ギリギリ間に合ったみたいだね」
膝についていた手に力を入れて上半身を僅かに持ち上げた、その視界の先に彼はいた。
黒い学生鎧の背中は、光を吸って青みがかっていた。ざんばらに切られた髪の長い部分が風に靡いて、その毛先が砂の混じった空を舞う。喉の奥が痛かった。空の青さに目を眇める。
――面影くん。
膝から手を離し、時間をかけて、背筋を伸ばす。彼が触れていったそこは、仄かに熱を持っていた。
面影くんはみんなの視線を一身に浴びながら、悠々とその口の端をつり上げ、「良かった良かった」と笑う。
「全然間に合ってないんだが! もう鬱展開待ったなしなんだが!」
あんまりにもいつもの調子なのだ。飴宮さんがそう叫ぶのも、無理はない――。
それでも面影くんの存在に肩の力がふっと抜けて、小さく息を吐く。さっきまで狭まっていた視界には、何の膜もなかった。指先まで熱が伝わって、私を閉じ込めていた箱には大きな風穴が空いていた。
面影くんが私に視線を向ける。その柔らかさに、息が止まる。
だけど次の瞬間、地面が大きく揺れた。今馬くん達三人を融合したまま、部隊長は再び地面の中へと潜り込んでいった。罅割れた地面にブーツの踵が取られ、身体がバランスを失いかける。――また、いなくなってしまった。大きく罅の入ったバリアーを、苦々しく見つめる。別の場所から校舎を攻撃するつもりなのか、それとも――。
だけど、面影くんはそれを見たって焦りもしないらしい。部隊長の姿が地中に潜ったのを見届けてから、飴宮さんの言葉に答えるように、彼は「鬱展開か……本当にそうかな?」とそっとその首を傾げた。澄野くんが訝しむように「え?」と短く言葉を漏らす。
「まだ奥の手があるけど?」
――奥の手。
彼が胸元から覗かせたのは、ガラス瓶の口だ。じゃら、と、細かな石がぶつかって転がるような音がする。でも、まさか小石を持ち運ぶはずもないだろう。だったら考えられるのは――。
「ここ数日、私が生物薬品室で開発していた薬だよ。ただし、これは私達に効く薬じゃなくて……部隊長にのみ有効な『毒薬』なんだ。いわゆる、生物兵器ってヤツだね」
「せ、生物兵器!?」
普通に生活を送っていたらまず聞くことはないようなあまりにも物騒な言葉に、銀崎くんの搭乗した巨大ロボットの肩が跳ねた。頭の中を、面影くんが発した言葉が巡る。生物兵器。――毒薬。それも部隊長にだけ効果がある。冷え切っていた心臓が、密やかに音を立てた。
姿を地中に隠した部隊長の気配に気を配るよう、周囲に視線を巡らせながら、蒼月くんが問いかける。
「でも、部隊長にのみ有効って……そんなの、どうやって作ったの?」
「採取した部隊長のDNAを生物薬品室の装置で解析して、そのデータを元に様々なウイルスや細菌を調合したのさ」
面影くんは、中庭に捕えていたあの捕虜の女性の体液を手に入れていたらしい。
それを調べたところ、部隊長のDNAには私達普通の人間とは違う、妙な細胞があった。彼が調合したのは、その細胞をピンポイントで攻撃する毒薬だ。――それだったら、あの三人を傷付けることなくあの部隊長にダメージを与えることができる。
行き場のないまま溜まり続けて決壊寸前だった汚泥が溶かされていくような感覚に、塞がれていた気道がすっと楽になった気がした。「――すごい」と漏らした声は、丸子くんの「マジかよ! すげーじゃねーか!」という弾んだ声にかき消される。だけど、その直後だ。「ただ」と、彼が困ったようにその眉を八の字にしたのは。
「この薬には少し殺っかいな問題があってね」
「……厄介な問題?」
「そう。確実に効かせるには、大量の経口摂取が必要なんだ……」
この量の薬を飲ませる必要があるんだよ。
そう続けた面影くんは、懐に忍ばせていたガラス瓶を今度こそ取り出して、私達の前で傾けて見せた。その中身を見た瞬間、「えっ」と声が漏れる。瓶の中に、通常ではあり得ないくらいの量の錠剤やカプセルが詰まっていたのだ。……一年分の痛み止め、くらいには。じゃらりと音をたてるそれに、喉の辺りがつっかえそうになる。
「こ、こんな量を!? どうやって飲ませるの!?」
部隊長の身体のサイズを考えたら、だけど適正なのだろうか。
けれどそもそも経口摂取といったって、あの部隊長の口がどこにあるかも分からないのだ。あのおぞましい、巨大なミミズのような姿を思い出す。部隊長は今も、足元の土の中。
「あの三人に飲んで貰う訳にもいかないですよね。意識を失ったままですし……」
「じゃあ結局、使えないじゃーん!」
飴宮さんの言葉に息を飲む。
使えない。
そういうことに、なってしまうのだろうか。折角薬があるのに。面影くんのおかげで、初めて活路を見いだせたと思ったのに? でも、実際そうだ。銀崎くんの言うとおり、今馬くんや狂死香ちゃん達に薬を飲んで貰うことはできない。本体に飲ませるなんて、もっと難しいだろう。じゃあ、どうしたら。
視界の端で、過子ちゃんの手がぎゅっと握られたのを見た。事の成り行きを見守る過子ちゃんは、目と口を開けて、迷子の子供のような顔をしていた。それを見た瞬間、胸がざわりと音を立てたのだ。
地面はまた、あちこちが罅割れ始めていた。私達のすぐ足元を、校庭の遙か遠くを、校舎の脇を、部隊長は水中でも泳ぐように這っているのだろう。皮膚に浮くミミズ腫れのように盛り上がった地面は、私達を追い詰めるようにその間隔を狭めている。
どうしたら良いのかわからないまま面影くんの方を見たときだ。彼の隣にいた希ちゃんが、地中の蠢動に紛れるように、細く息を吐いたのは。
「……薬を部隊長の体内に入れればいいんだよね?」
芯のある、凜とした、静かな声だった。
「だったら、わたしがやるよ」
口の端から、喉に引っかかった音になりきれないものが零れる。それは澄野くんが口にした短い驚嘆の声と重なって――だけど、続かなかった。
希ちゃんは自分の胸に手を当てる。戦おうと、彼女が言ったときのことを思い出していた。第二防衛学園にいた時のこと。希ちゃんはいつも、覚悟を背負った目をしている。
「わたしがなんとかして、みんなを助けだしてみせる。きっと……これはわたしにしかできないことだし」
その言葉の意味が、私にはわからなかった。
希ちゃんの手が、面影くんから薬の瓶を受け取る。――一体、何をするつもりなのだろう。その手の中で、透明なガラスの瓶が傾いていた。そうしていると面影くんの作った薬は、色とりどりのラムネのように見えた。
「そもそも……その薬の効果って確かなの? 実際に試した訳じゃないんでしょ?」
「まぁね……捕虜がいれば実験台にできたけど、残念ながら、ぶっつけ本番だよ」
くららちゃんの疑問に、面影くんは肩を竦める。「大丈夫だよ。わたしは面影くんを信じてるから」、二人の間に、希ちゃんがそっとその言葉を差し込んだその瞬間、私達のすぐ目の前の穿たれた穴に、新たな亀裂が走ったのを、私は見た。
地面が大きく揺れる。土砂をまき散らし、地鳴りを響かせながら、部隊長はその姿を地上に現す。視界はあっという間に覆われて、空が茶色く汚れていった。鱗に覆われた表皮から突き出た無数の黒い棘。先端から伸びる触手の根元付近に空いた孔は、真っ黒に塗りつぶされていた。頭蓋に填まった赤い光輪は緩く回転を続けていて、その隙間から、今馬くん達三人の白い腕がだらりと覗いていた。そのあまりの白さに、ぞっとした。視界の端が、黒く濁った。
希ちゃんの手が、瓶を握り直す。私達を振り向いたときの、希ちゃんの、私達を勇気づけるために貼り付けた笑顔――くららちゃんの手が、拳を作ったのが分かった。その拳は、酷く震えていた。何か言いたげに開いたかぶり物のトマトの口元が、ぐっと閉じられる。
ああ、そうだ、怖がっている場合では、ないのだ。だって希ちゃんは、何か、大きな賭けに出ようとしている。――希ちゃん。呼びかけようとした言葉は、声にならずに喉の奥で潰れていく。
「じゃあ、行ってくるね」
白百合みたいな女の子だった。色素の薄いその髪は、日の光に透けていた。
部隊長の身体が作る影を背負いながら、希ちゃんはそうして、私達に背を向け、走り出した。