保健室って言うとまず頭に浮かぶのは、白くて清潔な部屋。どこか甘い薬品の匂いが室内に満ちていて、窓からは(東京団地の人工の、ではあるけれど)たっぷりとした日差しが差しこんでいる。薄いカーテンで仕切られたベッド。棚には怪我の治療をするための医療品やちょっとした薬品が整然と収められていて、飾られた花の作る影が、床に青白く伸びている――。
私の描くそんな「保健室」のイメージは、今日、呆気なく覆された。
「な、何よこれ……これのどこが保健室なわけ……?」
多分皆が抱いているイメージとは違うから、びっくりさせちゃうかも。扉を開ける前にNIGOUはそう言っていたけれど、ちょっとどころじゃない。
その部屋は、寒々しさを覚えるくらいに広かった。窓なんかどこにもなくて、天井が高い。灯りと言えば壁や床にランダムに埋め込まれた、細長く小さい、石のようなサイズの電光が仄かな明滅を繰り返しているだけ。ベッドもなければ薬品の一つもない、薄暗い部屋。一体これのどこが保健室だって言うんだろう。
周囲をぐるりと見回しすと、想起され得る保健室の要素が一つもないかわりに、左右の壁に二台ずつ、用途の分からない、私達の背丈の二倍はありそうなほどの大きさの機械のようなものが並んでいることに気がつく。縦長に四角い箱と、四つのタイヤのようなものからなる物体だ。けれどそれよりもさらに目を引いたのは、部屋の奥にある巨大な丸い鉄の塊だった。その頭上には作戦室を守っていたものと同じマシンガンが等間隔に並んでいて、圧倒されてしまう。
「びっくりさせたよね。でもここが本当に、この学園の保健室なんだ」
困惑しきった六人分の双眸が、「まず順を追って説明させてほしいんだけど」と続けるNIGOUに向けられた。
「ええと、さっきさんが言ったよね。『もしももっと大きな怪我をしてしまったら』って」
「い、言った……」
「あのね、そのことなんだけど、そもそもキミ達の持つ我駆力には人間の細胞を復元させて回復させる力も備わっているんだ。だから今回のさんくらいの怪我だったら、すぐ治っちゃうんだよ。膝の怪我だって、本官の話が終わる頃には、だいぶ良くなってると思う。……ぐちゃぐちゃなところは見たくないかなって思って、絆創膏はあげたけどね」
「えっ、そうなの!?」
「ちゅふふ、実はそうなんだ。便利だよねぇ、我駆力って」
思わず膝に貼られた大きな絆創膏を見下ろす。塞がれた患部がどうなっているかを目視で確認することはできないけれど、確かに言われてみれば、この部屋に入る直前に感じていた痛みがいつの間にか消えている……かもしれない。なんだか妙に痒いくらいで。この絆創膏を実際に剥いでみなければ分からないけど、さっき霧藤さんが治療してくれているときにちらりと見えた膝の悲壮なぐちゃぐちゃ感を思い出すと、それも躊躇われた。「……ほんとなの?」って隣の大鈴木さんに声をひそめて尋ねられて、「わかんないけど、確かにあんまり痛くはない……」って同じように小声で返す。
我駆力って、本当に何なんだろう。人間の英知と科学が結集して作られたと言うそれで実際にさっきまで戦っていた以上、その存在自体はもう疑いようがないものなんだけど。
「でも、あんまり大きな傷だと我駆力じゃ再生が追い付かないんだ。すごい力ではあるけど、万能ではないってことだね」
「大きな傷……でござるか? と言うと、ゾロの背中の傷くらい?」
「うーん、死にはしないけどすっごーく痛い怪我とかを想像してもらうといいかも。そういうのを簡単に回復させるための薬を作る施設もこの学園にあるにはあるんだけど……。あそこが使えるようになるのは、もうちょっと後になっちゃうかなあ……」
「へぇ……? そんな施設があるんだ……。楽しみだなぁ……。どんな薬も作れるのかい? ここの学園の他の設備を考えたら……あんな薬品やこんな薬品も作れたりするの?」
「ちょっとアンタら、脱線するでしょうが! 黙って聞いてなさいよ、話が全然進まないじゃない!」
大鈴木さんに叱られて、面影くんは肩を竦める。――面影くんのことはまだいまいち良く分からないけれど、さっき私の治療をするって申し出てくれたことを思えば、薬とか、人体に関しては得意分野なのかもしれない。私は自分の怪我とかすら直視したくないくらいにはそういうのがダメだから、素直にすごいなって思う。薬だって、「作れる」って言われてもピンとこないもん。
じろじろ見すぎていたせいだろうか。その時うっかり面影くんと目が合いそうになって、慌てて逸らした。
大鈴木さんが軌道修正してくれたのを受けて、「じゃあ話を戻すね。それで、我駆力でも薬でも治せない、もっともーっと大きい怪我をしたときの話なんだけど」って、NIGOUは改めてその小さな手を室内の、部屋の左右に並んだ四つの機械たちに向ける。
緩やかな傾斜のついた壁に固定されているそれは、中心に人が一人すっぽり収まるような箱があって、そこからタイヤに似た形状をしたものが対角線上にくっついている。さっきから気になっていたけど、一体これはなんなんだろう。……「保健室」って名前のついたこの部屋にあるんじゃなかったとしても、充分異様な存在感だ。
まじまじと観察してみると、その「箱」の部分には既視感があることに気がついた。これに似たようなものをどこかで見たことがあると、不意に思ったのだ。確か三年前。おじいちゃんが亡くなったときに、お葬式で――そんなことを考えているときに、NIGOUは「これは死体回収用ドローンだよ」と言ったのだ。
死体。
ああ、そうだ、この真ん中の箱。これは棺の形だ。
衝撃が染みこむのに時間がかかった私と違って、さっと顔色を変えてNIGOUに聞き返したのは、霧藤さんだった。
「え……死体……?」
「そう、皆が侵校生との戦いの中で死んでしまったときに、このドローンがここから自動で出発して死体を回収してくれるんだ。中央の箱の、ここの部分がパカって開くみたいだよ。ハイテクだよね!」
「し、死体って、アンタ、なんてこと軽々しく言ってくれてんのよ! いくらなんでも縁起悪すぎるでしょ! ハイテクとかって……サイコパスなの!?」
「キャー! ゴム鞠にしないでー! 本官はそんなに跳ねないからー! ちがうんだ、話を最後まで聞いてーっ!!」
「くららちゃん、今度はアンタが脱線させちゃってるわよ……!」
大鈴木さんにボールみたいに床に打ち付けられていたNIGOUをもこちゃんと霧藤さんが救出する。大鈴木さんはよっぽど動揺しているのか、肩でぜいぜい息をしていたけれど、彼女の気持ちも痛いくらいに分かるのだ。死ぬとか、死体とか、だって、そんな軽々しく口にされていいわけない。こんな状況に置かれているからこそ、尚更。
「ご、ごめんねくららさん、本官の説明の仕方が良くなかったよ……。こっちじゃなくて、先に奥にある装置の方について話すべきだった……!」
言いながら、霧藤さんに床に下ろしてもらったNIGOUは部屋の奥へと小走りで向かった。球体の、異様な存在感を放っている大きな機械。何かの卵のようにすら見えるそれは、中央の部分が開閉できるような仕組みになっているようだ。今はそこが閉じられているから断定はできないけれど、一人の人間が、ゆうに収まりそうなくらいのサイズ感だった。
その時「あのね」と、改めてNIGOUは私達を振り返って言った。「この大きい機械は、蘇生マシーンなんだ」って。
「死体回収用ドローン」の言葉が持つ衝撃性を遥かに上回るそれに、何か聞き間違えたのかと思った。
誰かが言った「は?」が、室内に反響するように響いている。
「実は……我駆力で戦う皆のDNAデータは予めここに登録されていてね、皆は例え戦いで死んじゃっても、ここにドローンで運ばれて、蘇生の処理をしてもらえるんだよ。さっき話した、我駆力の持つ復元や回復の力を促進することによってね。蘇生にかかる時間は……大体数分くらいかな? 丁度カップラーメンができるくらいだね!」
要するに皆は、死んでも死なないってことだよ。
NIGOUの言葉を飲み込むには、多分、私達の中の「常識」ってものが邪魔をしていたんだと思う。
だって生き返るとか、死なないとか、漫画とかゲームの話だ。現実にそんなことが起こることは、絶対にない。
絶対にない――はずなのに、どうして誰も「嘘だ」と口にできずにいるんだろう。
困惑する私達に気がついていないのか、NIGOUは続ける。ただし蘇生できると言ってもドローンが活動できる範囲外、要するにこの学園から離れたところで死んでしまうと死体が回収できず、蘇生が不可能になるということ。死んでから時間が経ちすぎていたり、この装置が壊されるような事態になってしまってもアウトだし、そもそも我駆力の少ない霧藤さんに関しては細胞を活性化させるための力が備わっていないため、この装置に入れたところで蘇生はできないということ。
ありえないって思うのに、それを嘘だと認められないのは、NIGOUがあまりにも真っ直ぐに私達を見つめているからだ。東京団地での戦いと、さっきの戦いで、「我駆力」自体は疑うことができないものになっていたから。
NIGOUの言葉を幾度も反芻させながら、それでもぐらぐらと揺れる頭を支えるために足に力を込める。私達の常識は、ここでは通用しない。じゃあ、やっぱり本当に私達は――。
「……ちょっとごめんね?」
その時だ。
さっきまで私の視界の外にいたはずの面影くんが不意に私の足元にしゃがみこんで、何の逡巡もなく私の膝の絆創膏を剥がしたのは。
びっくりして声も出せなかった。皮膚を引っ張られるような痛みと、足に添えられた面影くんの爪が肌に食い込む感触と、彼のひんやりした指の温度に、脳の処理が追い付かなかったのだ。「ななな、な?」って、何とか口にした瞬間、もこちゃんが「ちょっと男子~!?」って叫ぶ。隣にいた大鈴木さんも、「ア、アンタ、薄々変態なんじゃないかと思ってたけど流石にそれはまずいわよ!?」と私を庇うように一歩前に出てくれて――。
だけど、「あはぁ……」って笑う面影くんは、そういう一切を気に留めていなかった。私の膝をまじまじと見て、それからその指先で遠慮無く患部を撫でて、言ったのだ。
「本当に怪我、治っちゃってるね?」
って。
その言葉に霧藤さんも私の傍に駆け寄る。治療してくれた本人が「本当だ……」って言うなら、きっと間違いはないんだろう。恐る恐る絆創膏の剥がされた膝を見ると、二人の言う通り、確かにそこには薄らとした怪我の痕が残っているだけだった。さっき感じていた痒みも、今はない。
「ちゃんの怪我の具合を見るに、我駆力に細胞を回復させる力があるって話自体は本当なんだよ。だからといってあれに私達を蘇らせる機能があるのが事実かどうかは分からないけれど……」
「ほ、本当だってばー! 本官を信じてよー!」
「うふふ……こればっかりは、誰かが実際に死んでみないことにはね?」
「それはそうよね……。狂死香、ちょっとアンタ死んで確かめなさいよ。でもいいけど」
「なんで拙者がぁ!?」
「ぜ、絶対嫌……っ!」
その時、私達の騒々しい会話を打ち破るように「信じるしか、ないんじゃないかな」って言ったのは、霧藤さんだった。静かな声だった。覚悟と意思が、その底に積もっているような。誰も口を挟まなかった。ただ皆、一様に唇を引き結んで、彼女が伝えようとすることに耳を傾けていた。
「…………どういうものなのかは分からなくても、皆に我駆力があって、それで侵校生を倒したっていうことは、間違いないんだから」
重みのあるその声を。
我駆力とか、蘇生とか、わけがわからない。わからないけど、でも、そういうものだって割り切るしかないらしい。だって、私達にはもうずっと、わけのわからないことしか起きていないから。
東京団地で侵校生に襲われたあの日から。NIGOUに我駆力刀を渡されて、心臓をブスリだよ、と言われた瞬間から。謎の光に包まれて、身体がぐにゃぐにゃになるような感覚に襲われながらここの教室で目を覚ましたときから。
……でもそれはそれとして、あの装置が本物かどうかについてはやっぱり実際に死んでみなくちゃ分からないんだよなあって考える。それでも大鈴木さんの言う通り試しに死んでみるっていう気には、絶対ならないけど。痛いし、怖いもん。想像しただけでぞわぞわして、でもそのぞわぞわが次の瞬間、もっと明確な形で身体を駆け抜けたから、悲鳴が出そうだった。
未だ私の足元にしゃがみこんでいた面影くんが、私の膝をその指の腹で撫でたのだ。
まだ薄い、再生したばかりの皮膚の感触を確かめるみたいに、すり、って。
「…………ッ!?」
悲鳴が漏れそうになって、思わず手で口元を押さえた。びっくりしすぎて声が出なくて、それを良いことに、面影くんはまじまじと膝を見つめている。撫でて、なぞって、息がかかるほどの距離で観察している。私がそれを見て息もできないでいるってこと、彼はわかってやっているんだろうか。
我駆力の少ない霧藤さんだけは蘇生マシーンは使えないという点について改めて念を押すNIGOUに皆意識が行っていたせいで彼の奇行には誰も気がつくことがなく、私も一度飲み込んだ声をあげることができずにいた。面影くんに「なんで」って目で訴えるけれど、面影くんは吐息だけで笑って、「ちゃんと怪我が治っていくところ、見ていたかったなぁ……」って私にしか聞こえないくらいの声量で心底残念そうに呟くだけだった。
彼はよく気のつく人なのだ。心配してくれたり、「抱え込まないようにね」ってわざわざ声をかけてくれたりする。優しい人だっていうのも、この二日で充分すぎるくらい知っている。……その印象を上回る行動を時折取って、私をびっくりさせるっていうだけで。
変わっているって言葉で彼を表していいものか。「そもそもどうしてこの戦いが起こったのか」についてNIGOUが話を移してくれたおかげでようやく面影くんは立ち上がったけれど、面影くんの指の感触はずっと膝に残ったままで、なんだかいつまでもぞくぞくしてしまって、心臓がドキドキして、困った。