正面で人と向かい合うのって、こんなに緊張するものだっただろうか。こんなんだったら、最初から影浦くんの隣の席を選んでいるべきだった? でもそうしていたらそうしていたで、身体の半分が緊張で堪えられなくなっていたと思う。ドキドキして、具合が悪くなっていたかも。
とは言え、やっぱり正面もよくない。いつも横からしか見られない影浦くんが真正面にいると、どこに視線をやったらいいのか分からないから。斜向かいの柚宇ちゃんの方ばかり見ていたら不自然だし、「かげうら」って書かれたグラスを見続けているのもおかしい。かといって俯き続けていたら、物凄く感じが悪い。……これがゲームをしているときに柚宇ちゃんが良く言う、「詰んだ」ってやつなのかもしれない。
影浦くんは鉄板の上からお餅入りのタネを北添くんに差し出すと、「てめーは自分で焼け」ってぶっきらぼうに言った。「はいはい、そのつもりですよー」にこやかに受け取る北添くんの穏やかな声も、今は私の強張った顔をほぐすのに足りなかったけれど、でも、そのやりとりではっとする。そっか、お好み焼き屋さんって、自分で焼かなくちゃいけないんだ――。
「わ、私もやる……!」
手を患わせるわけにはいかない、と思ったけど、影浦くんは眉を寄せて「あ?」って言った。怖くないって分かっているのに、ほとんど反射で怯えてしまいそうになる。そんな私に横から囁いてくれたのは北添くんだ。
「ちゃんちゃん、ここは常連以外は店員さんが焼いてくれるから、カゲにやらせていいんだよー」
「えっ! そうなの!?」
「大体どこもそんなもんだろ。初めてのヤツに焼かせるかよ」
「そうなんだ……!? し、知らなかった……」
「わ~、お好み焼き屋さん初めての人の新鮮な反応だ~」
「わたし初めてじゃないけど、わたしの分も焼いてくれんかね~」
「うっせーなそのつもりだよ、黙って待ってろ」
キツめの言葉を向けられても、柚宇ちゃんは「わ~い」って笑顔でいた。大らかでいつもにこにこしている柚宇ちゃんは、きっと影浦くんに何を言われてもケロっとしているし、影浦くんもそれを分かっている。そういう関係性は、ちょっと羨ましい。
影浦くんは慣れた手つきで鉄板を温め始めると、その間に生地を混ぜ始めた。卵黄に容赦なくスプーンを突き立てて、満遍なく混ぜるその仕草はプロの人みたいで、思わず「わあ~……」と感嘆の声を漏らしてしまう。
軽く腕まくりをして油を引く手首の動き。熱くなった鉄板はじゅわって音を立てて、思わず身を引いた。ヘラを使ってお肉を焼く影浦くんがあまりにもサマになっていて、格好良すぎて、もうこの一瞬一瞬を写真に収めたい――と思ったら口にしてしまっていたらしい。影浦くんがマスクの下で「ぜってーやめろ。撮ったら奪って消す」って凄むから、隣が北添くんじゃなくて柚宇ちゃんだったらひっついていたところだった。でも、本当は少しだけ嬉しかったのだ。影浦くんが私に、柚宇ちゃんに向ける半分くらいでも、遠慮のない言葉を向けてくれて。
焼いたお肉をヘラで切って、ボウルに戻す。それを再びよく混ぜたら、熱くなった鉄板の上に丸く乗せて形を整える。「お好み焼きの美味しい焼き方」は各席の目につくところにそれぞれ貼ってあるけれど、影浦くんはそれが完璧に染みついているのがよく分かる逡巡のなさだった。私の知らない影浦くん。学校にいるときの、張り詰めたような感じが和らいで、目の前のお好み焼きに視線を落としている。指が長くて、骨張っていて、きれいだ。
時折ヘラで形を整える影浦くんを、無意識に見つめてしまっていたらしい。視線も上げずに、「あんま見てんじゃねーよ」って言われて、慌てて謝った。影浦くんが作るよりも厚い生地を作っていた隣の北添くんが、小さく笑ったような気配があった。
影浦くんの焼いてくれたお好み焼きは熱くてふわふわで、ものすごく美味しかった。「お、おいしい~……!」って思わず漏らした私に、影浦くんは少しだけその目を細めて、「だろ?」って言ってくれて、急に味がしなくなってしまって、困った。私はあの日を思い出した。あの日、私のパンパンに膨らんだお菓子ポーチを見て、笑ってくれた日。気がつかなかっただけで、私はあの日もう、影浦くんのことが好きだったのかもしれない。
向かいに座る影浦くんの靴に触れてしまわないよう、椅子側に足を寄せる。てかてかのソースに、生きているみたいな鰹節。グラスに印字されたかげうらの文字。会話の中に時々混ざる、私の知らない、恐らくボーダー関係者らしい人の名前(北添くんは「ちゃんの分からない話しちゃってごめんね」って、謝ってくれた。そんなこと気にしなくて良いのに)、影浦くんの一口は私や柚宇ちゃんのそれよりずっと大きくて、びっくりした。ぎざぎざの歯はやっぱり鮫を彷彿とさせたけど、もう、何も怖くなかった。油を含んだ煙のにおい。和やかな喧噪に包まれた、影浦くんのおうち。私を取り巻くひとつひとつが輝いて見えて、もう、充分だって思った。
完全に満足していたから、お好み焼きを食べ終えた後、「家まで送ってくから待ってろ」って影浦くんに言われたとき、びっくりした。「送ってく」って言葉が上手く脳に浸透しなくて、影浦くんの言葉の五秒後くらいに「えっ」って言ってしまったのだ。
「お、送る……!? いいよ、そんな、悪いよ……!」
「この時間、もう外暗いんだよ。女子一人で歩かせられるか」
「え、ゆ、柚宇ちゃんは」
「わたしはこの後防衛任務があるからね~。ゾエさんと先にボーダーに行ってるよ~」
「国近ちゃん、結構時間ギリギリでしょ? ゾエさんのバイク、一緒に乗せたげるよ、嫌じゃなければ」
「お、マジ? ゾエさん気が利くね~。じゃあお言葉に甘えさせてもらうぜー。――もこの間家の近くで不審者が出たっぽいって言ってたじゃん。危ないし、送ってもらえ~」
「え、不審者か。そりゃ危ない。でもカゲがいれば安全だね~。不審者にも言葉通り噛みつきそうだし」
「誰が噛みつくかボケ」
誰一人そんなつもりはなかったんだろうけれど、結果として外堀を埋められてしまった形になって、慌てる。送ってもらうの、もう決定なんだ。そう思うと、胃に収まったばかりのお好み焼きがちょっとせり上がってきそうになる。
そりゃあ嬉しくないわけじゃない。影浦くんに送ってもらえるなんて、人生最良の日かと思う。今日の私はこれから先の幸運を前借りに前借りしているに違いないし、それに見合った不運がこの後降り注いでも文句は言えないだろう。それでも大人になって振り返ったとき、今日って日はきっと色褪せずにいつまでも残っている。
微かに生地のこびりついた、熱を失いかけた鉄板。汚れたボウルと、溶けかけた氷とウーロン茶の茶色が混じり合ったグラス。その向こうで影浦くんが腰を上げる。、って、影浦くんは私を呼ぶ。
「準備してくるから、店出たら外で待ってろ」
影浦くんの低い声が真っ直ぐ耳に入って、まだ動揺をしていたはずなのに、「うん」って、考えるよりも先に口から出てしまった。
厨房の方に顔を出して、何かご家族に声をかけてから、影浦くんは居住スペースと思しき奥の方へと消えて行く。顔がバカみたいに熱っぽくて、お店の喧噪が遠い。本当は柚宇ちゃんに「どうしよう」って泣きつきたいけど、影浦くんが好きだなんて話していない以上、そんなこともできない。北添くんだっていたから、例え私が予め柚宇ちゃんに相談をしていたとしてもどうしようもなかったって分かっているのに、それでも今は誰かに「どうしよう」って言いたくてたまらなかった。どうしよう。送ってくれるって、どうしよう。
でも、私は自分が態度とか顔に全部出るたちだってことを忘れていた。私の様子を見ていた柚宇ちゃんと北添くんが顔を見合わせていたことも気がつかなかったし、勿論そうじゃなくたって北添くんが色んなことを分かっていた上でこの場にいたっていうのも知らなかった。
影浦くんがいつからか私のこと、そういう意味で気にかけてくれていたってことだって、全然気がつかなかったのだ。