「かげうら」はボーダーによって警戒区域が拡大された影響で、一年ちょっと前に東三門の方から梅見屋橋に移転してきたお好み焼き屋さんだ。家族経営のこぢんまりとしたお店だけど、お祭り以外でお好み焼きを食べることのない私でも名前を聞いたことがあるくらい評判がよくて、タウン誌なんかにも時折載っているらしい。
 夕飯時で混み合い始めたお店はまだ新築然としていて、木と油の匂いが混じり合っている。家族連れで賑わう店内を、背の高い店員さんに「空いているお好きなお席にどうぞ」って声をかけられた柚宇ちゃんは迷うことなく歩いて行った。その先にあった見知った顔に、私がすっかり固まってしまっているなんて気がつかずに。



「お、ゾエさんたちはっけ~ん」



 空気が薄い気がするのは、だけど間違いなく私自身の問題だろう。ライオンのぬいぐるみを強く抱きしめたせいで、心臓の鼓動が近く聞こえる。いるかもしれない、と思ったけど、いなかったらいいなって思っていた。でも本当はちょっと期待していたのだ。影浦くんに会えたらな、って。恋をしているとき特有の、浮ついた矛盾を抱いていた。
 ――ほんとに会えちゃった。
 影浦くんは、北添くんと一緒にいた。席に座っていたから、お店の人としてじゃなくて、多分、北添くんとご飯を食べるところだったんだと思う。学校の外の影浦くんを見るのは初めてで、メニューと睨めっこしていた北添くんの前で退屈そうにしていた影浦くんが柚宇ちゃんの声に目線をあげたとき、私はその視線に射貫かれたようにすら思っていた。
 細められた目。だけど僅かに、驚きの色が差し込まれたように思えた。――なんでいんだよ、って、影浦くんの目が言っている気がした。








 柚宇ちゃんが先に座るよう促してくれたから、迷わず北添くんの隣に座った。六人掛けの席は広々としていて、通路側にバッグとぬいぐるみを置いてもまだ北添くんとの間には余裕がある。「あ、ちゃん、それお菓子のやつ?」反対側に置いたぬいぐるみを覗き込むように首を傾げる北添くんの纏う空気は、いつもやわらかくて、ほっとする。



「う、うん、そうなの、今日柚宇ちゃんに取って貰ったんだ」

「へー。国近ちゃんは分かるけど、ちゃんってゲーセンとか行くんだ? 意外だなー」

「よく行くよー。私はUFOキャッチャーとか全然だめだけど……」

「でもも今日は取れたじゃん、お菓子のやつ」

「あ、そうそう、お菓子取れた! 百円で三回できるやつ。だだだーって落ちた!」

「あー、あれいいよね、ゾエさんもたまにやる」



 北添くんは元々柔らかい面立ちをした人だから、笑うともっと優しい印象になって、話していると安心する。去年の教室を思い出す懐かしい空気に、けれど完璧には浸れないのは、斜め向かいの影浦くんがむっつり黙って座っているからだ。柚宇ちゃんも北添くんも全然気にしていないみたいだけど、不機嫌にも見えるその雰囲気に、違う意味でドキドキしてしまう。
 ……もしかして、相席、迷惑だっただろうか。急に来て、きめぇなストーカーかよって思われてたりしているんじゃないだろうか。わざわざうち来てんじゃねえよ、とか。当たり前のようにここ座ってんじゃねえよ、とか――。影浦くんはそんなことを考えるような人じゃないってもう分かっているくせに、それでも悪い方に考えてしまうのは、一種の防衛本能に似ている。鼓動を打つ胸を押さえながらそろりと視線をやろうとしたとき、メニューを眺めていた柚宇ちゃんが「きめたー」って言ったから、肩が跳ねた。



「わたしふつーのモダン焼きにする。は?」

「あ、じゃあ私も同じのにする……!」

「色々あるよ? 海鮮とかチーズとか、もんじゃもあるし。ゾエさんはねー、全メニュー制覇目指してるから、今日は餅入りのやつ」

「わ、お餅入りもいいね! でも私、お好み焼き屋さん初めてだから、とりあえず普通の食べてみたいな……!」

「あーそっか、女の子ってこういう店、あんま来ないよね」

「ゾエさんゾエさん、わたしはたまに来るよー?」

「国近ちゃんはそうだよねー」



 鉄板を挟みあって談笑していると、それまで黙っていた影浦くんが「ちょっとどけ」って、隣に座っていた柚宇ちゃんを立たせて席を離れた。「すまんねー」って柚宇ちゃんが言っているところを見ると、店員さんの代わりに注文を伝えに行ってくれたんだろう。
 「カゲごめんね、ありがとー」って北添くんが言った後で、「よ、よろしくおねがいします……!」って言い添えたら、影浦くんはちらりとこちらを一瞥した後、結局何も言わずに厨房の方に行ってしまった。



「――北添隊員北添隊員。今日の影浦隊長、ご機嫌ななめな感じかね?」



 影浦くんが戻って来たときまた立つのが面倒だったのか、それとも北添くんと話をするのに向かい合っていた方が楽だと判断したのか――そのどっちもなのかもしれない。柚宇ちゃんはさっきまで影浦くんのいた奥まった方の席にスライドしながら腰を落ち着けると、内緒話でもするみたいに口の周りに手を添えて尋ねた。何でも無いようにしていたけれど、柚宇ちゃんも影浦くんの様子は気になっていたみたいだ。
 北添くんは「えー? そうかなー」って、誤魔化しているのか、本当にそう思っているのか、曖昧に首を傾げる。「カゲっていつもあんな感じじゃないかな? ねえ、ちゃん」。けれど急に話を振られてドキッとした。その時の私の頭の中は、半分くらい、柚宇ちゃんの口にした「影浦隊長」って言葉で埋まっていたから。



「えっ、う、う~ん、えっと……私も、その、怒ってるかな……? とは思ったけど、でも普段もあんな感じと言えばあんな感じ、かも……」



 北添くんの前では自信がなくなってきて、語尾にいくにつれて小声になってしまう。「あ、そういえばたちって同じクラスだったっけ?」柚宇ちゃんのこういう、他人の感情に影響されない切り替えの速いところが、私は羨ましい。
 結局それからはそれぞれのクラスにいるボーダー隊員の話になってしまって、柚宇ちゃんの口にした「影浦隊長」については突っ込んで聞くタイミングを逸してしまった。
 影浦隊長、って言葉は、だけど澱のように私の底に積もっている。
 メディアに良く出ている「嵐山隊」は知っていたし、他にもボーダーにはたくさんの隊があるっていうのは知っていたけれど、影浦くんが隊長さんだってことは知らなかった。
 ……隊長。影浦くん、隊長さんなんだ。ボーダーのこと、全然わかんないけど、すごいことなんだろうなあ。自分の知らない一面を不意に垣間見てしまって、それだけでなんだかもう胸が一杯になってしまって、ドキドキする。偶然(ここが影浦くんのご実家である以上、偶然って言葉は少し盛りすぎている気もするけど)影浦くんと会えて、こうして同じ席に座らせてもらえて、二人から影浦くんのことを聞けて、なんだか物凄く満ち足りてしまった。日記なんか書いてないけど、今日の分を書いたらそれだけでとんでもないページになりそうなくらい充足感でいっぱいで、だからもう、これ以上なんか望んでいなかったのだ。まだお好み焼き、食べてもいなかったのに。
 お好み焼きのタネの入ったボウルを手に影浦くんが戻って来たのは、それから数分後のことだ。眉根を寄せて小さく舌打ちをした影浦くんは、「おい、席ずれてんじゃねえよ」って柚宇ちゃんに文句を言いながらもそのまま空いているそこに腰を下ろした。「立つのめんどくてね~」って、間延びした声で答える柚宇ちゃんと、影浦くんを見比べて、それから息を飲む。
 柚宇ちゃんが席を移った後のそこ――要するに、鉄板を挟んだ私の目の前に、影浦くんは座った。思わず漏らしてしまった「あわ……」とか言う情けない声は、お店にやって来た大学生グループの笑い声で全部かき消えてくれて、それだけがせめてもの救いだった。