影浦くんのことが好きだって自覚してから、私は自分の一挙手一投足に最大の注意を払っていた。経験上、誰かを好きになったあとの私の好意は意中の相手どころか周囲の人間にすらダダ漏れらしいって分かっていたからだ。
小学生のときなんかクラスメイトたちに面白がられて、好きな男の子と、無理矢理「夫婦」なんて呼ばれてからかわれた。あの時の結城くん(優しい人だった。配布されたプリントが足りないとき、自分の分を私に寄越して、先生にもらいにいってくれるような)の気まずそうな、困ったような、少しだけ迷惑そうな顔、今でも夢に見る。トラウマすぎて、あれ以来、人を好きになるのが怖くなって、誰かを「いいな」って思う度、好きに片足を突っ込む前に距離を取った。私じゃない女の子と並んで歩く背を見て、ちくちくした痛みを抱えながら心の中で祝福した。それでもあまり視界に入れぬよう、足元ばかりを見て歩いた。
地を這うたんぽぽの濃い黄色を、葉っぱのギザギザを、だから、今でも覚えている。結局私の恋愛偏差値は、小学校の頃と変わらず低いまま。
影浦くんのことは、多分彼への偏見と第一印象が生み出した恐怖が最後まで壁になっていて、私は自分の中に浮かんだ「いいな」がそういう意味だったって気付くのに遅れてしまったのだと思う。
だから、ほとんどグーパンで殴られて一発KOみたいな感じで、好きだって気付いてしまった。影浦くんに「」って呼んでもらえて、彼の不器用な優しさに触れて、びっくりするくらい簡単に足を踏み外した。ううん、私の足元がまるく切り取られて、抗う間もなく落下したのだ。
ごつごつした手。苛立ったように寄せられる眉が、私と話すときは微かに下がるところ。無意識にか、話をするとき、少し屈んで耳を傾けてくれるところ。ぶっきらぼうな仕草も、気を抜いたときにうっかり漏れる「バカ」とか「ボケ」とかの、容赦のない言葉たちも、ゆるしてもらえた気がして好きだった。癖の強い重たそうな髪。鬱陶しそうに細められた目が、ありとあらゆるものを拒絶しているように見えたのに、どうして目が離せなかったのだろう。
影浦くんの欠片たちを思い起こす度、私は喉のあたりになにかがくっついたような異物感を覚えてしまう。消しゴムを拾ってくれたこと、教科書を見せてくれたこと。かわりに黒板を消してくれたこと。一緒に居残ってくれたこと。影浦くんのぶっきらぼうな優しさが、浮き上がって私の中に鮮烈な色を残していく。それらは全部、光が小さく爆ぜるみたいに、いつまでもきらきらしている。影浦くんは、いつもそのきらきらの中にいる。
――どうしよう、わたし、影浦くんのこと、すっごい好きだ。
浮き上がるような気持ちを覚えた反面で、それを自覚した瞬間から、バレないようにしなくちゃ、って思った。いつかの片思いは今も私の脛に消えない傷を作っていたから。私は影浦くんに、ほんの少しでも迷惑をかけたくなかった。あんなにくっつけたかった机が拳一個分離れているのに、今はそれに救われたようにすら思っていた。
影浦くんにはとっくに全部伝わっていたなんて、思いもしなかったのだ。
柚宇ちゃんと買い物に出かけたのは、その週末だ。
クラスがかわっても、柚宇ちゃんとは時々出かけたりする。ボーダーのお仕事があるから頻繁にってわけにはいかないけれど、それでもおうちに来てもらったり、カフェに行ったり、洋服を見たり、ゲームセンターに行ったりした(柚宇ちゃんはUFOキャッチャーが好きで、設定の甘そうな筐体を見ると躊躇なくお金を入れて、一手二手で取ってしまう。それで、大体私にプレゼントしてくれるのだ。「からはいつもお菓子もらってるからねー」って言って)。
この日柚宇ちゃんが取ってくれたのは、お菓子のパッケージに長年起用され続けている、ちょっととぼけた顔をしたライオンのぬいぐるみだった。「これは絶対でしょー」って、柚宇ちゃんは私にプレゼントしてくれた(どういう意味か聞いたら、顔が似てるんだって。ギリギリ悪口だ)。可愛いのでありがたくもらったけれど、バッグに入らなかったから、腕に抱えた。
誓って言うけれど、私は柚宇ちゃんに影浦くんの話は一切していない。もしも柚宇ちゃんが同じクラスだったら柚宇ちゃんは私の挙動不審を目敏く察したかもしれないけれど、教室での様子を知らない柚宇ちゃんには、私がどれだけ影浦くんに思いを募らせているかなんて分かりようがないはずだった。なのに柚宇ちゃんは言ったのだ。「今めっちゃお好み焼き食べたい」って。
びっくりして、息が止まった。
「おっ、お好み焼き!?」
「いやー出がけにテレビで特集見ちゃってさー。がなんでもいいって言うなら、ご飯、お好み焼きがいいなー」
確かにさっき、夕飯のお店を決めるときに「なんでもいい」って言った。ラーメンでもパスタでもハンバーガーでもなんなら牛丼でも、本当になんでもよかったから。でも影浦くんのおうちのある梅見屋橋のあたりにいるときに「お好み焼き」って言われたら、身構えてしまう。柚宇ちゃんは同級生のお店でも気にするタイプじゃないって分かっているのもあったから。
柚宇ちゃんは、私が影浦くんのことを好きだなんて知らない。知っていたとしても、そういう気を回すようなタイプでもない。だから本当に偶然お好み焼きが食べたくなったんだろう。
直前に「なんでもいい」って言った手前撤回することはできず、柚宇ちゃんに引き摺られるように「かげうら」の暖簾をくぐったときには、既に日が傾き始めていた。影浦くん、いなかったらいいなっていう思いと、いてくれたら嬉しいのになっていう思いが同じくらいあって、何も食べていないのに、緊張でもう胃の辺りがムカムカしていた。
「お、ゾエさんたちはっけーん」
日曜、ボーダーに向かう前にゾエと腹ごしらえをしようと空いている席に腰を下ろした直後、店の扉が開いたと思ったら、見知った顔が現れてギョッとした。
一人はゾエの顔を見て俺達の席に駆け寄ってきた国近で、もう一人は――だ。そういえば、こいつらも去年同じクラスだったんだったか。は何故か腕にどこかで見たようなライオンのぬいぐるみを抱えて、立ち尽くしている。……目が合って、互いにそのまま見つめ合ってしまった。俺に刺さる困惑と同じ強さで「どうしよう」ってその顔が言うから、俺もどんな顔をしていたらいいのか分からなくなって、つい眉根を寄せた。
「あれ、国近ちゃんとちゃんだ。ここで会うなんて珍しいね」
「いやー、と遊んでたんだけど、お好み焼き食べたくなっちゃってさー。ゾエさんたち、まだ食べてないかんじ? 折角だし相席いいかねー?」
週末の夕飯時だ。まだ空席はあるにはあるが、経験上三十分後には待ちが出る。相席を申し出てくれるのは店としてはありがてえが――マジかよ、とも思うのだ。
俺の顔色をゾエはちらりと見て、それから未だ通路に棒立ちのを振り返る。「ゾエさんは良いけど、ちゃんは平気?」俺に聞いたら余計なことを言うかもしれないと考えているんだろう。相変わらず、ゾエは俺のことを良く理解している。俺が口走るかもしれない言葉に、がいらねぇショックを受ける可能性はまあまああった。
の、明らかに動揺した瞳がゾエを見た。ぬいぐるみを抱く腕に力を込めながら、「へ、平気……!」とこくこく頷くは、俺とはもう、目も合わせようとしなかった。