他の教室には残っている生徒の姿はちらほらあったけれど、C組にはやっぱり誰もいなかった。無人の教室は寒々しくて、呼吸一つにすら慎重になる。だけど変に丁寧に息を吸ったせいで、喉に乾いた空気が張り付いて、軽く咽せた。影浦くんは私の空咳に、鬱陶しそうな素振りすらみせなかった。
 影浦くんは外が見えるよう、身体を窓に向けて自分の机に腰掛ける。一方私はどうしたらいいのか分からなくて、彼の隣の、自分の席に腰を下ろした。窓を叩く無数の雨粒が今の状況を作り出しているのは間違いなくて、だけど私はそれにどんな感情を抱けばいいのか分からない。
 だって、二人きりだ。
 厳密に言えば、さっきだってそうだった。日誌を書いている間にクラスメイトは皆教室を出て行ってしまって、気がついたら私たちだけが残っていた。私たちの間には沈黙ばかりが落ちていて、会話なんて数えるくらいだったけれど、日誌がある分無言になって当たり前だったから、変に困りはしなかった。でも今はそうじゃない。私たちの間には、何もない。
 そろりと彼の方に視線を送る。この位置からだと、机に座る影浦くんの後ろ姿しか分からない。足を伸ばして、雨にくすんだ灰色のグラウンドを眺めていた。丸まった彼の背中を、私はついこの間まで怖いと思っていた。



「…………雨、まだやまなそうだねぇ」

「当分無理だろ」



 欠伸を噛み殺したようなぼやけた声で、影浦くんは答える。影浦くんは、私のことなんか全然気にしていないみたいだった。このまま急に誰かに電話をしはじめて、そのまま教室を出て行ったっておかしくないくらい、自然体だった。意識するにも足りない女、って思われているんだろうか。ちょっとショックだけど、それなら私も身構えなくていいから、楽だ。
 黒い学ランにつつまれた、影浦くんの猫背気味の広い背。癖の強い分、量が多く見える黒髪。左手だけが机に放られていて、彼の視線が外を向いているのを良いことに、ほとんど無意識にその手の甲を眺めてしまう。血管が太くて、がっしりしている。骨が浮き出て、なんでも掴めそうなくらい大きい。私のと全然違う。男の子の手って、こんななんだ。
 そんなことを考えていたせいで、「おい」って声をかけられても、すぐに反応できなかった。影浦くんの声をかき消すほど雨音が大きかったわけでも、その逆に影浦くんの声が小さすぎたわけでもないのに。
 ぐ、って私の見ていた影浦くんの手に力が込められて、影浦くんが半身をこちらに捻ったのと、「おい」って、彼が改めて口にしたのはほとんど同時で、それで私はようやく、あ、と思ったのだ。



「えっ、はい!」

「え、じゃねーよ。話、聞いてなかっただろ」

「き、聞いてなかった。ごめんなさい……。なに?」



 影浦くんは私の答えに呆れたように眉を寄せて、後頭部をがしがし掻きながらため息を吐く。そういう仕草ひとつひとつにも、私はいちいちどぎまぎしていた。



「だから――お前、家どのあたりだ、って聞いたんだよ」



 家。
 思いもよらない問いかけに、思わず目を見開いてしまう。
 表情や仕草から人の感情を読み取るのは不得意な方だったけれど、でも、影浦くんが気を遣ってくれているのは薄々分かった。だってこういうのって、気まずい沈黙を打ち消すのに丁度良い質問だから。得心がいって小さく頷いて、家の方角を指差す。



「え、えっと、あっち。蔵先町の方……!」

「あー、うちの先だな。じゃあ普段チャリか」

「うん、そう……天気が悪いときは歩くけど」

「あ? 歩き? 時間かかんだろそれ」

「うーん、そうだね。私歩くの遅いし、すごいかかる。なんかおじいちゃんに追い越されるときあるもん……」

「いや、それは追い越されんなよ」

「か、影浦くんは、なんかたまにバイクみたいなの乗ってるよね」

「バイクっつーか、あれ原付な」

「…………なにがちがうの?」

「…………」



 なんてことない会話だ。一か月も経てば日常に埋もれてどこに行ったのか分からなくなってしまうような。でも今机に深く座り直して、私の目を見て話を聞いてくれているのは、影浦くんだ。私はそれが、特別なことだと思っている。
 影浦くんは「んな話、別に興味ねーだろ」って言いながら、バイクと原付の違いを説明してくれる(排気量がどうとか)。興味なくはないけれど、二つを見比べてみないと良くわからないな、って思った。ゾエ――北添くんのことだ――が乗ってるのがバイク、って言ってたけど、私は去年同じクラスだった北添くんがバイクに乗っているところから知らなかったから。
 「原付は雨だと乗れないの?」って聞いたら、「こんくらいの雨なら乗れる」って、影浦くんは淡々と言った。じゃあ影浦くんは今日、原付じゃなくて歩いてきたのかな、って思った。防衛任務とやらが学校の近くだったのかも。ボーダーのことは首を突っ込んで良いのかよくわからなかったから、尋ねることはしなかったけれど。
 制服のポケットに入れている携帯は、まだ振動しない。教室に戻る道中でお母さんに迎えに来て欲しい旨を連絡しておいたけれど、仕事が終わる時間を考えたら、まだ当分はここから動けないだろう。雨もやむ気配はないし。
 原付の免許って取るの難しいの? とか、二人乗りってダメなんだっけ? っていう質問をしているうちに段々会話が続かなくなってきて、ちょっと迷ったけど、リュックサックからお菓子ポーチを取り出した。補充に補充を繰り返したそれは今日もパンパンで、私はそれを、一度膝の上に置く。それで、自分の机を、影浦くんの机にくっつけるようにずらした。机はゴンって音をたててぶつかった。丁度、席替えをしたあの日みたいに。
 私と影浦くんの机のちょうど真ん中あたりに改めてポーチを置いたのは、影浦くんに机を離されないようにするためだ。意を決して顔をあげたとき、影浦くんは、微かに瞠目して私を見ていた。「あの、影浦くん」。私の声は、緊張すると、いつも必ずどこかがひっくり返る。



「お菓子たべよ……!」



 だけど怖くないのに、緊張する必要なんかそもそもない。
 私は多分、影浦くんとお近づきになりたかったのだ。ずっと。








 お菓子を食べながら、進路とか中学のときのこととか、ボーダーに関する当たり障りのないこと(影浦くんから話してくれた。国近――柚宇ちゃんのことだ――と仲良いのか、ってとこから、ボーダーでの柚宇ちゃんのことを、少しだけ聞いた)、そういうなんてことない話をぽつぽつしていたら、お母さんから連絡が来た。もう着くよ、ってメールだった。おしゃべりに夢中になって気がつかなかったけれど、二十分前に「今から行くね」ってメールが来ていたのだ。



「わー! 気付かなかった!」

「迎えか?」

「うん、そう、お母さん、もう着くって」



 立ち上がって、慌てて帰り支度をして、その中で、「影浦くんも乗ってく?」って聞いた。だって雨はまだずっと降り続いていたし、やむ気配もちっともなかったから。影浦くんのおうちへは少し回り道をするだけでいいし、お母さんだって絶対断ったりしない。……あとで根掘り葉掘り聞かれそうだけど。
 でも影浦くんは「あー、いい、いらね」って、マスクを引き上げながら緩く首を振った。同級生の女子の母親の車に乗るのが嫌なのは分からないでもないけれど、でも、じゃあ影浦くんはどうやって帰るんだろう? もう外も暗くなり始めているのに。心配になって「帰れる……? 傘どこかで買ってこようか?」って尋ねる私に、だけど影浦くんは言ったのだ。



「――原付乗ってきてんだよ」



 流石にびっくりして、「ええっ!?」って声を出してしまった。私の声に影浦くんまで驚いていたけれど、なんでびっくりされないと思ったんだろう。だって原付があるってことは、影浦くんは、本当だったら帰れたのだ。「これくらいの雨なら運転できる」って、さっき本人も言っていたくらいなんだから。



「影浦くん、原付で来てたの? わ、私のことなんか置いて帰ってよかったのに」



 今日は原付じゃないんだって思い込んでいた。傘はない、って言った彼が教室に残る理由が、それ以外思いつかなかったから。だけど影浦くんは目を細める。バカ。って、その口が動く。私の望んだ、遠慮のなさで。
 だから、この時だったんだと思う。私が完全に、影浦くんのことが好きだって自覚したのは。



「暗くなんのに、一人で置いてけねぇだろ」



 本当に、なんてことないように彼が言ったその言葉に、私は恋に落ちたのだ。
 心配、してもらってた。ううん、それだけじゃなくて、初めてだったのだ。初めて名前を呼ばれた。覚えてないんじゃないかって思ってた。だって影浦くんは私のこと、おいとか、お前とかしか呼ばなかったから。
 冷えていたはずの身体が熱を持った。ぱって点滅した光に、雷でも落ちたみたいだった。わあって声が漏れそうになって、慌てて口を押さえた。小ぶりになりはじめた白い雨の線を背に、影浦くんは一瞬、ぎょっとした顔で私を見た。
 ――後になって。
 そう、後になって影浦くんはこのときのことを、「なんでだよって思ったんだよ」って言う。なんでこのタイミングで、好き、って感情がブッ刺さったのか、全然わからなかったって。
 飾らない言葉。神経質そうな眉。人の感情が刺さって感じるなんて、知らなかった。私の「好き」って気持ちが影浦くんの首筋に躊躇なく突き刺さって、影浦くんは息が止まりかけていたなんて、私は全然知らなかったのだ。