運動神経は良い方だった。
 昔からかけっこが早くて、リレーではいつもアンカーだった。走ることだけじゃなくて、鉄棒とかマット運動とかドッジボールとか、身体を動かすこと全般が好きだったのだ。小学生の頃、気になっていた男子が「なんか猿じゃん」って言っているって聞いて傷ついて、それからちょっと手を抜くようになってしまったけれど。
 でも私の運動神経なんて本当に、せいぜいクラスで一番ってだけだった。選手になろうとかそんな夢を見ることができるほどの力があるわけじゃなかったし、「平均より上」から大きく逸脱していたわけじゃない。身体を動かすのが得意、の範囲内。いくら武器を与えられたからって、それがどれだけあの化物相手にすごい効果を持つものだったとしたって、戦えるわけがなかったのだ。
 なのに、私は無傷で立っていた。
 文字通りの死屍累々だった。ぐちゃぐちゃに切り裂かれ、はみ出た内臓ごと重なり合う化物たちの息の根を止めたのは、間違いなく私だった。
 肩で息をしていたのは、全て終わってからようやく恐怖がどっと押し寄せていたからだ。化物達のグロテスクさに、今更吐き気を催していたからだ。疲労なんか一切感じていなかった。殴り合いの喧嘩だって勿論したことがなかったはずなのに、私はあいつらのどこに急所があるのか、どこを切れば良いのか、攻撃を躱しながらでも手に取るようにわかった。あの刀を心臓に突き刺した瞬間から、身体中の血が熱くなって、自分に何か特別な力が宿ったようだったのだ。まるで自分の身体じゃないみたいだった。
 口に入ってしまった髪を払ったら、指先が震えていたせいで、手袋についていた返り血が口元についた。どうして自分がこんな手袋をしているのかも、着ていたはずのブレザーがどうして見覚えのないセーラー服になっているのかも分からなかった。あの刀が消え、代わりに妙に手に馴染むナイフを持っていた理由だって。



さん、すごいよ! おめでとう!」



 合格だ! そう場違いに手を叩いて笑うその子だけは、だけど、全てを知っているような顔で私を見ていた。それが私には、どうしても不思議だった。








 教卓の上に立っているのは、間違いなくあのときのあの子だ。
 赤いベレー帽。デフォルメされた脳味噌と心臓が半透明の身体から透けて見えて、目はくりくりと丸い。短い手足を広げて、「本官はNIGOU。皆、これからよろしくね!」って、やっぱり場違いに笑っている。
 だけど、NIGOUと名乗ったその子が続けて何かを説明しようと口を開くよりも、大鈴木さんが「出たわねアンタ!」って叫んで一歩踏み込む方が早かった。ぎょっとしたけれど、私が東京団地でこの子から刀を貰って化物と戦ったのと同じように、皆も当然この子と面識があるのだ。問い質したくなるのも、無理はない。



「さっきのコロスケもどき、何がよろしくよ……! これはどういうことか説明しなさい! 立派な拉致監禁罪よ! 時と場合によってもよらなくてもタダじゃおかないわ!」

「えっ!? 拙者達、拉致監禁されてたの……!?」

「まあ、状況から考え得るにそうだよね……」

「何だと……!? ええい、許せん! まさしく悪の所業にござる! 拙者がたたっ切ってやろう! そこへなおれ!」

「えっ! 待って待って! 本官をたたっ切ったら大変なことになっちゃうから、考え直して、狂死香さん……!」

「あの……みんな、NIGOUの話、まずは一旦聞いてみない?」



 混沌としかけた状況を収めるように、霧藤さんが口を挟む。
 柔らかい、だけど明朗な声だった。優等生然とした仕草で提案する彼女は、私達全員の視線を浴びながらも臆することなく続ける。



「どうしてこんなことになっているのか、まだわたし達には分からないんだし……」



 理性的な言葉だった。威勢を削がれた大鈴木さんは決まり悪そうに押し黙って、凶鳥さんも刀にかけていた手を止める。霧藤さんの言葉を後押しするように口を開いたのは、様子を窺うように黙っていた喪白さんだ。



「そうね、まずはこの子の話を聞いてみましょ! チョークスリーパーはそれからでもオッケー牧場なんだし!」

「絞める首、この子にはなさそうだけどね……。まあ、一旦話を聞いてみてもいいんじゃないかな。納得できる話を聞かせてくれるかもしれないわけだし」



 面影くんが言いながら同意を乞うように視線を向けたから、私も慌てて頷いた。皆の言う通り、まずは話を聞かせてもらうに越したことはないだろう。
 NIGOUは「ありがとう、皆……」って私達一人一人に頭を下げるけど、「……そんなこと良いから早く話しなさいよ」と大鈴木さんにせっつかれて、慌てて姿勢を正していた。








 手っ取り早く説明するために、と、NIGOUはまず下ろされていた窓のシャッターを開けた。
 たったそれだけで私達がどれだけの衝撃を受けたかなんて、説明するまでもないと思う。
 だってそこにはパネルじゃない、本物の空が広がっていたんだから。
 継ぎ目の一つもない空には白い、何かふわふわしたものが広がっていて、霧藤さんは私達に、「雲」だと教えてくれた。何のためにあるのかちっとも分からないそれは、ほとんど何かの冗談みたいで、思わず後ずさってしまう。机に足をぶつけて、動いたそれが近くにいた凶鳥さんに当たったみたいだったから咄嗟に謝ったけど、凶鳥さんは目を丸くして窓の向こうを見ているだけで、全然気付いていないみたいだった。
 全く見覚えのない場所だった。外に出ればここが大体東京団地のどの辺にあるのか、私じゃなくても分かる人が一人くらいいるだろうと思っていたのに、尋ねなくても分かる。ここは私達が暮らしていた東京団地ではない、どこか遠く離れた場所なんだって。
 眼前に広がる景色は砂っぽく、見渡す限り、建物は半壊していた。瓦礫の山、剥き出しのアスファルトは、だけど私が最後に見た東京団地を彷彿とさせる。人の姿はどこにもなく、荒廃した廃墟群が砂埃に塗れて広がっていた。
 もしも世界の終わりがあるとしたら、多分ここだ。



「ど、どういうこと……? と、東京団地じゃ、ないの……?」



 大鈴木さんの言葉に、「そう。くららさんの言う通り、ここは東京団地じゃないんだ」と、真面目な顔でNIGOUは答えた。分かりきっていて、だけど、誰も求めていない答えだった。
 有無を言わさない口調で、NIGOUは続ける。



「ここは第二防衛学園。キミたち六人にはこの学園で、とある任務についてもらわなきゃいけないんだよ」



 続けられた言葉がきちんと脳に染みこむより先に、こんなの本当に拉致だ、って思ったのだ。








「――どう思う?」



 食事を取れば冷静になるものなのだろうか。或いは時間がそうさせたのか。
 さっきまで私と一緒に狼狽しきっていた大鈴木さんは、空っぽになったお皿を前に落ち着いた様子でそう切り出した(驚くことに、彼女はトマトのマスクを被ったままでも食事ができるらしい。他に考えることが多すぎて、その驚きを口にすることはできなかったけれど)。
 学園の一階にある食堂だった。「任務」についてある程度の話をし終えたNIGOUは私達からの質問に幾つか答えた後、押し黙ってしまった私達を気遣ってここに連れてきてくれた。「本当は今日のうちに学園の施設を案内するつもりだったんだけど……日を改めた方が良さそうだね」という言葉と共に。
 食堂という言葉から連想されるものとは到底かけ離れた三体の人型ロボットやその周囲を回転寿司さながら流れるレーン、業務用どころじゃない超巨大冷蔵庫やキャンディマシーン、水族館かと目を瞠るほどの水槽がやけに目を引く、まあまあ異様な部屋だったけれど、それにつっこむ体力も気力も残されていなかった。「とりあえず食事にしてね。そこの自動調理マシーンに頼めば、好きなものを何でも作ってもらえるから」とのNIGOUの説明通り、ロボットは本当に何でも作ってくれるらしく、各々好きなものを食べることはできたけれど、それくらいで削れた精神が回復するわけではない。多少、停止していた思考が動き始めたのは事実だけど。
 気を利かせて姿を消してくれたNIGOUの気配がないのを改めて確認して、それから「ちょっと、よくわかんない……」と、大鈴木さんの問いに答える。



「なんでこんなところに連れてこられたのもよくわかんないし、なんで私達が特防隊……? に選ばれたのかもわかんない……」

「そう、なんだかんだ話せないってこと多かったわよね、アイツ。ふざけてるわ」

「守れと言う防衛室とやらに何があるのかも、結局教えてもらえなかったでござるな!」

「私達が戦わなくちゃ東京団地に残してきた大切な物も失ってしまうって言うのも、実質脅しみたいなものだったしね。……騙されてるんじゃない? 私達」

「だ、騙されてるでござるか!?」

「有り得ないことじゃないわよ。……それに、期限が百日ってのも分からないわよね。どういう数字よ?」



 NIGOUは、私達が特別防衛隊――「特防隊」に選ばれたと言った。
 特防隊の私達は、東京団地から遠く離れたこの第二防衛学園を襲う「憎き敵」を「虐殺」し、学園の防衛室というところにある大切な物を守らなければいけないらしい。期限は百日。その間私達はこの学園で共同生活を送らなくてはならなくて、東京団地にも帰れないんだって。しかもそんな大それたことに一方的に巻き込んでおきながらその大切な物が何かっていうのは私達には教えられないし、その上私達が戦わずにそれが敵に奪われてしまえば、東京団地の皆も死んでしまうんだって。
 面影くんの言う通り、そんなの脅しだ。……この学園の「大切な物」が奪われたら人類が滅亡しちゃうっていう話が事実なら、脅しでもなんでもない純粋な事実ってことにはなるんだろうけど。



「――だけど、東京団地が無事っていうのだけは分かってよかったわよね!」



 肉は完全食だから、とこんな時でも誰よりも旺盛な食欲を見せていた喪白さんが、指を立てて私達を見回したのはその時だった。
 場違いに明るい声だった。全てのものをあるがままに受け入れた上で、前に進むべき道を探し当てようとでもしているかのような。喪白さんは笑いながら言う。



「あんなに酷い状況だったのになんとかなったなんて、東京団地もゴイゴイスーだわ。アタイてっきり、東京団地はもうダメになっちゃったのかと思ったもの。――ね、希ちゃん!」

「あ、う、うん……。そうだね……」



 急に声をかけられて驚いたのだろうか。霧藤さんはまだ半分も残っている卵のおかゆから顔を上げて、慌てた様子で頷いている。何か思案している様子ではあったけれど、仕方ないだろう。私だって、いっぱいいっぱいだ。叶うなら逃げ出したい。今からでも合格を取り消してくださいって言いたい。……無理なんだろうけど。
 喪白さんの言う通り、東京団地はアレで無事らしい。NIGOUはそう言ったし、確かめる術もない以上私達はそれを信じる他ないけれど、それでも死者が大勢出たことは疑いようがないだろう。
 あのぬいぐるみ達を、NIGOUは「とにかく悪くて獰猛な人類の敵」と言った。その言葉に嘘はないと思う。だって私自身、あいつらが罪のない人々を襲うのを目の当たりにしたから。許せなかったし、今でも許せない。あいつらがいなければ東京団地は今も平穏無事で、私達だってこんな風に戦いを強いられることもなかったはずだ。
 私達みたいな高校生がどうして特防隊として選ばれたのか。何を守らなくちゃいけないのか。東京団地から遠く離れた、なんて言うけれど、実際ここはどこなのか。知りたくても教えてもらえないことたちが私達の周囲を漂って、一つ一つ真面目に向き合って考えていると頭が爆発しそうになる。NIGOUが「侵校生」と呼んだあの化物たちと、また戦わなくちゃいけないなんて。またあの刀の力を使わなくちゃいけないなんて。考えるだけで、東京団地での光景が蘇って、怖気が走る。
 のろのろと食べていたオムライスは、まだ三分の一は残っていた。ぽっかり穴を開けているそれが、抉られた死体みたいに見えて、急に気持ち悪くなって、眉根を寄せて手を止める。



「……大丈夫? ちゃん」



 その時不意に声をかけられて、顔を上げた。正面に座っていた面影くんが私のことを真っ直ぐ見据えているのを見て、私は言葉に詰まってしまう。
 面影くんって、下の名前に「ちゃん」を付けて呼んでくれるんだ。「だ、だいじょうぶ」って頷きながら、そんなどうだっていいことを考えていた。そんな風に男の子に名前を呼んで貰うのって、初めてかもしれないなって。なんかくすぐったいな、って。そんなことでも考えて気を紛らわせていないと、本当に走ってここから逃げ出していたっておかしくなかったのだ。


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