第二防衛学園の一階にある体育館。
その片隅に置かれたサンドバッグを前に、ボクシンググローブを身につけた大鈴木さんは立っている。
広々とした板張りで、ステージもあり、跳び箱やらサンドバッグやらまで置いてあるような体育館だ。上にはランニングのできるギャラリーも備わっていて、そこでは体力の許す限り走り続けることもできた。明らかに対角上にはないバスケのゴールポストや、筋骨隆々の像、なぜかステージ上に鎮座する巨大な炎の台が、異様な空気を醸し出しているのが、ちょっと気になるくらい。
だけど、私達が全員でトレーニングをする分には申し分のない設備だった。サンドバッグ打ちは全身の筋肉を鍛えられるそうだし、ちょっと高すぎる跳び箱も跳躍力を鍛えるのには丁度良いだろう。充分広いから、大鈴木さんがさっき口にしていた模擬戦だって、きっとできる。タオルで汗を拭きながら、改めて一点を見つめ集中力を高めている大鈴木さんに視線を戻す。
肩幅より僅かに広げた両足。脇をしめた状態で顔の前に手を置き、顎を引いてやや猫背気味に構えたその姿は、まるでプロのボクサー宛らだ。
誰かが身動ぎの一つでもすれば呆気なく切れてしまいそうな糸を手繰るような繊細さで、大鈴木さんが息を吸う。次の瞬間空気を切るのは、滑らかに引かれた彼女の腕だった。直後、瞬きする暇もないくらいの速度で振り抜かれたパンチが重い砂の詰まったサンドバッグを空中に舞い上がらせる。――どごぉ、って、お腹に響くほどの轟音と共に。
サンドバッグって、あんなに浮きあがるんだ。
「わー……」口を半開きにしながら思わず拍手をすれば、大鈴木さんは「ま、こんなもんね」とまだゆらめくサンドバッグの前で肩を竦めた。
「す……すごい、大鈴木さん、そんな細腕の一体どこにそんな力があるの……!? 人間も軽々吹っ飛びそう……!」
「余裕で吹っ飛ぶわよ。……アタシは大鈴木家の嫡女として、子供のときから常に研鑽を積んでいるの。大鈴木家の人間はね、財力でも腕力でも魅力でも、常に頂点に立つことが義務づけられているんだから。ボクシングも帝王学の一環ね。――も試しにやってみる? 今だったら特別に教えてあげるわよ」
「え、え~……! できるかな? ボクシングなんて、ダイエットのゲームのやつしかやったことないからなぁ……」
「は!? アンタ、あんなんボクシングにカウントすんじゃないわよ! 冒涜よ冒涜! アンタなんか崇高たるボクシングを教えるに値しないわ、筋トレでもしてなさい!」
「嘘、あれボクシングじゃない!?」
「んなわけないでしょ!」
どうやら不況を買ってしまったらしい。大鈴木さんは、こうなってはてこでも主張を変えないっていうのは一緒に過ごしたこの数日で学んでいる。しっし、って手で追い払われてしまえば、退散する他なかった。あのゲーム、結構ちゃんとやってたんだけどな。ボクシングをしている人から見たら、違うのか。
追い払われた私が向かうのは、サンドバッグから少し離れた場所で、信じられない速さで腹筋をしている凶鳥さんのところだ。もしもさっきまで彼女と筋トレに励んでいた面影くんがまだそこにいたら、もこちゃんや希ちゃんとさっきまでしていたように一人ギャラリーでのランニングに戻ろうと思っていたんだけど、彼の姿はいつの間にか消えている。もしかしたら、先ほど飲み物を取りに行くと体育館を出て行ったもこちゃん達を手伝いに行ったのかもしれない。面影くんって、そういうところに良く気がつく人だから。……ちょっとアレなところもあるけれど。
昨日のことを思い出しそうになって、慌てて頭を振る。紛らわすように「凶鳥さん。腹筋、私も一緒にやってもいいかな?」って声をかけたら、凶鳥さんは「勿論構わんが、拙者はそろそろ日課の正拳突きでもしようと思っていたところでござる」って言って、流れるように立ち上がった。凶鳥さんの頭のてっぺんで結ばれたポニーテールが、踊るように空を舞う。
「正拳突き?」
「気を整え……拝み、祈り……」
「うん……」
「構えて――突く!」
「おぁ……!」
「これが、感謝の正拳突きでござる……!」
感謝?
凶鳥さんの正拳突きによりまだビリビリと震えている空気の中で首を傾げていたら、「これを、一日一万回でござるな」と真顔で言われたため、思わず神妙な顔で頷いてしまった。これも凶鳥さんの好きな少年漫画が元ネタなんだろうか。彼女の口走る言葉は、分かる物と分からない物がある。
凶鳥さんはこの学園に来るまでは東京団地の奥地にある森の中で、同年代の子たちと関わることもないままずっと武術の修行をしていたと聞いている。だけどその分彼女はやっぱり強いのだ。昨日の侵校生との戦いでも、もこちゃんに負けず劣らず活躍していた。こういうストイックなところが、凶鳥さんの強さの根幹なのかもしれない。
すごいとは思うけれどそれでも流石に一万回は真似できる気がしなくて、とりあえず凶鳥さんの足元で腹筋を開始することにした。走ったり飛んだりするのはそれなりに得意だけど、筋トレってあんまりしたことなかったし、これを機にお腹をムキムキにできたらかっこいいよなあ、なんてことをぼんやり考えながら。
目下の目標は、持久力をつけること。どれだけ走り回っても疲れない体力を作ること。侵校生に囲まれないような俊敏性を身につけること――。
これは、そのためのトレーニングだ。私達はこれから皆で毎日体育館に集まって、強くなろうと決めた。これからの侵校生との戦いに備えるため。東京団地の人々を守るため、できることをやろうと。この戦いに全力で身を投じることを、皆で話し合って決めたのだ。
NIGOUの話を聞いて、そうすべきだって、霧藤さんが私達を、真剣な目で説得してくれたから。
「地球」について知っているかとNIGOUが私達に尋ねたのは、私達がこの学園で目を覚ましてから二日目の――昨日の朝のことだった。
保健室で蘇生マシーンや死体回収ドローンの説明をしてくれた後、NIGOUは私達に、私達が戦わなければならなくなった理由について、言葉を選びながら話してくれたのだ。
歴史書にも残っていないような、何百年も昔の話。
かつて人類は、東京団地の何百倍も大きな、「地球」というところで暮らしていた。
地球には、多くの人間が住んでいた。五十万人という東京団地の人口なんて、当時の地球の総人口に比べればあってないようなもの。凍死しかねないほどの極寒の地、灼熱の砂地、水に囲まれた小さな島、見渡す限りの大草原。彼らは地球の、ありとあらゆる場所に棲みついた。食物を育て、動物を食らい、科学を発展させ、豊かだった地球の資源を奪い尽くし――そして、殺し合った。
人間は自らの暮らす土地を傷つけ、破壊の限りを尽くすようになってしまった。彼らが踏みしめている「地球」にも、固有の意思があるとは知らずに。
「意思」。驚いて、思わず口の中で呟いた。
「じゃあ、『地球』は生き物なの?」
おずおずと手を挙げて質問をした私に、NIGOUは「意思があることが生きているということだと言うのなら、そうなんだろうね」と曖昧に答えるだけだった。
私達は、「地球」そのものに馴染みがない。名前を聞いたことがあっても学校で習うのは東京団地が出来てから以降の歴史ばかりで、それ以前の人類に関しては資料すらないのだ。本や漫画、映画にその名が出てきても、昔多くの人類が住んでいてすごく大きかったとか、輪郭のない綿のような話ばかりだった。だから、NIGOUの話は、初めて耳にすることばかりで、アニメや映画の話を聞かされているような気にすらなる。そんな大昔の話が、どうして私達が戦わなければならない理由に繋がるんだろう?
人間の自分勝手な振る舞いは、やがて地球そのものを傷つけていったと、NIGOUは続ける。
「住まわせてやってる方の身からすると許せないわよね。アンタ達、誰のおかげで生きてられると思ってるのよ、って」
「まあでもすぐに重篤な害を及ぼしたわけじゃないみたいだし……。地球にとっての人類は、人間の身体に寄生するサナダムシみたいなものって考えれば良いのかな?」
「キモッ! 人類を寄生虫で例えるヤツ、東京団地中を探してもアンタしかいないわよ!」
「そうかなぁ……」
激しい大雨や強風、暑さによる干ばつ。極端な冷夏。頻発する地震――地球も異常気象という形でもって抵抗を続けてはいたけれど、それでも人間は争いをやめることをしなかった。地球に意思があることを、人類は知らなかったから。NIGOUはそう言ったけれど、もし仮にそれが分かっていたとして、果たして人類は自分達の行動を省みることなどあったろうか。――地球の意思に耳を傾け、歩み寄ったのか。私にはそれが分からない。
人間を止めるため、抵抗するために最後の手段として地球が取ったのが、世界同時多発的な天変地異だったと言う。
NIGOUはそれを、「世界死」と呼んだ。地球自身が自殺を選んだのだと、そう言った。
「――その結果、地球は生き物が住める環境じゃなくなってしまったそうなんだ。人類の大半は死滅して、奇跡的に生き残ることのできた僅かな人々が、今も地下の巨大なシェルターで暮らしている」
「……地下の?」
反芻したのは、霧藤さんだ。
地下、という言葉に想像するものがあったのだろう。彼女だけじゃなく、恐らく皆も。
東京団地の、空を遮るパネル上の屋根。事務局の管理によって、時間の経過で切り替えられるそれは、この学園の屋上から見上げる本物の空とは全くの別物だ。
「運良く地球死から逃れ、地下に移住できたのは、かつて『東京』と呼ばれる大都市に住んでいた人々だ。――彼らが地下に作ったのっていうのが、きっとキミ達が暮らしていた『東京団地』のことなんじゃないかな」
「…………え…………」
「世界死が起きたのがもう何百年も前のことだから、はっきりそうとは言えないんだけどね」
NIGOUのしてくれた、自分達から離れたどこか遠い別の世界のもののようにすら感じられる話は、今、東京団地で暮らす私達に繋がっている。とは言え恐らくNIGOU自身も全てを詳らかにされているわけではないのだろう。確実なこととは言い切れない、と明言を避けたけれど、でも、状況を考えればNIGOUの仮説は腑に落ちる気がした。飲み込むには、少し歪で、大きすぎたけれど。
「世界死」は今現在も緩やかに続いている。最後の人類が消えるまで、地球は自らの死を諦めない。その時は間もなく訪れる。東京団地は地球ごと、じきに滅びてしまう――。
「その世界死から人類を唯一救うためのもの。それがこの学園の防衛室にあるんだよ」
それこそが、人類最後の希望なんだ。
「キミ達は、それを守れる唯一の人間なんだよ」
NIGOUは真っ直ぐ私達を見て、そう言った。
黙々と腹筋を繰り返しているうち、百回を超えたあたりから段々お腹が痛く、苦しくなってくる。だけど視界の隅っこに映る凶鳥さんは今も正拳突きを続けているし、大鈴木さんがサンドバッグを殴り続ける音も止まない以上、私だけが休憩するわけにいかない。「うぐぐ……」って、頭の後ろにやった手に力を込め、息を止めて、目をぎゅうって閉じながら腹筋をし続けた。それもこれも、東京団地を守る為。力を持つ私達が、世界死そのものであると考えられる侵校生を滅ぼし、世界死を止めるため。
とは言え、くるしい。ものすっごく苦しい。お腹全体がピリピリして、足まで震えてくる。でも、まだいける。もうちょっと頑張れる。せめてあと十回、いや二十回くらいは――。
一心不乱に腹筋をしていたそんな時、不意に何か冷たいものが頬に触れて、心臓が止まるかと思った。
「ヒャッ!?」
結露で濡れたペットボトルを首筋に押し付けられたのだ。
ビックリして、反射的に反対の床に倒れ込む。心臓がバクバクして、視界が緩く明滅していた。こんな悪戯をするなんて犯人はもこちゃんかと思ったけれど、堪えるような、吐息混じりの笑い声をあげる人は第二防衛学園には一人しかいない。
「うふふ、ごめんね? ちゃんが一生懸命だから、つい悪戯したくなっちゃったよ……」
「お、面影くん……!」
私の非難めいた声も、視線も、彼はその笑みで躱してしまう。
「ひ、酷いよ、心臓止まった……!」
「本当に止まらなくて良かったなぁ……。これでちゃんの心臓が止まっちゃっていたら、もう悪戯できなくなっちゃうし……」
「…………!」
体育館の冷たい床に体温を奪ってもらいながら、私の隣にしゃがみこんでニコニコ笑っている面影くんを、言葉も発することができないまま見上げる。
優しくて、気のつく人。そういう印象は今も変わっていない。女の子達の中でも臆せず、堂々としていて、独特の雰囲気がある人。東京団地で出会っていたら、絶対話しかけられなかった。例え同じ教室にいても、きっとまともに目も合わせられなかった。
こんな風に出会ってなかったら。
面影くんがその手を伸ばす。案外爪が長いっていうのは、昨日の時点で知っていた。その形は、だけどちゃんと整えられているっていうことも。面影くんは身動きが取れないままでいる私の膝にそっとその指を押し付けると、もう完全に傷の塞がったそこをそっと撫でて、「完全に再生したんだね、ココ」って、低く、囁くみたいに言った。その声の妖しさに、背筋が粟立つ。
――やっぱり、大鈴木さんの言うように、彼ってちょっと変態なのかも。
眼帯のなされていない方の、細められた瞳に映る私の顔は酷く赤い。狼狽しきっている私に満足げに笑みを深めた彼は、そのまま立ち上がって、凶鳥さんと大鈴木さんにも一本ずつペットボトルを差し入れた。……床に置くか、手渡すかで。
「もう良い時間だから、水分を取ってちょっと休憩したら食堂においでだって。希ちゃんともこちゃんが私達の朝ご飯を用意してくれているみたいだよ」
心を乱されてばかりで、困る。本当に。
気持ちを落ち着かせようと彼が持ってきてくれた水を飲もうとしたら、最初からペットボトルの蓋が緩んでいてびっくりした。優しいのか、変わってるのか、どっちかにしてほしかった。