ナイフの切っ先から、侵校生の黒い体液が音を立てて落ちていた。
 駆け出して、襲いかかってくる侵校生を切り捨てる。無数にあいた地面の穴から、炎の壁の奥から、際限なくそれらはやって来た。鋭い爪を振りかざし、空を飛び、全ての体色を混ぜたような体液を零しながら私達の足下に積み重なった。
 死を恐れないあれらの叫びが、耳にこびりついた今馬くんの悲鳴をかき消してくれれば良かったのに。
 ――今馬くんを取り戻すため、過子ちゃんが部隊長に向かって引き金を引いたときの今馬くんの絶叫が、頭から離れなかった。
 融合が、深いのかもしれない。部隊長へ与えたダメージが今馬くんにも共有されてしまうほどには。そう考えると、お腹の底がすっと冷える。紛らわすように、侵校生を切り伏せる。
 立ち上がる砂埃の中、汗か、返り血かわからないまま額から垂れてきたものを拭った。厄師寺くんの釘バットが、侵校生を叩き潰す音を聞く。日はいつの間にか高かった。私の視界の端で、巨大なミミズにその半身を沈めた今馬くんは、今もずっとその目を閉じたまま。








「後はあの部隊長だけだけど……どうすりゃいいんだ?」



 丸子くんが、構えていたガトリング銃を腰のあたりまで下ろしながら、途方に暮れたような声をあげる。
 第二波の侵校生による攻勢は今は止んでいて、残すは今馬くんを取り込んだ部隊長だけだった。周囲は色とりどりの侵校生の死骸に満ちている。黒い体液が光に反射して、水に混じった油のような虹色を浮かべている。それに囲まれた部隊長は、私達の出方を窺っているというよりは、まるで狼狽する私達を観察でもしているかのように静かだった。そっと唇を噛みしめる。白い鱗に覆われた身体が蠢く度、今馬くんの美しい髪が、絹のように靡いていた。



「今馬くんにもダメージがあるなら、無闇に攻撃する訳にはいかないよ……」

「今馬殿を盾にするとは卑怯でござるっ!!」



 過子ちゃんは、希ちゃんの言葉にも、狂死香ちゃんの張り上げた声にも、何の反応も示さなかった。銃口がワニの口のような形をした禍々しいライフル銃を地面に立てかけたまま、眩しそうに目を細め、部隊長の頭蓋で目を閉じる今馬くんを見ていた。
 青白い横顔だった。星の放つ光を袋に詰め込んだような。



「とりあえず、まとめてぶっ殺して、今馬は蘇生マシーンで生き返らせればいいじゃん」

「いや、蘇生できるとは限らないよ。あいつがどう今馬クンを取り込んだかわからないけど……。もしかしたら、その影響で、今馬クンのDNAに変化が及んでいる可能性もある」

「そんな……。DNAデータが一致してなかったら、蘇生はできないよ……!」



 蒼月くん達の会話が、音の塊のまま私の耳を通り抜けていく。いくつかの単語だけが引っかかったけれど、それは表皮に見えない傷を作るだけだった。その時私の世界の真ん中にいたのは、過子ちゃんだったから。
 頬に張り付いた髪は払うこともしないまま、過子ちゃんは真っ直ぐ、部隊長に飲み込まれた今馬くんを見上げている。血の気の失せた顔をした、彼女のお兄ちゃん。
 ――私もあんな顔をしていたのだろうか。



「だったら、どうすんだよ!? このまま指くわえて見てろっつーのか!?」



 みんなの輪から外れた過子ちゃんの傍に、震える足を滑らせる。身体は重く、気怠かった。戦いの疲労がそうさせているのか、嵩を増した思考が濁った水を吸っているせいなのかはわからない。過子ちゃんはじっと黙ったまま、途方に暮れた迷子のような顔をしている。――七歳の私だ! もう動かない兄を前に、呆然と見ていることしかできなかったあの時の私。足の裏から熱が引く。スリッパは脱げて身体の脇に落ちていた。お兄ちゃんの身体の横には、クリスタルでできた、美しいイルカの像。光に透けるそれは赤く染まって、鼻先が折れている。
 助けて。
 助けて。
 誰か。
 あの時私は、それをきちんと口にしていたのだっけ。
 足下がぐらついて飲み込まれそうになったその時、不意に、鈴のような声が私の鼓膜を震わせた。「こうなったら」、一本の芯がすっと差し込まれたような、迷いのない、真っ直ぐな声だった。



「蘇生できようができまいが、覚悟を決めて殺すしかないわ」



 くららちゃんがそう口にしたのは、伸ばした私の指先が、過子ちゃんの学生鎧に触れるか触れないかの、寸前。
 びくりと揺れた過子ちゃんの肩に、私の意識も引き戻される。その瞳が今馬くんからくららちゃんへと向かった。
 ――殺す。
 殺すしかない?
 皮膚に残った白い線が、かろうじて引っかかっていた「蘇生はできない」というさっきの会話を蘇らせる。「そんな……危険すぎる!」と叫ぶ澄野くんの声に紛れるように、喉の奥から、息とも音ともつかない喘ぎが漏れた。全身から汗が噴き出て、貧血でも起こしたみたいに目が眩む。瞬きの度に、視界が明滅する。暗くなった点滅の先に、直視できない泥がある。
 過子ちゃんの顔が、固まっているのを見ていた。この子に同じ思いをさせてはいけなかった。何か言いたげに薄く開いた唇は、くららちゃんの「他に方法があるの!? このまま手を出さないでいるつもり!?」という言葉に押しつぶされる。握られた過子ちゃんの拳は、訪れるかもしれない未来に、はっきりと震えていた。
 助ける。助けるよ。今馬くんのこと。だから私はそう思ったのだ。
 たとえ私のエゴだったとしても。どんな方法を使っても。



「たとえ、今馬殿を失おうとも、拙者らは正義の為に戦わねばならぬのだ……!」



 狂死香ちゃんの言葉に息を飲んだ過子ちゃんの手首を、掴んだ。
 ほとんど骨と皮だけの、頼りない、細い手首だった。けれど確かに血が通っているとわかる温度がある。
 過子ちゃんの目が、そこで初めて私を捉えた。「先輩」と、弱々しい声で私を呼んだ。言葉が出てこなくて、かわりに、過子ちゃんの瞳を見た。けれど本当は、その目に映る自分を見ていたのだ。風が吹いて、髪を浚う。砂の入った目がちくりと痛んだ。過子ちゃんの手首を握る手に力を込めたその時だ。「みんな、ちょっと待って!」と、蒼月くんが叫んだのは。
 切羽詰まったその声に、私達の視線が集中する。「……なんだ? どうした?」怪訝そうな澄野くんの声を聞きながら、蒼月くんの視線の先を見て――息を飲んだ。



「いないよ。あいつが……消えた……」



 さっきまで確かにそこにいたはずの部隊長が、忽然と姿を消していたのだ。
 広がった視界に、ざわりと背筋が粟立つ。紫の炎は、遠く、壁のように私達を囲んでいる。



「い、いねぇぞ!? あいつ、どこ行っちまったんだ!?」

「な、なんで?」



 周囲を見回すけれど、建物ほどはあろう巨体は、影すらも見当たらない。その代わり、盛り上がった砂が足元で崩れた。「もしかして……あの穴から逃げたの?」零すように口にした希ちゃんの方を見る。逃げた? どうして。侵校生がやられている間も、あの部隊長はじっとそこに佇んでいたのに?
 狂死香ちゃんが怒りを滲ませ、拳を握りしめる。



「おのれっ! 敵前逃亡とは、どこまで卑劣な……」



 だけど、その時だった。
 狂死香ちゃんの足下から、地面を突き破るようにして赤い何かが伸びてきたのは。
 植物の根のように、それは狂死香ちゃんの身体を絡め取る。狂死香ちゃんの、見開かれた目。
 ――一瞬。
 本当に、一瞬の出来事だった。



「きゃあああああ!」



 根は文字通り、狂死香ちゃんの身体を地中に引きずり込んだ。狂死香ちゃんの悲鳴が地下深くに遠ざかって、飲み込まれる。真っ黒な穴だけを残して、消えてしまう。
 何が起きたのかわからなかった。呆気にとられて、指先の一つも動かせなかった。「うおっ……」、って、厄師寺くんの低い声が耳に届くまでは。



「おおおおお!?」



 彼の身体に巻き付いたのは、狂死香ちゃんと同じ赤い根。
 ――いや、触手?
 瞬きの速さで、彼は狂死香ちゃん同様、地面に吸い込まれてしまう。「狂死香ちゃん! 厄師寺くん!」希ちゃんの声に応える声は、どこにもない。
 直後、地面が大きく揺れた。さっきの揺れと同じものだった。過子ちゃんのことを引き寄せて、抱きしめる。揺れが収まるまで耐えて、耐えて――やがて、さっきの穴から部隊長が再びその姿を現したとき、私は狂死香ちゃんと厄師寺くんを捕えたあの赤い触覚が、その頭蓋にあったものだったと気付くのだ。
 酷い砂煙だった。空を舞う土塊はぶつかりあって、細かい砂になって私達に降り注いでいた。腕で頭上を覆いながら、けれど次第に晴れていく視界の先で蠢く部隊長の姿に息を飲む。
 「あーあ……」低く呟かれた飴宮さんの声が、私の鼓膜を緩く震わせる。
 ゆらりと、重たげに傾くミミズの頭。一つだった影は三つに増えていて、乱暴に突き刺されたケーキの蝋燭のようだった。
 彼らはぐったりと、目を閉じていた。



「……あの二人まで取り込まれちゃった」



 部隊長の身体に沈んでいたのは、今馬くんだけではなかった。
 狂死香ちゃんと厄師寺くんの二人が、その半身を埋めていたのだ。深く。深く。
 抱きしめた過子ちゃんが、ひゅ、と喉を鳴らす。川奈さんが吐く音を聞きながら、その時の私はただ、ただ、呼吸すらまともにできずにいた。


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