「そ、そんな……! 凶鳥に、厄師寺まで……?」



 澄野くんの声があんなにも震えるのを、初めて聞いた。
 私達の頭上高くで揺れる部隊長は、三人を取り込んだまま、校庭に濃く太い影を落としている。三人の身体は芯を失ってぐったりと動かなかった。狂死香ちゃんも、厄師寺くんも、今馬くん同様、その目蓋を深く閉ざして、目を覚まさない。



「きょ、狂死香ちゃん、厄師寺くん……」



 ――どうしてこんなことになったんだろう。だって、さっきまで二人とも、一緒に戦っていたのに。呼吸が浅くなって、視界が狭まる。
 過子ちゃんの震えが腕に伝わって、思わず抱きしめる腕に力を込めた。二人分の鼓動と呼吸音が溶け合って、どちらのものなのか、もう判然としなかった。
 大丈夫だよ、って、本当は言いたいのに、声にならないのだ。視界は墨を撒いたように暗くて、心音だけが煩く響いていた。言葉になりきる前の浅い呼吸音だけが、口の端から漏れていた。



「ど、どうすればいいの……?」



 私の腕に震える手を添えて、過子ちゃんは遙か頭上でぐったりと目を閉じた今馬くんのことを見上げる。



「教えてよ……お兄ちゃん……!」



 どうしたらいいのかわからなかった。どうしたら三人を助けられるか、過子ちゃんを救えるか、答えそのものが、今の私達には存在しない気すらした。
 縋るような過子ちゃんの声が空気に溶けるその寸前、狂死香ちゃんの長いポニーテールの先が空を舞って、視界から消えた。――部隊長が、地面に潜ったのだ。足の下を這うその気配に、身構える。また誰かを浚って吸収するつもりかもしれない。あるいは、今度こそ攻撃をしかけてくるのかも。全身の毛が逆立つ。震えそうになる足に、ぐっと力を入れる。
 ナイフを構えて、気配を探る。地面の崩れる場所を、罅を、音をたぐり寄せる。丸子くんの足元の、枯れた草の先が傾いたのを見たとき、血の気が引いた。一歩踏み出して、叫ぶ。過子ちゃんの手が、腕から離れる。



「丸子くん!」



 そう叫べば、彼は即座に反応して「うおぉ!?」と叫びながら飛び退いた。めくり上がった地面の先から、件の触手が空を切ったのは、その直後。地面が揺れて、砂煙が空を覆い、茶色く世界を汚していった。罅割れ、捲れた大地から半身を現した部隊長の頭蓋には、今も三人が、自由を失った人形のように埋まっている――。



「お、おい! どーすんだよ!? マジで打つ手なしかよ!」



 上擦った丸子くんの言葉は、土塊が地面にぶつかる音に紛れながらも、はっきりと耳に届いた。ぐらりと地面が揺れる。部隊長の姿は、動揺する私達を嘲笑うみたいに再び地中へと吸い込まれていく。
 部隊長を殺すこと。それ自体は不可能ではないのだろう。今までの私達がしてきたのと同じことをすれば良いだけなのだから。だけど――。汗で滑り落ちそうになるナイフを、握り直す。
 だけど部隊長を殺したとして、あの三人が無事に戻ってこられるかどうかは、分からないのだ。
 だからみんな、あれに武器を向けることができずにいる。出方を窺って、攻撃を躱して、万に一つの奇跡を待っている。
 丸子くんの問いかけに答えられる人は、誰もいなかった。その代わり、私達の背後、校舎の東側で鈍い粉砕音が響いた。反射的に身体が跳ねる。地中を伝って、向こうに回り込んだのだろう。あれの狙いは、校内にあるから。振り向けば部隊長は、校舎に張られたバリアを、その触手で直接叩き割ろうとしている――。
 バリアが大きく軋む音がした。



「だーっ! マジでどーすんだ! このままじゃバリアが破壊されちまうぞっ!?」



 みんなの視線を一身に浴びた澄野くんは、動かない。握りしめた拳は可哀想なほどに戦慄いていた。助ける方法を、彼は探していた。必死に考えを巡らせて、巡らせて――一粒の砂金を見つけ出そうと、その目を限界まで見開いていた。だけど攻撃は、やまない。第二撃は、容赦なくバリアの罅を深くする。飛び散る破片が空を舞う。
 それはまるで、あの人に割られた鏡のようだった。
 シャンデリアの光を吸い込んで、ひんやりとした床の上で、あれは最後の輝きを放っていたっけ。
 粉々になった欠片を前に、「ちかづかないでいいよ」と私を制した、今の私のものよりずっと小さな手のひら。「危ないから、は向こうにいな」。お兄ちゃん。心の声が、過子ちゃんの言葉とぴったり重なる。お兄ちゃん。私、どうしたらいい? 違うのは、私のお兄ちゃんはここにはいないということ。今馬くんはまだ生きて、その命を細く細く、繋いでいるということ。
 「……こうなったら」と、その時、震える声がぽつりと落ちた。絞り出すように漏れた引き攣った声に、顔をあげる。



「こうなったら、覚悟を決めて、あの三人もろとも殺すしかないわ……!」



 吸い込んだ息が喉に張り付いた。



「――え」



 殺す。
 ――殺す?
 くららちゃんの声が耳にこびりついて剥がれない。「こ、殺す……? お兄ちゃん……を……?」水に浸せば溶けて消えてしまいそうなほど細い過子ちゃんの声に、聞き間違いではないのだと知った。蒼月くんが「ダメだよ!」と声を荒げたのを視界の端で捉えるのに、言葉が出ない。



「蘇生できるかもわからないのに、仲間を殺すなんて……」

「じゃあ一体どうするのよ!? このままじゃ全部終わっちゃうのよ!?」



 ――助ける方法を探していた。今馬くんを救うことだけをずっと考えていた。
 喉奥から、息とも声ともつかない醜い音が漏れていく。
 視界の端から薄い闇が浸食した。まだ光の辛うじて残るその中央に、悪戯っぽく笑った今馬くんの顔が残っている。「ぶち悪影響なんすよ」と、うんざりした目で私を見ていたこと。作ってくれたいちごジャムゴーヤーハンバーグ定食。彼の手にあった紙切れ同然の私の手紙。忘れられるはずがない。でも、無理なの? 助けられないの? 点滅するそれは徐々に速度を増して、混じり合っていく。ぐるぐる回る映像の最後に、あの日の血だまりがある。バラバラになった欠片が糸で結ばれて、たわんでいる。助けられない。たったそれだけの短い言葉が、私をあの日に閉じ込める。
 随分前に空っぽになったルームフレグランスの香りは、けれどいつまでも鼻孔に残っていた。あの人の香水と似ていたから。締め切られたカーテンは光を遮って、部屋を青白くした。私達にはもう不釣り合いだった大理石の床には薄らと埃が溜まっていた。増えなくなった砂糖菓子の服。お兄ちゃんの部屋に積み重なる、赤ペンの入った大量のプリント。もうやめようよ、お母さん。さいごの言葉を忘れられずにいるのだ。呪いみたいに。
 ――また助けられないんだ。
 そう思ったとき、どうしようもない吐き気に襲われたのだ。
 だって、無理だって、本当は、私自身もみとめていたから。
 目眩がして、甲高い金属音と同時に世界の音が遠くなった。全身から汗が噴き出て、ぐっしょりと身体を濡らした感覚があった。熱の籠もった足の裏は身体を支えていられなくて、膝に手をついた。背中が丸まった。視界が狭まって、濁流のような流れが私の内側を削って、呼吸を奪った。
 無理なのかもって、思っていた、本当はどこかで。でも、それでも飲み込めないのだ。私のすべてがそれを拒んで、受け入れられずにいる。いやだ。いやだ、いやだ、絶対にいや、って、首を振っている。目の奥が熱を持つ。目蓋の裏に、途方にくれた七歳の私がいる。
 たすけて。
 その時、背中に何かが触れた気がした。
 綿毛のように軽い、だけど、日だまりみたいな温度が。
 導かれるように顔を上げた。視界の端に、黒い学生鎧の袖が引っかかった。揺れる大ぶりのピアス。短く刈り上げられた、青い後ろ髪。一瞬だけ私に触れた指先が遠ざかる。私の絡まった呼吸を、その指はほどいてくれた。深い息が、肺から外へと零れていく。
 「殺ぁ」と、戦場には似合わない柔らかい声が、私の隙間に入るように落ちていた。



「遅くなってごめんよ」



 面影くんは光に包まれていた。その輪郭は、淡く滲んで溶けていた。


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