一人で置いてけねぇだろ」



 雨が窓を叩く放課後、何の他意もなくそう口にした二拍後くらいにから発せられた感情の塊は、ほとんど不意打ちみてぇなもんだった。
 反射的に警戒しなければならないほど尖ったもんじゃない。痛みだって勿論ない。仄かな熱だけ孕んだ角の取れたそれは、だけど俺の腹を容赦なく突いた。瞬間、無意識に息が止まった。――意味が分からなかったのだ。
 ぬるくて柔らかいその感情の正体は分かっていても、どうして「そう」なったのかまでは理解はできない。だって俺はただ一緒に、の親が迎えにくるのを待っていただけだ。ただ誰もいない教室でと駄弁って菓子を食っていただけ(それも、俺は飴を幾つかもらっただけだった。「そんなにいらねぇよ」と言ったのに、「いいから食べて!」と押し付けられたのだ)。それで、毒にも薬にもならないような話をしただけ。教室に一人で置いて行けなかったから一緒に残った。それだけだった。
 ――だから、なんでだよと思ったのだ。
 なんでだよ。なんでコイツ、今ので俺のこと好きになってんだ、って。
 から発せられる、掠めるというにはほとんど包み込むようなぬるさを持った感情。他人から向けられるのは初めてだったのに、直感でそれが「そう」と分かったのは、目の前のの顔が、分かりやすく赤かったからだ。
 口元を押さえて俺を見上げるの目は丸くて、微かに潤んでいるように見えた。やわい光がその目に宿って、奇跡か何かでも見ている瞬間にでも立ち会ったかのような錯覚を覚えた。薄らと色づいた頬。緩やかすぎる瞬きが作る睫毛の影が、妙にくっきりしていた。指の隙間から漏れた息が耳につく。こんなサイドエフェクトを持っていなくたって、余程のバカでもなきゃから漏れ出る感情を察知できるに違いない。
 ――人のこと好きになる瞬間の人間って、こんな顔してんのか。
 そう他人事みたいに考えていた。多分、そうして切り離しておかなければ、自分が何を口走るかわからなかったから。
 昇降口で別れるまで、は狼狽を隠しきれることのないままだった。俺の隣を縮こまって歩くせいで、咳払いの音も妙に遠かった。別れ際、「影浦くん、ありがとね、また明日」と小さく手を振るのぎこちない笑顔がどうしてか笑えて、息を吐いた。マスクを下げていたままだったのを、忘れていた。
 そのときの俺の顔を見たらしいが僅かに目を丸くしていたのが、今も鮮烈に目に焼き付いている。








「ところでカゲって、ちゃんと付き合ってたりする?」



 その言葉に飲みかけの缶ジュースを吹き出しそうになって、半分咽せながら「んでそーなんだよ、ボケ」とゾエのケツに蹴りを入れたら、思ったよりしっかり入った手応えがあった。バランスを崩したゾエは「うわっと」と言いながら、いつかのようにボーダーの休憩所のソファによろめく。
 直前、自販機の前にいた薄ら覚えのある顔をした隊員が俺を見て怯えたように去って行ったおかげで、付近には誰もいなかった。でも、付き合ってたりするかって、何言ってんだコイツ。目線だけで尋ねる俺に、ゾエは「ちょっと小耳に挟んでさぁ。噂ってやつ?」といつもの間延びした口調で答えるが、んだそれ。噂なんて俺は知らねえ。
 あの雨の放課後から、既に数日が経っていた。俺への好意(自分で言うのも、なんつーか、気まずいもんがあるが)を自覚しても、は普段は態度に出さないように努めている。今まで通り挨拶をし、必要があれば話をするが、無駄に会話を続けようとはしない。菓子の入ったポーチも、普段は鞄に眠ったまま。休み時間は友人の元へ向かい、俺が早退なり遅刻なりをした日には「頑張ってね」だの「お疲れ様」だの口にする。
 要するに、はこれまでとさして変わらない様子で俺に接しているのだ。――まあ、普段の目線や俺が席を立つときの微かな動揺は隠し切れちゃいねえから、もしを注視しているヤツがいれば多少の違和感は覚えるかもな。だけどそれだって、「噂」になるほど分かりやすいもんじゃない。
 どうせまた穂刈があることないこと吹聴して、それに尾びれがついたんだろう。そう口にする俺に、しかしゾエは首を振る。出所が穂刈ではないってのは意外だった。首を傾げ「あ? ちげーのかよ」と口にすれば、「今回はそっち経由じゃないね」と、ゾエは続けた。



「最近カゲがボーダーに来なかった日があったじゃない? あの日、カゲとちゃんが二人っきりで教室に居残ってるのを見かけたって子がいて、それがすーごい良い雰囲気だったーってうちのクラスの子たちが話してるの、ゾエさん聞いちゃって。ひょっとして付き合ってるんじゃないのーって、うちのクラスの一部で話題」

「んだそりゃ」



 ゾエの言葉に、ほとんど無意識に眉を顰める。
 確かにあの日うちのクラスの生徒が教室に寄りつくことはなかったが、隣のクラスなんかにはまだ居残っているヤツらがいた。俺達を見かけたそいつらが、俺達の関係を変に勘繰った、ってことだろう。良い雰囲気だったとか、変なレンズ入れて見やがって。菓子食って駄弁ってただけだろーが。
 菓子食って駄弁ってただけで俺を好きだと自覚した女がいたのは、事実だが。



「アホか。なんでそれで付き合ってるどうこうになんだよ」

「まあ普通はならないけどさ、やっぱそれはカゲだからでしょ。カゲ、女の子となんかほとんど喋んないし、そもそも女の子の方がカゲを怖がってるし。学校で女子と二人ってだけで珍しいもん。……てか、ちゃんと一緒に居たのは否定しないんだね」

「……あの日は日直で、日誌書いてただけだ。で、書いてるうちに雨んなって傘忘れたっつーから、の親が迎えに来るまで一緒にいたんだよ。……もう大分暗かったしな」

「うわー、カゲ優しい。ゾエさん、感動しちゃった……。カゲがそんな風に他人に優しくできるなんて……」



 お前だってその場にいたらそうするだろ。
 茶化すというよりは心から漏れた感嘆じみたゾエの言葉に反論しかけて飲み込んだのは、その比較が何の意味も成さないことを知っているからだ。実際、ゾエが俺と同じ立場だったら、ゾエだって俺と同じようにと居残ったのは間違いない。面倒見の良いヤツだから、それどころか傘を借りられないか教員に尋ねに行ってどうにかしさえしたかもしれない。だろうと、別のヤツだろうと、ゾエはそうした。そういうヤツだから。
 俺は違う。
 ゾエも、だから、分かっていたんだろう。だから、放っておけなかったこと。一緒に教室に居残ったこと。俺の中で渦巻く感情をの正体を見抜いて、それごと膜の外側から包むようにゾエが「良かった」と半ば独りごちるように呟いたのは、ゾエが、俺自身よりも俺のことを良く理解しているからだ。
 勿論何もかも全部分かっているとか、そういうことではない。いくら去年同じクラスだったと言っても、がどんな感情を俺に抱いているのかまでは、今直接あいつと関わりのないゾエは察せない。ゾエの「良かった」は、俺に向けられたものだ。「良かった」。俺にそういう相手ができて。似合わねえ優しさを向けることのできる人間ができて。
 それがどういう意味を持つのかを、ゾエは知っている。



ちゃん、良い子だもんねえ」



 さほど腹は立たなかった。相手がゾエじゃなかったら、「知った口きいてんじゃねえよ」と噛みついたのは間違いなかったが。
 独りごちるように口にするゾエから伝わるぬるい感情に、それでも舌打ちだけはしてしまう。細められたゾエの眦。そこに映る自分は苦虫を噛み潰したような表情をしていて、さして腹に抱いた感情に差なんかないだろうに、それはあの日のとは対極にあるように思えた。